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第105話 酔い覚ましのおまじない

 高翠蘭は急いでいた。


(早く……早くお祖父様と八戒さんに知らせなければ……!)


 猪八戒が酒の匂いだけでも酔ってしまうことは、周知のこと。


 だから烏斯蔵国の人々は誰一人彼に酒を近づけさせない。


 ただ一人を除いては。


 猪八戒に悪意を持っているのは、高翠蘭が知る限りただ一人だけだ。


 そして酒を勧められて断れない相手といえば。


「──お父様……」


 思い当たる一人の人物に、高翠蘭は悔しげに拳を握った。


 高翠蘭との縁組を望んでいた商隊長が烏斯蔵国を去ってからは大人しくしていたのだが、猪八戒に危害を加えるような行動をとった原因を考えるに、思いつくのはただ一つの可能性。


「オヤ、急いでドチラへ?」


「──っ!」


 突然背後から話しかけてきた声に、高翠蘭の肌がぞわりと総毛立つ。


 一度聴いたら忘れられない、その独特な声。


 人の言葉を真似ただけの、まるで人ではないかのようなものが喋っているように感じる気持ちのこもらない声だ。


 恐怖から立ち竦んでしまった高翠蘭は、負けるものかと気合を込めて振り返った。


 烏斯蔵国の人たちとは違う、目鼻立ちのはっきりとした彫りの深い顔に、太くて濃い眉毛。


 くっきりとした二重に長いまつ毛。


 国の女性たちは整った顔立ちの彼を美男子だと褒めていたが、高翠蘭は好みの問題か、そうは思えなかった。


 まるでなにか得体の知れない生き物が人の皮をかぶって紛れ込んでいるかのような、そんな不穏な気配を感じていた。


「ゴブサタしておりマス、スイランお嬢サマ」


「……ッヒッ!」


 丁寧にお辞儀をして挨拶をする商隊長に、高翠蘭は恐ろしさに息を呑んだ。



 その頃、酔い潰れた猪八戒はうなされていた。


 寝台で脂汗をかいて荒い息をくりかえしている。


「ふふ、ひどいザマじゃな、仔豚ちゃんよ」


「卯……ニ姐……」


 朦朧とする意識の中、これは夢だと猪八戒が瞬時に悟れたのは、彼女がすでにこの世のものではないことを知っているからだ。


 長い黒髪を伸ばし、両耳には橙色の玉を飾っている。


 切り揃えられた前髪からのぞく、少しつり気味の大きな目。


 生前と変わらない容姿の仙女はニコニコしながら猪八戒の額に手を当てる。


 夢なのにヒヤリとした中にもほのかな温かさが伝わってくる。


「……っ」


 夢だとわかっているのに、優しい感触に鼻がつんとして、猪八戒は目を閉じた。


「まったく、飲めない酒なんぞ飲むからだ」


「だって義父の誘いを断るわけにはいかないでしょー……」


 うつらうつらとしながら猪八戒が言うと、小さく笑う卯ニ姐の吐息がかかった。


 そして卯ニ姐は猪八戒の短い前髪を弄びながら額に円を二回描き、何かを唱える。


 昔、卯ニ姐と暮らし始めた頃、猪八戒がひどく酔った時に彼女がしてくれた酔い覚ましの法だ。


 それ以来、酒を飲むのをやめたので世話になることはないまま今生の別れとなったが。


 もしかしたら彼女はまだこの世を彷徨っていて、猪八戒の危機に現れてくれたのかも知れない。


 そんなことを思いながら猪八戒が心地良さに再びウトウトし始めると。


「仔豚の寝顔はずっと見ていたいくらいかわいいがな、そろそろお前は目覚めねばならぬぞ。猪八戒、高太公との契約を果たすのだ」


「───えっ?──って、いだだだだだだだだ!!」


 激しい痛みに眠気がすっかり吹き飛んだ猪八戒が飛び起きると、左手の薬指にはめた翡翠の指輪が光を放ってギリギリと締め付けていた。


 痛みの原因はこれだ。


「卯ニ姐……」


 一対の指輪であるこれは、もう片方の持ち主の危機を痛みと光で知らせてくれる。


「お嬢様……っ!」


 卯ニ姐の知らせはこのことか、と猪八戒は部屋を飛び出した。


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