貴族の間で激しく渦巻く新王への困惑と不信とは裏腹に、ジグムントは民衆の心を既に完全に掌握していた。
辺境の地で頻発していた紛争のすべてを六年がかりで平定したジグムント将軍率いる国境警備軍は、王都へ歩を進める道程で各地の貧しい人々の声に耳を傾け、
それもあって、ここ王都でも昨日のうちに将軍がクーデターによって王位を簒奪したことは既に広く知られていたが、先王の圧政に喘いでいた民衆はジグムントに抵抗するどころか、むしろ悪しき時代に幕を引いてくれた英雄か、国を救った救世主であるかのように喜んで彼を受け入れた。だから皆、その熱狂も冷めやらぬままに先王親子の処刑を見届けようと広場に詰めかけていたのだった。
「皆が知っている通り、昨日私は兄である先王ミカエル2世と甥であるサミュエル廃太子の罪を暴き、退位させた。よって王位継承法により、私ジグムントが新たにこのレバンテス王国の王となり、国を治める。これは神のご意思だ。そして罪深き先王とその息子は今ここで速やかに断罪されねばならぬ! よいな!」
当たり前だが、異議の声など出るはずもない。やがて集まった民衆からぱらぱらと拍手の音が聞こえ、それに続いて先王親子の罪を糾弾する声があちこちで生まれた。
「ミカエルを殺せ!」
「そうだそうだ、俺達を苦しめた先王とその息子を殺せ!」
「奴らの罪状を晒せ! 罪を認めさせろ!」
しばらくの間、黙って民衆の声を聴いていたジグムントが、再び右手を挙げてその場を制した。そして王は処刑台の下に控えていた刑吏に、先王とその息子を処刑台に上がらせるよう命じた。
頷いた刑吏が檻の戸を開けて、二人の男を荷馬車から下ろした。二人とも後ろ手に縛られ、顔は蒼白で、表情は屈辱に歪んでいる。身につけているのは麻のシャツとキュロットと、高貴な身分の白く柔らかな足にはとうてい釣り合わない粗末な木靴だけで、それもあちこち泥にまみれて汚れていた。
そのまま先王と廃太子はおぼつかない足取りで階段を上り、処刑台の上に引き出された。それまで面白半分で騒いでいた連中も、さすがに言葉を飲み込んで沈黙する。広場が静まり返るのを見計らって、向こう側にいたもう一人の刑吏が細く巻かれた羊皮紙を取り出して広げて、そこに書かれている判決を読み上げた。
「先王ミカエル。無計画な増税、他国への侵略行為、国費の私的流用、国防にまつわる機密情報の漏洩、敵対国との密約など、これらすべて国家に対する明確な反逆とみなす。よって王族としての姓を剥奪した上で死刑に処す」
「ぐ……う……知らん、私は何も知らん。こんな茶番があってたまるものか! ジグムント、すべてお前のでっちあげだ! 許さぬ、私はお前を永久に許しはしないぞ!」
斜め前方から広場を見下ろしているジグムントに向けて先王は声の限りに叫んだが、刑吏が頭を押さえつけて無理やり
「廃太子サミュエル。国費の私的流用、戦場における敵前逃亡、並びに一般市民への暴力行為と強姦の罪により、同じく王族としての姓を剥奪した上で死刑に処す」
それはフィオレンティーナにとって、耳を塞ぎたくなるような内容だった。まさか自分の夫になるはずだった男が、それもやがて一国の王となるべく育てられた王太子が、そのようなおぞましい罪を犯していたとは。彼女は震える両手で椅子の肘掛けを強く握りしめて、なんとか平静を保とうとした。だが本当の悲劇はここからだった。次にサミュエルが発した叫びが聞こえてきた瞬間、フィオレンティーナは衝撃のあまり視界が真っ白になった。
サミュエルはフィオレンティーナに憎しみに燃える視線を投げながら、こう叫んだのだ。
「フィオレンティーナ、この毒婦! お前は私と言う婚約者がいながら、そこにいるジグムントと情を通じていたな! だから喜んでこの男の妻になったのだろう! お前のようなふしだらな女が王妃だと!? 笑わせるな、この稀代の悪妃め!」
「ええっ!? 何ですって、フィオレンティーナ様が!?」
それまで静まり返っていた貴族席のあちこちから、驚きの声が上がった。フィオレンティーナは思わず椅子から立ち上がって声の限りに叫んだ。
「な、なんということを! 嘘です、すべてでたらめです! わたくしが以前からジグムント様と通じていたなど……!」
だがもう遅かった。狂ったように笑いながらなおも叫ぶサミュエルの姿に貴族達は恐れをいなし、それと同時にフィオレンティーナに疑惑の目が一斉に向けられた。
「嘘ではない、お前は裏切り者、売春婦以下の女だ! ゆうべ私の目の前でこの悪魔のような男に一晩中抱かれながらよがり狂っていたのが何よりの証拠ではないか! どうせ色仕掛けでこの男をたぶらかして、自分だけ甘い汁を吸おうと私と父上を売ったのだろう!」
「いいえ、いいえ、違います! 信じて下さい、わたくしはそのようなことはしておりません!」
フィオレンティーナは必死でサミュエルの言葉を打ち消そうとしたが、もう遅かった。
「やはりそうだったのですね……おかしいと思ったのですよ。あれだけの騒ぎの中でフィオレンティーナ様だけが無傷で、そのままジグムント様に娶られるなど、話ができすぎではございませんこと?」
「言われてみれば確かに。きっと本心ではサミュエル様との婚儀がお嫌だったのでしょう。だから裏で手を回して結婚式の真っ最中にあのような騒ぎを起こさせたのだわ。おお、恐ろしいお方」
「全く、これだから異国の人質の姫などを王太子妃に据えるべきではなかったのだ。あのような可憐な顔をして、結婚前から他の男と情を通じていたとは……もしやロリニュスから密命を受けて、我が国を混乱させようとしていたのでは?」
(違う、違う、わたくしはそんなことはしていない……お願い、信じて……)
フィオレンティーナが何か言おうとすればするほど、ざわめきは大きくなり、瞬く間にサミュエルの言葉を皮切りにありとあらゆる憶測が飛び交って、彼女を見る貴族達のまなざしには疑惑と侮蔑が満ちた。助けを求めて
「さっさと刑を執行しろ」
二日前から変わらない、何の感情もこもっていない、冷たく無機質な声……。フィオレンティーナの世界が、まるで鏡が割れるようにパリンと乾いた音を立てて崩れ落ちた。そのまま彼女はわなわなと震えながらがっくりと椅子に腰を下ろした。
「ジグムント……さま……なぜ……これもわたくしに課せられた償い……ですか」
「さあな。今に分かる。お前はあの時、私を恐れもしなければ敬いもしないとはっきり言った。ならば己ひとりの力で嵐に立ち向かえ。お前の誇りとやらを見せてもらう」
震える声で問いかけたフィオレンティーナを一瞥すると、ジグムントは再び処刑人に刑を執行するように手で合図をした。
二人の介錯人が先王とサミュエルの肩を掴んで、首切り台の上にうつ伏せにねじ伏せた。その間もサミュエルはフィオレンティーナを罵り、狂ったように叫び続けた。
「フィオレンティーナ、簒奪王にふさわしい稀代の悪妃! 汚らわしい色狂いの
首切り人が鋭い斧を振り上げた。その時一瞬だけ雲が切れて日差しが差し込み、よく磨かれた斧の刃が光に反射してフィオレンティーナの目をくらませた。次の瞬間、断末魔の叫びが広場に響き渡り、ドサリという鈍い音とともに二つの首が藁の上に転がり落ちると、処刑台に残されたさっきまで人間だった肉の塊から血が噴き出して、あたりを赤く染めた。
介錯人が藁の上から先王とサミュエルの切り落とされた首を持ち上げると、力を失った口から舌がだらりと垂れ下がった。そのまま群衆に向かって見せつける。奇妙な沈黙の後、あちこちから歓声とも悲鳴ともつかない声が上がり、やがてそれは一つになって、広場は興奮の渦に包まれた。ただその中でバルコニーに座っている王と王妃だけは、冷たく凍り付いた空気の中にいた。王は口元に残忍な笑みを浮かべ、王妃は血の気の完全に引いた真っ白な顔で、両目を見開いたまま微動だにしなかった。
(何もかも、狂っている……。わたくしとこの国はこれからどうなってしまうのでしょうか……)
フィオレンティーナの耳には、広場の喧噪がどこか遠くの世界での出来事のように聞こえていた。ここにいるのは自分ではない、別の誰かだ。わたくしの心は何も感じない。だが誰かに腕を掴まれて立ち上がるよう促されて、はっと現実に引き戻された。
腕を掴んだのはジグムントだった。
「目を閉じなかったのは誉めてやる。すべて終わった。戻れ」
強張った身体を無理やり曲げて王にお辞儀をしようとして、思わずフィオレンティーナはよろめいた。慌てて女官のターナー伯爵夫人が転ばないようその身を支えた。だがターナー伯爵夫人の顔も真っ青になっていることに気づくと、フィオレンティーナは居住まいを正して背筋を伸ばし、静かに微笑みながらこう言った。
「ありがとう、ターナー伯爵夫人。わたくしなら大丈夫ですわ。部屋へ戻りましょう。あなたも酷い顔色よ。戻って、少し休んで頂戴」