玄奘は急いで殷温嬌に妙見菩薩から聞いたことを伝えた。
「
殷温嬌は口に手を当て、驚いた顔をして言った。
光蕋は玄奘の父である陳萼の
「はい。私はこれから唐に戻り、宰相の殷開山様にお会いしてお力沿えを願うつもりです」
玄奘が早口で告げると、殷温嬌の表情が安堵したものになり、そこから死の影が去った。
「殷開山はあなたのお祖父様ですよ。お祖父様にお会いするならばこれを」
殷温嬌は耳飾りを外して玄奘に手渡した。
玄奘の掌に乗せられた翡翠玉には金色の殷の字が刻まれている。
「これは私が嫁入りの時に継いだ殷家の翡翠玉。あなたは私と瓜二つだけれど、念のために渡しておきます。あと、それからお祖父様のところに行く前に寄って欲しいところがあるのですが……」
「寄って欲しいところ、ですか……?」
玄奘が問いかけると、殷温嬌は深刻な顔をして頷いた。
「洪州で暮らす陳萼様の母……つまりあなたの父方の祖母、張氏のところです」
殷温嬌によると、張氏は陳萼の江州での振る舞いに気を病み、暮らし向きも厳しいものになってしまっているようだった。
「劉洪の目があり私はお義母様に連絡を取ることはできません。薄情だとは思いますが……ですからどうか」
「わかりました」
玄奘が頷くと、殷温嬌は玄奘の手を撫でさすり、頭を下げた。
「では私たちはこれから洪州へと向かいます」
「なに?茶の一杯も飲まずに行くと言うのか?」
玄奘の言葉に驚いた殊音が悲しい顔をする。
「父を救わねばなりませぬゆえ。お茶は全てが解決したのちにいただきとうございます」
そう言うと、照慶は頷いた。
「お母上のことは寺に任せるがいい。安心してゆけ、玄奘よ」
「ありがとうございます」
「お師匠様、觔斗雲ならいつでも行けるぜ!」
孫悟空が玄奘を觔斗雲に手招きをして言った。
猪八戒と沙悟浄の手を借りて觔斗雲に乗り込み、玄奘は寺を振り返った。
寺の庭にはいつのまにか部屋に戻っていた子どもたちの姿もあった。
「げんちゃん!今度来る時はお土産なー!」
「お菓子お菓子!!」
元気な子どもたちのおねだりに、玄奘は頷いた。
彼らは玄奘の大切な家族たちだ。
「今度はたくさんお土産持ってきますからね!」
玄奘はそう言って手を振り、洪州へと向かったのだった。
「なんだか寺がやかましいな。何をしてやがんだか」
その頃、劉洪は酒を呷っていた。
昼間から私室に芸者を呼んで、だ。
「アニキ、いくらなんでも昼間っからはよくねえぜ」
気の小さい李彪はビクビクしながら辺りを見回して言う。
最近では劉洪の振る舞いが長官に相応しく無いと、唐の皇帝に上奏する動きがあると言う噂も聞く。
「この陳萼さまは唐の宰相、殷開山様の娘婿よ。ビクつくことなんてねぇっての」
後ろ盾もしっかりしているから、偽物だとバレなければ安泰だとたかを括っているが、十年以上騙し通せるとは劉洪も思っていないようで。
李彪の首根っこを掴み、その耳にささやいた。
「そろそろ潮時ってのもあるかもな。金目のものいただいてそろそろトンズラするから、準備しとけよ」
「へ、へぇ……」
お役人仕事よりも気ままな船頭生活の方が性に合っていた李彪は喜び、自室へと戻っていった。
「潮時ね……あいつのビビリもいい加減治らねえな。消すか」
劉洪はそう呟き、西域からの果実酒を呷った。
翌朝以降、李彪の姿を見たものは誰一人いなくなったが、一小役人の行方など誰も気に留めることはなかった。