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episode_5  嵐の中の小舟 その3

 ランドルフ子爵夫人とベニーチェ男爵夫人が女官の職を辞したことはあっという間に宮廷の貴婦人達の間に広まった。当然のことながら、フィオレンティーナに対する悪意と冷笑の上塗りとともに。


 さらに悪いことに、先日の茶会の席でターナー伯爵夫人と口論になったくだんの侍女が、ランドルフ子爵夫人とベニーチェ男爵夫人に近づいて、二人からあることないことを言葉巧みに聞き出し、話を面白おかしく捻じ曲げて広めた。


 その結果、そもそも女官の職を辞したいと言い出したのは彼女達のほうからだったのに、なぜかいつの間にかフィオレンティーナが二人を常日頃から厳しい言葉で叱責して、ついには問答無用でクビにしたことになり、そのせいで後任の女官はいつまでたっても決まらず、ターナー伯爵夫人は有り余る雑事に忙殺されることになってしまった。


 フィオレンティーナの心はもう粉々に砕け散っていた。食事もほとんど摂らず、マージョリーやターナー伯爵夫人が話しかけてもしばらく何の反応も返ってこない時もある。元々細かった身体はさらに痩せて、ドレスがどれもぶかぶかになってしまい、サイズ直しが必要になるほどだった。それもこれも毎夜の激しく屈辱的な閨のせいだと、マージョリーはジグムントに激しい怒りと憎しみを抱くようになっていた。


 ある日の朝、いつものようにマージョリーが王妃の間のドアをノックしようとすると、中からすすり泣きが聞こえた。フィオレンティーナをはじめとした王族は、人前では涙を見せないように幼い頃から厳しく躾けられる。だから部屋の外にまですすり泣きが聞こえてくるなどというのはよっぽどのことだった。慌ててマージョリーが室内に入ると、寝台の上でフィオレンティーナが膝を抱えて嗚咽を漏らしていた。


「お目覚めでいらしたのですか。どうなさいました、フィオレンティーナ様? どこかお加減でも?」


 そっと声をかけると、フィオレンティーナはマージョリーにすがりついて、絞り出すような声で途切れ途切れに呟いた。


「マージョリー、お願い、わたくしを殺して」

「なっ、何をおっしゃいます、姫様! どうなさいました? どうかお心をお静めになって、何があったのか、全部お話しして楽におなりあそばせ。……国王陛下との閨がお辛いのですね?」


 殺して、などという言葉を耳にしては、マージョリーも心中穏やかではいられない。だがなんとか平静を装ってフィオレンティーナの隣に腰かけ、ゆっくりと背中を撫でて落ち着かせようとした。しばらくしてフィオレンティーナが口を開いた。


「わたくし、自分が許せないの」

「許せない……?」


 フィオレンティーナは小さくうなずいた。


「わたくしは本来なら、サミュエル様の妻になるはずだったわ。それなのにいつの間にかジグムント様に娶られて、こうして毎晩……閨を共にして……そこにわたくしの意思は一切なかった。従うしかなかったのよ。それなのにジグムント様はいつも、わたくしをひどく辱めるの。あなたも外で聴いているから、知っているでしょう?」

「え、ええ、まあ……」

「でも、わたくしが本当に辛いのは……そんな中で……歓びを感じてしまうことなの……ジグムント様にとってわたくしは、子をすためだけの存在、いいえ、それどころか、わたくしを憎んでさえいらっしゃる……それなのに、あの方に触れられて、心はそこにないのに、身体だけはどうしようもなく高ぶって、毎夜はしたない声を上げて、皆にすべて聞こえているのをわかっているのに、自分を抑えられない……。わたくしは皆が言うとおりのふしだらな女だわ……もう限界なの……マージョリー、わたくしを殺して。なぜわたくしは生きているの……なぜ、なぜなの、ねえ教えてマージョリー……お願いよ、誰でもいいから、今すぐわたくしを殺して……」


 マージョリーは涙を堪えながらただ黙ってその細い肩を抱いてやることしかできなかった。ゆうべジグムントが何を言ったのか、切れ切れではあったがマージョリーの耳にも聞こえていた。


『お前は俺を憎んでいるはずなのに、なぜその男に抱かれてこんなにも感じているのだ。やはりお前は稀代の悪妃の名に恥じぬ女だな』


 その言葉がどれほどフィオレンティーナを辱め、打ちのめすものであるか。マージョリーはずっとフィオレンティーナに仕えることだけに心を注いできたので、男と女の秘め事については正直よくわからない部分も多かった。だがそれでも、ジグムントとフィオレンティーナの関係がいびつであることぐらいは嫌というほど理解できた。マージョリーは思い切って、初夜からずっと心に抱いていた釈然としない思いを口にしてみた。


「なぜ国王陛下は、そこまでフィオレンティーナ様を憎まれるのでしょう」

「わたくしにも分からないの……でも」

「でも?」


 マージョリーの問いかけに、しばらく考えてからフィオレンティーナは答えた。


「もしかしたら、わたくしが生まれる前にお父様とお母様との間にあったことが関係しているのかもしれないわ」

「そうですか」


 マージョリーは考え込んだ。フィオレンティーナ様が生まれる前、そんな昔にあったことが回り回ってこんな災難となって降りかかって来るなど、あってなるものか。何かの間違いに決まっている。……だが待てよ、ということは、もし、それを正すことができれば、フィオレンティーナ様を救って差し上げられるかもしれない。そうだ、そしてその時には、あの憎い国王陛下をフィオレンティーナ様の足元に跪かせて、思い切り罵ってやることができる。


「……マージョリー?」


 険しい表情のマージョリーに、フィオレンティーナが心配そうに声をかけた。その呼びかけに我に返ると、マージョリーはフィオレンティーナのほうに向き直って、努めて明るい声で言った。


「フィオレンティーナ様、今少しだけ耐えて下さいませ。どこかに解決の糸口が必ずあるはずです。死ぬことなどお考えになってはいけません。お辛いでしょうが、生きて、もう一度お母様にお会いしましょう。私はいつでも姫様のおそばにおりますから、どうか」

「もう一度、お母様に会う……そうね、それまでは死ねないわね。ロリニュスを出る時に約束したのですもの」

「ええ、そうですとも」


 幼い頃の約束を思い出して寂しそうに笑うフィオレンティーナの姿に、マージョリーは必ず真実にたどり着いてみせると決意を新たにした。


 ジグムントの忠実な臣下であるトマス、そしてフィオレンティーナの心の拠り所とも言うべき侍女マージョリー。図らずもこの二人が抱いた疑念はほぼ同じものであった。だがそれぞれの主君がお互いに絡み合う宿命の糸の両端にたどり着き、こじれた心の扉を開くまでには、まだいくつもの苦難を乗り越えねばならなかった。


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