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第17話 観音菩薩と恵岸行者

「お師さま!おかえりなさい」


 とうの都、長安ちょうあんの一角にある路地ろじ恵岸行者えがんぎょうじゃ観音菩薩かんのんぼさつ出迎でむかえた。


「ただいま戻りました」


「どうでしたか?大切な大切な弟弟子おとうとでしくんとの再会は?」


「どうって……そうですね」


 金蟬子こんぜんしだった時と変わらない頑固がんこさは相変わらずあったが、数回の転生で随分ずいぶんたのもしくなっていた。


「あらぁ、とても楽しかったみたいですね〜!よかったですぅ」


 言葉に出さずとも表情に出ていたのか、恵岸行者がからかうように言う。


「恵岸?」


 少しとげのある言い方に違和感いわかんを覚えて、観音菩薩は恵岸行者を見るが、恵岸行者はニコニコと笑っていて。


「自分にぃ?その弟弟子くんの旅支度たびじたく手配てはいさせてるあいだに〜、感動の再会ができてよかったですね〜?もうね、自分は優秀なので?まあお言い付け通り終わらせましたけど?はい」


けれどもその横を向いた頬は少しふくつらになっていてくちびるとがっている。


「恵岸」


 恵岸行者の態度に、ああなるほど、と思い至った観音菩薩は申し訳なく思いながら声をかけた。


「なんですっ?」


「あなた、ヤキモチをいているのですか?」


「ヤ、ヤキモチなんて自分は妬かないですよ!食べられもしないのに」


 そう言って、恵岸は持っていた九環の錫杖しゃくじょうをガシャガシャとする。


「おやおや……ふふ」


 ご明察めいさつ、とでも言うようなその恵岸行者の態度に観音菩薩は苦笑した。


 そして錫杖を乱暴に振る恵岸行者の手を止め、観音菩薩に不機嫌な視線を向けてくる恵岸行者を真っ直ぐに見つめた。


「金蟬子は私の弟弟子おとうとでし。あなたにとっての前部ぜんぶ護法ごほう哪吒太子なたたいし貞永ていえい娘々にゃんにゃんのようなものですよ」


 恵岸行者の兄弟は多い。


 末の妹の貞永娘娘は今はまだ七つだ。


「それはわかっていますが……自分、なんだかモヤモヤしてしまったのですよ」


 修行が足りません、と恵岸は落ち込んで言った。


「私の配慮不足はいりょぶそくですね。ごめんなさい。有能なあなたにいつも頼ってばかりで……」


「お、お師さまが謝ることではないですよ!こんなに感情に振り回されるのは自分の修行不足ですから」


 しゅんとする観音菩薩に恵岸行者は慌てて言う。


 有能な、と言う言葉で恵岸行者の機嫌もだいぶ上向いてきたようだ。


「それではもう一仕事ひとしごと、これから頼んでも?」


「仕方ないですね!この恵岸、お師さまとお師さまの弟弟子おとうとでしくんのために、一肌ひとはだ二肌ふたはだもぬいで見せましょう」


「頼もしいです」


 にこやかに言う観音菩薩に、恵岸行者はふふふと笑い、ボロ切れをまとったった老人の姿に変化した。


「でもこんな姿でいいんですか?ちゃんとした身なりの方が……」


「これは選別のためです。唐の皇帝たるものが、ちゃんとこの錫杖しゃくじょう袈裟けさの価値を見抜くものかどうかの」


 自分もまた恵岸行者と同じようなボロボロの格好に変化して観音菩薩は笑う。


「そうなんですね。それじゃあちゃっちゃとやりましょう!」


 路地ろじから通りに駆け出す恵岸行者の後を歩きながら観音菩薩は呟いた。


「そう、すべては釈迦如来様のため、衆生しゅうじょうのため……」


「お師さまー!はやくきてくださーい!」


 観音菩薩の呟いた声は、先を行く恵岸行者には聞こえていないようだった。


「はいはい、今行きますよ」



 そして数日の後、観音菩薩が言った通りに玄奘は唐の皇帝太宗から呼び出され、錦襴きんらん袈裟けさ九環きゅうかん錫杖しゃくじょうを与えられ天竺に向けて旅立つのであった。


「とうとうですね、お師さま」


 太宗がつけたお供を引き連れ、白馬に乗った玄奘一行を雲の上から眺めて恵岸行者が言う。


「ええ、釈迦如来さまの……いえ、我々の悲願が叶う時が今、はじまったのです」


 馬上の玄奘は重要な役目に緊張しているようだが、その瞳は自信と天竺への期待にあふれている。


「でもお師さま、あんな普通の馬じゃ天竺まで無理ですよね」


「蛇盤山までなら余裕でしょう。そこで玉龍ぎょくりゅう交代こうたいさせます」


 その山にはいつか天竺てんじくへの取経者しゅきょうしゃのお供にするために、天界で暴れた龍を数百年前からつないでいる。


「玉龍、ちゃんとおぼえていますかね」


「さあ……とにかく今は玄奘の旅の平安を祈りましょう……」


 観音菩薩に倣い、恵岸も手を合わせる。


 玄奘の険しい旅は今始まったのだ。



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