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第二十四話「約束の地」

 ──空は果てしなく広く、道は限りなく遠い。


 幾度となく同じ風景を目にしながら、私はひたすら歩き続けていた。


 出発してからもう一週間が経とうとしている。けれど、未だ「アスフィ」という名の人物の影すら見つけられていない。


 足元に広がるのは、雑草と泥が入り混じった細い獣道。遠くには灰色の山々が連なり、深い森がその裾を覆っていた。足音を吸い込む湿った土の感触と、草木を擦る風の音だけが耳に残る。


 右手には《焔銀の剣》を握り、傷ついた左手腕をかばうようにして歩く。服には戦いの痕跡が残り、肩には魔獣の爪が掠めた傷が生々しく痛んでいた。


(……また無駄に体力を消耗してしまいましたわ。……それに今回は傷が治らない)


 ギルドの宿での一戦、私の傷は確かに治っていた。しかし、今はそれが無い。


(回復には何か条件が……?)


 この一週間、私は何十体もの魔獣と戦ってきた。中にはBランク、Aランク相当のものもいた。だが、それらは全て必要のない戦闘ばかりだった。


 魔獣の襲撃を避けるために道を選んでも、結局は奴らの縄張りに足を踏み入れてしまう。結果として、戦わざるを得ない場面ばかりが増えていた。


「はぁ……はぁ……」


 深く息を吐くたびに胸が重くなる。背負った鞄の重さよりも、心の中に積もった疲労感が体を押し潰しそうだった。


(これではいけませんわ……私はミレーヌを助けるために来たのです。こんなところで立ち止まっている場合では……)


 そう思っても、足がなかなか前に進んでくれない。体の奥から湧き上がる倦怠感と、心を蝕む焦燥感が、思考さえも鈍らせていく。


 ──そして、何より恐ろしいのはだった。


(……もし、この旅が無駄だったら?)


 その考えが頭を過ぎるたび、胸の奥に冷たいものが広がっていく。


(そもそも『アスフィ』という方は本当に存在するのでしょうか?あの老人の話も、もしかしたらただの昔話かもしれませんのに……それに存在しても、きっとかなりのお年の筈)


 考えれば考えるほど、心の中に小さな亀裂が増えていくのを感じる。


(それでも……それでも私は……!)


 無理やり足に力を込めて、一歩を踏み出す。


(私が立ち止まれば、ミレーヌはもう二度と目を覚ますことができない。だから……だから私は──)


「──グルルルル……」


 低い唸り声が、茂みの奥から響いた。


 瞬時に意識を集中させ、右手に握る剣を構える。全身に緊張が走り、血の巡りが一気に加速する。


「またですの……!」


 茂みが揺れ、黒い影が飛び出してきた。


 ──《ダスクウルフ》。


 体長二メートルを超える黒狼の魔獣。夜の闇に紛れて獲物を襲うことで知られ、その牙は鋼すら噛み砕くとされている、Bランク相当の魔獣。


 普段の私ならこんなもの相手ではない。だが──


「くっ……!」


 獣の赤い瞳が獲物を捉え、地を蹴る音と共に猛然と飛びかかってきた。私は反射的に足を踏み込み、剣を横に振り抜く。


「斬界・壱式──!」


 銀の軌跡が夜の闇を切り裂き、獣の前脚を切断した。


「ギャアアァァッ!!」


 血飛沫を上げながらも、ダスクウルフはなおも吠え声を上げて距離を取る。だが、その動きに迷いはない。獲物を逃さんと目を光らせている。


(耐久力が高い……今ので仕留め切れなかったのはかなり痛いですわね)


 次の瞬間、獣が低く唸りながら再び襲いかかる。


「このっ……!」


 剣を振るうも、疲労と痛みで動きが鈍い。刃が空を切る音が響き、反撃の隙を与えてしまう。


「グアアァァァッ!!」


「きゃあっ!!」


 獣の爪が右肩を裂き、赤い血が地面に散った。


 その衝撃に体が大きく揺れる。


「くっ……!」


 それでも私は剣を振り上げ、最後の力を振り絞った。


「武神──発動!!」


 全身に力がみなぎる感覚が走る。だが、それはこれまでのように鮮烈なものではなかった。疲労と傷がその効果を薄れさせているのを感じる。


(いつもの調子が出ない……それになんだか視界がぼやけて……)


 この一週間、飲まず食わずでやってきた。もちろん食料を探すことも出来たことだろう。

 しかし、私にはそんな時間すら惜しい。そんな時間があれば、一刻も早くそのアスフィという人物を探し出し、ミレーヌを助ける時間に使いたかった。


それに何だか同じ景色ばかり見ている気がしていてならない。


「これで……終わりですわああああああっ!!」


 渾身の一撃を振り下ろす。


「斬界・終式!!」


 刃が空を裂き、ダスクウルフの首を一閃した。


「ギャアアァァッ……!」


 断末魔の声が夜空に響き、やがて地に伏した。


「はぁ……はぁ……」


 私は膝をつき、剣を杖のようにして息を整える。


(これで……何体目でしょうか……もう数えるのすら面倒ですわ)


 視界が揺れる。意識が遠のきそうになるのを必死にこらえる。


(だめですわ……こんなところで倒れる……わけには……)


 震える手で剣を鞘に収め、立ち上がる。


(……でも、もう限界かもしれませんわ)


 その言葉が胸の奥に重く沈んだ。


 空を仰ぐと、満天の星々が夜空を埋め尽くしていた。


 その美しさが、なぜか今は遠く感じた。


「……どうすればいいのですの……ミレーヌ」


 呟きが夜の静寂に溶けていく。


(もう……戻ろうかしら……)


 そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥に痛みが走った。


(……だめですわ……)


(私が諦めれば、ミレーヌは……それにここまで来たんですもの)


 だが、その人物に近付いているのかすら分からない。もしかしたら遠のいているのかも知れない。一度でもそう考えてしまうと、今ままでの疲労が一気に体に、心に押し寄せてくる。


「……でも、もう……もう、疲れましたわ……」


 瞼が重くなり、とうとう私は地面に倒れ込んだ。


「……ごめんなさい、ミレーヌ」


 満点の星が輝く夜空を仰ぐ私の意識が遠のきかけたその時──


「……大丈夫ですか?」


 突然の声に、私は驚いて顔を上げた。


 今にも疲労で重い瞼を、全力で見開き見る。


 そこに居たのは青年。……一人の青年が地面に倒れた私を覗き込んでいた。


 薄いベージュ色のローブを纏い、茶色の髪を風に揺らす青年。

 穏やかで優しげな瞳が、夜空の下で私の顔を覗き込んでいた。

 その姿はまるで長い旅を続けてきた放浪者のようでありながら、どこか俗世のものとは思えない静けさを纏っていた。


(……イケメン……です……わ)


 その感想が思わず脳裏を過ぎる。

 貴族育ちである私の周りには、顔立ちの整った者は少なくなかった。

 だが、それでも彼の容姿には人を惹きつける不思議な魅力があった。

 端正な顔立ちに優雅な身のこなし。

 柔らかな茶髪は月光に淡く輝き、その白い肌には旅人らしからぬ清潔感が漂っていた。


 だが、私はすぐにその感想を打ち消した。


(見た目に惑わされてはいけませんわリリアナ……!それにこんな事つい最近にもあったきが……)


「あなたは……誰ですの?」


 声を張り上げる余裕はなく、それでもできる限り鋭い視線を向ける。

 だが、青年は微笑んだまま一歩も動かない。


「……安心してください。僕は敵ではありません」


 その声は驚くほどに穏やかで、心に沁み込むような優しさを持っていた。

 だが、その落ち着きこそが私に警戒心を抱かせた。


(そんなセリフもまた、つい最近聞いた気がする……)


「ですが、どうしてこんな場所に……?まさか、私をつけていたわけではありませんわよね?」


「とんでもない。偶然通りかかっただけですよ」


「……偶然?」


「ええ」


 青年はふっと笑い、静かに歩み寄ってくる。

 だが、その足音には不思議なほどの軽さがあった。


(気配も音も……ほとんど感じられませんわ)


「大丈夫ですか?随分とお疲れのようですが……」


「……放っておいてくださいませ。これくら──」


 そう言いながらも、体は疲労と痛みで動けず、再び地面に倒れ込んだ。


 青年は距離を保ったまま、少しだけ首を傾げた。


「そんな状態で、これ以上進むのは無理ですよ。無理をしても、状況は悪化するだけです。少し休んではいかがですか?」


「……私には時間がありませんの」


「その様子では、時間があっても体が持たないでしょう」


「っ……!」


 反論しようとして言葉に詰まる。

 青年の声は穏やかなものだったが、その瞳には意思強さが感じられた。

 まるで私の心の奥を見透かしているかのような。


「ですが……私は行かなくてはならないのです」


「……探している人がいるのですね?」


「……っ!」


 胸が跳ねる。

 どうしてそれを──?


「顔を見れば、わかりますよ」


「……」


「もしよろしければ、少しだけお話を聞かせてもらえませんか?」


「……あなたに話したところで、何になるというのですか」


「何になるかはわかりません。でも、少なくとも、あなたの心を少しでも軽くすることはできるかもしれません」


「……っ」


 その声は優しく、けれども不思議な説得力を持っていた。


「……私は……」


 言葉が喉の奥で詰まりそうになるのを、なんとか飲み込んだ。


「私は、『アスフィ』という名のヒーラーを探していますの」


「……アスフィ?」


 青年の目が僅かに見開いた。


「ええ。その方なら、私の大切な人を助けてくれるはずなのです。けれど……一週間も歩き続けましたのに、手がかり一つ見つかりませんでしたわ……」


 気づけば、胸の奥に溜め込んでいたものが言葉となって自然と溢れ出していた。

 ……誰かに話すことで楽になれる気がした。


「……もう、どうすればいいのかもわからなくなってきましたの。もし、このまま何の手がかり一つ見つからなかったら……私は……っ!」


「大丈夫です」


 その言葉はあまりにも自然で、けれど私の心の奥にまっすぐ届いた。


「あなたの旅は、きっと無駄にはなりません。そう信じることができるなら、きっと道は開けますよ」


「でも……」


「それに、あなたは独りではありません」


「……っ!」


「あなたの心の中には、助けたい人の想いがある。だからこそ、ここまで来られたのでしょう?」


 私は言葉を失った。

 胸の奥に広がっていた暗闇が、少しだけ光に照らされるような気がした。


「……あなたは……一体……?」


「ただの通りすがりの者ですよ。……でも──」


 青年は微笑んだ。


「これまでの貴方の旅は無駄ではありませんでした」


「……?」


「では、そろそろ行きましょうか。夜風に長く当たっていると、体を冷やしてしまいます」


「え……?」


 気がつくと、私は青年の手に支えられて立ち上がっていた。

 その手は驚くほど温かく、疲れた体を包み込むような優しさを持っていた。


「少し歩きましょう。夜道は足元が危険ですから」


「で、でも……っ!」


「大丈夫です」


 その声に、私はなぜか逆らう気になれなかった。


 ---


 二人は夜の獣道を静かに歩いていく。


 月光に照らされたその背中は、どこまでも静かで、どこまでも温かかった。


(……不思議ですわ。どうしてこんなにも、心が落ち着くのでしょう……)


 夜風に揺れる茶髪と、薄いベージュのローブが月明かりを優しく照らす。


「さあ、行きましょう。きっと、この先に貴方が求める答えが待っていますから」


 その言葉が、胸の奥に小さな火を灯した。

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