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第十九話「血夜の狩人」

 夜の街を駆け抜ける足音が、街の石畳を打ち鳴らし、冷たい夜風が血の匂いと共に運ぶ。彼女の名は──リリアナ。


「お願いです、持ちこたえてくださいませ、ミレーヌ……!」


 胸元を血に染めたミレーヌの体を抱きかかえ、私はただひたすらにギルドを目指して走った。小さな肩は驚くほど軽く、かすかな体温だけが彼女の命のタイムリミットを示していた。その温もりが徐々に消えかけているのだと考えるだけで、胸が締め付けられる。


(どうして……どうしてあの時、もっと早く私が……っ!)


 あの男の刃が光を裂き、ミレーヌの胸元に血の華を咲かせた光景が、頭の奥から離れない。脳裏に焼き付いたあの一瞬が、脚を前へと動かす力に変わっていた。


(この足じゃ間に合わない……!)


「武神──発動!」


 筋力と反射神経が極限まで強化され、走る脚が空を切る。


「な、なんだ!?」


「今何か通らなかったか!?」


(スピードは最大限に、揺れは最小限に忘れるんじゃありませんわよリリアナっ!)


私は自分に言い聞かす。


「もう少しですわ……ミレーヌ!だから、お願いです……!どうか生きて……!」


 赤く染まった手がミレーヌの背中を支えるたび、指先に染み込んだ血の感触が心に冷たく突き刺さる。だが、止まるわけにはいかない。あの温かい笑顔を、もう二度と失わないために──


--- 


 ──ギルドの扉を、私は肩で勢いよく押し開いた。


「誰か、ヒーラーを──!」


 扉の開く音と私の叫び声に、ギルドの喧騒が一瞬で静まり返った。酒を片手に笑いあっていた冒険者たちが、一斉にこちらを振り向く。その視線がミレーヌの血に染まった姿を捉え、驚愕と動揺が広がった。


「なっ!?おい、誰か!ヒーラーを呼べ!」


「くそっ、何があったんだ!?」


 ギルド内でざわめきが広がる中、人々が道を開ける。私はそのまま奥のカウンターへと駆け寄った。


「お願いです、誰か──!」


「リリアナ様!?どうなさいました!?」


受付のお姉さんが私のところに駆け寄ってきた。


「謎の男に刺されましたのっ!誰か癒せる方はおりませんか!?」


「かしこまりました。すぐに手配を──」


お姉さんが救援を呼びにカウンターへと向かおうとしたところで、


「どいてください、私が診ます」


 その声に振り向くと、長い金髪を後ろで束ねた女性が駆け寄ってくるのが見えた。


「私の名前はシルヴィア。ギルド専属のヒーラーです」


彼女は冒険者たちをかき分けて私のもとへと駆け寄り、血に濡れたミレーヌを両腕で受け取った。


「彼女はギルドが雇っている数少ないヒーラーです。その力はこの国でも折り紙付きです。彼女に任せておけば大丈夫でしょう」


と言う受付のお姉さん。


「……ひどい傷ですね。今すぐ治療します」


 シルヴィアは床に膝をつき、ミレーヌを横たえると、その胸に両手をかざした。


回復魔法ヒール・レストレーション!」


 柔らかな光が彼女の手のひらから溢れ、ミレーヌの胸元の傷を包み込んでいく。血の流れが止まり、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていくのが見えた。


(よかった……これで、これで──!)


「ミレーヌ……!」


 私は思わず彼女に駆け寄り、その顔を覗き込む。だが──


「……っ」


 ミレーヌの瞼は閉じたままだった。


「ど、どうしてですの!? 傷は塞がったはずでは!?」


 私はミレーヌの肩を揺さぶるが、彼女は答えない。胸元の傷が塞がったというのに、その呼吸は浅く弱いままだった。


「申し訳ありません。私の力が及ばず……」


 その時、シルヴィアが眉をひそめ、唇をかみしめて私を見上げた。


「どう言う事ですの!?」


「……ただの傷ではありません。これは、もしかすると……『呪い』の類かもしれません」


「……呪い?」


 その言葉が、頭の奥に鈍い衝撃を与えた。


「ええ。通常の武器で負った傷であれば、回復魔法で治せば意識も戻るはずです。ですが……この子はあれほどの出血を止めても、いまだ目覚めない。私は自分で言うのもなんですが、これでもこの国では一二を争うヒーラーなんです。となれば考えられるのは、呪いの付与された武器で負った傷です」


「そんな……!」


 あの男の双刃──《影牙の双刃》が脳裏に浮かぶ。あの刃はただ肉を裂くだけではなかった……?


「では……ではどうすれば、この呪いを解くことができるのですか!?」


「それは……申し訳ありませんが、私の力では不可能です。……いいえ、私に限らずこの街のヒーラーの中に、呪いを解ける者は居ないのです……」


「そんな……」


 私の胸に重い絶望がのしかかる。今までどんな敵も、どんな魔獣も、私の力で全てねじ伏せてきた。だが──今回ばかりは、私の剣もスキルも何の役にも立たない。


私の力は”戦うもので”あって、誰かを”癒すもの”ではない。それが今はとにかく憎い。


「どうすればいいのですか、ミレーヌを助けるには……っ!」


 思わず叫んだその時、ギルドの奥から重い杖をついた白髪頭の老人がゆっくりと近づいてきた。深い皺の刻まれた顔には、どこか優しさと哀しみが混じった表情があった。


「……嬢ちゃん、少しワシの話を聞いてくれるかい?」


「あなたは……?」


「ただの年寄りさ。そこのお嬢さんを助ける手がかりになればと思ってな……ワシは昔、ある放浪しているヒーラーに命を救われたことがあるんだ」


「放浪の、ヒーラー……?」


「ああ。名を『アスフィ』という」


「アス…フィ……」


 (その者ならミレーヌの傷も治せる……?)


「その人はミレーヌの呪いも解けるのでしょうか?その方は今どこに!?」


「ああ。あの人はどんな呪いも癒やせると噂されていた。ワシも若い頃、旅の最中に魔獣の呪いを受けて死にかけたが、彼が助けてくれたんだ。あの優しい光は今でも忘れられん……だが、あの人は風のように現れ、風のように去っていく放浪者だ。今どこにいるのかは、誰も知らない。それも今生きているのかさえ……」


「……」


私は肩を落とした。その者が今現在生きているとすればきっとかなり年老いた者。

それをリリアナは理解し、目の前の絶望という現実に再び目を向けることになる。


「……だが、もしあの人が今も生きていれば、このお嬢さんもきっと助かるだろう」


 老人の言葉は、わずかではあったが胸の奥に光を灯した。今はただの希望かもしれない。だが、その光にすがるしかなかった。


(必ず……必ず、私はミレーヌを助けてみせますわ!)


「ありがとうございます……! 私、必ずその方を探し出してみせますわ!」


(ミレーヌを助ける可能性が1パーセントでもあるのなら私は迷わずその者を見つけて見せる!)


「ふむ……若いのに強い目をしているな。だが、決して欲を出すものじゃない。仮に彼が生きていたとしても、彼がこのお嬢さんを治してくれるとは限らん」


「ええ……肝に銘じておきますわ」


 私は再びミレーヌのそばに戻り、その手をそっと握り締めた。まだ温もりが残るその手は、今にも消えてしまいそうで──けれども、私はそれを決して離さないと誓った。


「ミレーヌ、絶対に貴女を救いますわ。どうか、それまで諦めないで──」


 その声は夜の静寂に吸い込まれ、やがてどこか遠くへと消えていった。



──そしてその影は、夜の闇の中で密かに次の一手を待ち構えていた。



---


 夜の帳が街を覆い尽くし、遠くで灯るランタンの光が石畳にぼんやりと影を落としていた。ギルドが静寂の中、ミレーヌの浅い呼吸だけが、かすかに響いていた。


 震える声が喉の奥から漏れ出そうになるのを、私は奥歯を噛み締めてこらえていた。今は泣く時ではない。目の前にあるのは、私が守り切れなかった命。その責任を果たすために、私はここにいるのだから。だが、まだ希望は残されている。


「ご無理はなさらず……」


 シルヴィアが私の肩にそっと手を置いた。


「今夜はここで休んでください。この子の容態はしばらく安定するはずです……あなたも依頼を終えたばかりで疲れているでしょう」


「……いえ、私はここを離れませんわ」


「ですが……」


「お願いです。私に今できることは、これだけですので……それに私はまだ疲れてはいません」


 シルヴィアは一瞬口を開きかけたが、結局何も言わずにそっと頷いた。足音を残して去っていく彼女を見送り、私は椅子に腰掛けると、ミレーヌの手をもう一度そっと握り締めた。


「ミレーヌ……どうか、もう少しだけ頑張ってくださいませ。必ず、必ず助けてみせますので……!」


 涙が滲んだ。けれど、それを零すわけにはいかなかった。今、私が弱音を吐けば、この小さな手の温もりが消えてしまう気がしたから。


「私が必ず貴女を助けると決めたのですから……っ!」


 ---


──その夜、街の片隅で黒い影が笑っていた。


「フン……随分と心に傷を負ったようだな。だが残念だ。お前に訪れる朝は、もう二度と来やしない」


 影の瞳が、獲物を見据える獣のように妖しく光る。


「今夜は、この双刃が最高の舞台を迎える夜だ。──さあ、ショーの幕開けだぜ。お前の命を刈り取ってやるよ……令嬢冒険者」


 冷笑が夜の闇に溶け、静寂だけが残された。

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