――『恋戦のラグナロク』。
それが前世でやっていた乙女ゲーの名前である。
作者不明。フリーゲームでダウンロード無料(ありがたい)。
なのに絵も内容もシステムも高完成度とされ、ネット評価は上々を誇っていた。
ストーリーの舞台は『文明崩壊した西暦五千年』。
人類は二千年代に科学文明を極めるのだけど、そこで問題が発生した。
あらゆる現象は振動によって起きている。
そこで、未来の精密な放射能技術により人体の大脳皮質グリア細胞を遺伝子的に変質。それによりV 層大錐体細胞機能を活性化させることで放つ脳波を調整・増幅させ、特定の固有振動を起こすことによる『概念事象の疑似発動』――俗称『概念魔術』に目覚めさせる実験中、被験者兼研究者の一人は望み通り、魔術に目覚めた。
だが彼に発現したのは『天変』の魔術。
それにより、世界は無理やりに崩壊した。
研究者を中心に起こったマグニチュード17に及ぶ超振動地震が地球上の構造物を全融解させ、全生命の九分九厘を殺した。
そして。
伝播する振動のふるまいを忠実になぞり――残った全ての生命は、脳が変容し、概念魔術に覚醒したのだった。
そうして至ったのが西暦五千年の世界。
文明レベルはまさに中世ファンタジー。構造物も人口も全部吹っ飛んだうえ、魔術に目覚めた野生動物――魔獣たちの暴威により、科学が消し飛んだ世界観となっていた。
そこで平民ながら素晴らしい概念魔術を持つ主人公は、魔術学園に入学して貴族とイチャラブしたり――というストーリーである。
それが『恋戦のラグナロク』の設定。
んで。
「……わたしが『悪役令嬢エリシア』かぁ。マジで?」
乗馬後。屋敷へと戻る馬車の中、わたしは己が手を見ていた。
細く白い子供の手。十歳にしても小さめだが、よく磨かれた爪は、とても大切に育てられていたことが分かる。
実際エリシアとしての記憶では、日常のほとんどの作業を使用人に任せてきたからねぇ。
「恋愛バトルする気なんてさらさらないわよ。ていうか転生ってあり得るの?」
ふむ、少し考察してみましょうか。
学歴主義過激派の親に束縛された生活の中、真面目っぽい本だけは娯楽に読めたからね。
雑学ならそこそこあるし。
「『転生』……東洋の宗教的概念だけど、科学的な推論は一応あったかしら」
――万物は流転するものである。
「いわゆるパンタ・レイという哲学的概念は、実際の科学にも通じる」
海の水が蒸発して空に昇り、雨となって地に還るように。
あるいはわかりやすくリサイクル用紙のように、あらゆる物質の構成物は世界を巡る。
人間も同じ。
三か月で全細胞が入れ替わるというように、呼吸や発汗など新陳代謝の連続により、ヒトの構成物も流転していく。
摂取した肉は家畜で――家畜を構成していたものは草で――その草を育んだのは、太古の人間の血肉や今の人間の呼気を孕んだ土なわけで。
そして。
「港町の雨にしょっぱいことがあるように、リサイクル用紙に前の紙の色の破片が混ざることもあるように。流転した物体に、前の物体の構成構造がたまたま残ることもある」
世界五分前説にも通じる理屈だ。
全ての人間は〝今までの人生〟という記憶を持った状態で、奇跡的爆誕を果たしたという理論。
考えてみれば突飛ではない。
ほとんどの野生動物は、その脳髄に本能というカタチで、狩猟の記憶を植え付けられて生まれてくるのだから。
「脳細胞の万分の一に『前の人間』らしい部位が構築されたなら。それがヒトカケラだろうと、脳全体を変えるふるまいをするかもしれない」
臓器を移植された人間が、ドナーの嗜好に目覚めることはままある。
脳内に構成された『前の人間』の残滓が人格内で発芽したなら、それは転生と呼んでも差し支えないだろう。
ま、乗っ取りともいえるけどね。
「はぁ。とはいっても異世界に……それも前世でやってた乙女ゲーキャラに転生っていうのは、ちょっとわけがわからないけどね」
もしかしたら、前世なんてないのかもしれない。
たまたまわたしエリシアの脳構造が、先刻の落馬の衝撃により『絵里という疲れた女の人生っぽい錯覚』を持った状態になったのかもね。
脳挫傷により物理的に
「はは。あるいは、こんなことを考える枯れた魂だからこそ、
転生、もしくは障害により脳に沸いた乙女ゲー知識がどれだけ当たっているかは、また実験するとして。
「今は、社交界からドロップアウトする方法を考えないとね」
と、そこで。きぃと音を立てて馬車が止まった。
揺れはほとんどない。それだけ御者が、わたしという『貴族の娘』を畏敬している証拠だ。
「エリシアお嬢様、屋敷に着きました」
御者の声と共に、恭しく馬車の扉を開けられる。
まずは一旦降りましょうか。転生についてあれこれ考えるのは、寝る前にでもできるしね。
「お嬢様……?」
「ああ、いま降りるわ。いい腕だったわよ、ありがとう」
「ふぁっ!?」
……いちいちそんなに驚かないでくれる?
◆ ◇ ◆
――辺境伯爵家・フェンサリル。
北欧神話において『海の宮殿』を意味する言葉だったか。
西暦五千年現在……前世でやってた乙女ゲー『恋戦のラグナロク』の地名は、神話モチーフになってるからね。
三千年前に文明崩壊してパソコンも書物も融解した人類が、最古の物語たる神話だけは残そうと足掻いた結果なのかも。
ともかく我がフェンサリル家は、祖国において重要な立ち位置にある。
なにせ国境領地を護る辺境伯だもの。山々を挟む形で、ちょっ~と西の方には敵国があるのよね。
わたしたちがサボタージュかませば侵略祭りが始まるってことで、王家も相当優遇してくれてるわ。
「いつの時代のどこの国も、利潤と権威は仲良しかぁ」
わたし――『悪役令嬢』エリシア・フォン・フェンサリルが第二王子様と婚約関係にあるのも、まぁそういうコトね。
「さてさて、どうしようかしら」
フェンサリル家領主邸――その豪奢な自室に戻ったわたしは、クソデカベッドに寝ころびながら考えていた。
どうすれば、婚約者の立場から抜け出せるかを。
「まずゲーム通りに進むのは論外ね。十五歳になれば学園編が始まって、そこで平民の主人公が入学してきて……わたしは最終的に破滅することになる」
脳内のゲーム知識がどこまで正しいかはわからない。けど流れはこうだ。
①主人公、ゲーム舞台となる『魔術学園』に入学。超優秀で活躍しまくりモテまくり。
②エリシア(わたし)嫉妬。婚約者たる第二王子も惹かれ始めているのを見て、暴走開始。犯罪まがいの嫌がらせをするも、主人公は撥ね返していく。
③そうして迎えた学園三年目。ここで隣国からの侵攻が起こり、学園生も出撃する大戦争が発生。そこで、
「嫉妬を爆発させたエリシアは、隣国の将と密約を結び、兵士を借りて、主人公を襲う」
もはやガチ国賊である。でもそこまでしなきゃ主人公は討ち取れない。
三年目までエリシアの嫌がらせに負けなければ、すなわち主人公は相当な実力者に育っているからね。
隣国の将からも警戒されているので、エリシアからの誘いはまさに渡りに船。それでエリシアと主人公の最終決戦が起こり……、
「主人公は負けたら戦死。逆にわたしが負けたら、捕縛の上で当然処刑と。……乙女ゲーって人死にが出るものなのかしら……?」
なんかおかしいのはわたしでもわかる。
まぁ『恋戦のラグナロク』は恋愛ゲーム+SLGの傑作って言われてたし、SLGの部分なのだろう。SLGがなにかは知らないけど。
「ともかくそんな終わりは勘弁ね。逆に王子様と上手くいくのも勘弁だわ」
破滅しないのは簡単よ。主人公に嫉妬や嫌がらせしなけりゃいいだけだし。
でも婚約もダメね。だってそうなったら、わたしは謀略渦巻く貴族界の中枢に送り込まれるわけだから。
「第二王子の嫁ってのが嫌すぎるわ。第一王子の正妻にとっては、
さらに成り上がりたい連中も接触してくるだろう。
第一王子の周囲は、当然ながら未来の大臣などが派閥を作っている。
そこから負けた連中は第二王子につき、第一王子の突然死に期待するだろう。そうすれば逆転だからね。
でも世には突然死〝させる〟ことを願う連中もいたり、そしてそういう者たちは王子本人ではなく、下剋上の意思を探るために
「はぁ~、ナシね。全部ナシ。考えるだけで嫌になる未来だわ」
わたしは前世で官僚をしていた。
だからこそ、政治に絡む『ヒトの悪意』というのが、よくわかる。
さきほどの未来予想がマイナス思考すぎだとしても、十分にあり得る展開でしょう。
「どうしようかしら。今から婚約者の地位もなにもかも投げ捨て、田舎でのんびり暮らす方法は……」
と、柔らかなベッドを転がりながら考えていた時だ。
不意にコンコンと扉が叩かれた。低いところから鳴る小さな音。これは、
「エリカかしら?」
「あらぁお姉様、起きてたの?」
可愛らしくもネチッこい声。それと共に扉が開けられ、銀髪の少女が入ってきた。
「元気そうねぇ、お姉様。馬から馬鹿みたいに落ちたそうなのにっ」
――彼女の名はエリカ・フォン・フェンサリル。九歳。
わたしの妹であり、全体的にわたしをちっさくしておかっぱにした感じの子だ。
その髪型は……うん。
「なんか、コケシみたいで可愛いわよね、アナタ」
「は、はぁ!? いきなり何よお姉様!? てかコケシってなに!?」
「なんでもないわ」
ツンツン通り越して明らかにわたしを嫌っている妹様。
この子は昔からそういう子だった。貴族ゆえなのか――長女であるわたしを蔑み、強い悪意を抱いている。
「ふ、ふんっ、人形じみたお姉様が、いよいよパーになったみたいね」
鼻を鳴らしながらわたしを睨む妹。
はは、人形じみたお姉様か。
……そういえば当主たる父には黙々と従い、妹のことは何言ってきても面倒だから無視してたわね。
冷酷なるエリシアの性格は、元々わたしに近かったのかもしれない。
「ああ、可哀そうなお姉様。乗馬やみみっちぃ勉学の成績だけはわたしより上だったのに、落ちた上に馬鹿になってそれもダメになったみたいね」
徹底的に罵倒しながら、妹は指を鳴らした。瞬間、
「貴族として最も大切な才能――『概念魔術』の腕は、エリカより劣ってるんだもん!」
エリカの片目と後頭部に、光の法輪が浮かび上がった。
そして右手の五指から伸びる光子の糸。現実には非ざる光景に、思わずつぶやく。
「概念魔術……アナタの宿した概念は、【繰糸】」
「そう、アンタと同じでね」
妹が殴りかかるように手を伸ばすと、光の糸がわたしをきつく縛り上げてきた。ぐえー。
「どんな概念を宿し、どれだけの腕前を発揮するかぁ。それが貴族にとっては最も大切。他国から国を護り、下民共を総べるにはチカラがいるわけ。その点さぁ……」
妹が嘲笑を深くし、わたしの左手を見てきた。
「お姉様はまだ、左手の人差し指と中指からしか糸を出せないのよねぇ?」
「そうね」
「才覚不足なのよバァァァカ。下民にレイプされて、死んじゃえ」
やれやれ酷い妹ねぇ。
でも、『悪役令嬢エリシア』が微妙に才能足りてないのは事実だったりする。
良くも悪くも際立たない凡才。無能よりもいっそきつい感じね。それで優秀な妹に煽られ続け、それで学園に入学することには、冷酷で嫉妬深い性格になってるんだったか。
わずかにあった独白イベントにて、優秀なゲーム主人公に対し、この妹の影を見ていたとされた。
「エリカ」
「なによ、アンタが無能なことにあんの?」
「ないわ。ただ、糸を解いてくれない? 痕が残ったら悲しいわ」
「ちっ。そうねぇ。エリシアお姉様は、第二王子の婚約者様だものね」
忌々しげにエリカは魔術を解除してくれた。
別に婚約者であることはどうでもいいんだけどね。
「くふふっ。にしても無能お姉様さぁ」
彼女はこちらを睨んでから、口元に嫌な笑みを作った。
「馬から落ちたのは凶兆じゃないかしらぁ?」
「どういうこと?」
「だって我が国『ティターンズ』は軍事国家なのよ? 戦争によりユーラシア大陸の大部分を支配した大国なの。だからこそ子女にも、乗馬や剣の修練が軽く課されるわけで」
まぁそうね。わたしが記憶を取り戻す前に乗馬してたのも、国の成り立ちが関係している。
「なのにお姉様ってば、今日は急に落馬しちゃったんでしょぉ? そんな女が王子様の婚約者だなんて、ちょっと不吉じゃなぁい?」
「――!」
む、むむむむっ!? 不吉、ですって……!?
「きゃはははっ! 国が一大事の時にアンタは役立たないって暗示かもっ! エリカに婚約者様を譲って、田舎にでも引っ込んだらぁ~!?」
「そうするわ――!」
「えっ」
コケシ妹の言葉にわたしは感謝した。
不吉。暗示。どちらも非化学な宗教的言葉。
でも、それはこの世界じゃ大いに意味を持つ。
「そうね。これは神々の思し召しね」
なにせ西暦五千年のここは、もはやファンタジーワールドだもの。
歴史の積層と科学知識が崩壊したゆえに神話は事実だったと思い込まれ、二千年代に魔術を開発した上で滅んだ人間たちは『神話の神々の子』とされ、ミレニアム教団なる宗教があるオカルト世界だ。
ならばこそ、
「ありがとうエリカ。アナタこそ国の宝よ」
「えっえっ」
「そう、アナタの言うとおりわたしは不吉な女。先刻の落馬は王家の威光に影を落とす暗示に違いないわ。それに気付いたアナタはまさに貴族の鑑。愛してるわギュ~」
「えっえっえっ!?」
感謝を告げながら妹を抱き締める。やわこいやわこい。
いやぁまさかオカルト的視点にこそ突破口があるとはね。
転生者だからってこの世界の人間舐めちゃダメね。
「じゃあ当主たるお父様に言ってくるわ」
「ちょっ、なにをっ!?」
え? なにって、それはもちろん。
「婚約者の座をアナタに渡して、わたしは田舎に引っ込みますって」
「ええええええええーーー!?」
うふふ。エリカなら強欲だからドロドロ社交界でも水が合うでしょ。
しんどい世界ではあるけれど、エネルギッシュに上手く泳げば権威は掴めるわけだしね。
わたしはエネルギーも欲もないから勘弁だけど。
「じゃあ行ってくるわアデュー」
「ちょまっ、待ちなさいよお姉様!?」
「待たない系お姉様なのよアデュー」
「なんなのぉ!?」
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【Tips】
・『概念魔術』
正式名称を脳波感応現象という、が、それを知る人間はもはやいない。
〝全ての事象は物体の振動によって引き起こされる〟
その考えの下、大脳新皮質内におけるグリア細胞のイノシトール三リン酸(IP3)受容体を放射線処置により意図的な形で破壊することで、V 層大錐体細胞機能を機能改造して脳波を固有の振動数に調整・強化し、
それが概念魔術の始まりである。
個人の脳を素体とした技術ゆえ、各々によって発現する魔術は違う。
ただし遺伝的に近い者(近親者)は近しい魔術を発現する。
なお使用に際して〝特定行動を行う〟という
元軍人たる認知症の老人が日本銃を持った瞬間に機敏な準備姿勢を見せる事例がごとく、身体的行動というのは脳をなによりも刺激するためである。
また魔術使用時には、魔術師の片目と後頭部に光子の法輪『
これは実際に光が放出されているわけではなく、魔術が使えるよう脳をデザインされた者(といってもこの世界では万人だが)が、独特な脳波の形を光波として捉えられるようになったからである。
・『エリカ・フォン・フェンサリル』
九歳の妹。
性格は強欲でイヤミったらしい。魔術の才覚は姉より上。
姉のことを無表情で人形のようだと思っていた。
「いつも無視してくるのになんなのよ今日はっ! ……いきなり大好きとか抱き締めてくるとか、なんの罠なわけ……?」
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