──夜の静寂に包まれた森の奥、その場所はまるで別世界のようだった。
異世界で”別世界”と表現するのもおかしいが、そう思っても仕方がない程に神秘的だった。
「……ここは」
私の視界に映ったのは、木立の中にぽつりと佇む小さなログハウスだった。
木の皮をそのまま生かした外壁は素朴で温かみがあり、窓から漏れる橙色の光が夜の闇を優しく照らしている。
「これが……僕の家です」
青年は、静かにそう告げた。
リリアナとして転生した私からすると、とてもじゃないが大きいとは言えない。
だが、その控えめで穏やかな佇まいは、どこか人生の終末に辿り着いた者が、最後に選ぶ理想郷のようにも思えた。
「……いいお家ですわね」
「ありがとうございます。僕も気に入っています」
言葉を交わす間、胸の奥に漂っていた緊張が少しずつ和らいでいくのを感じた。
不思議と、この場所には戦い続けてきた心を癒す何かがあるように思えた。
だが──
「アスフィ?お客さ……誰その女」
不意に耳を掠めた声に、私は反射的に視線を向けた。
ログハウスの扉が開き、現れたのは黒い長髪に猫の耳を持つ少女だった。
緩やかに垂れた耳が感情を隠すように揺れ、黒い瞳がじっとこちらを見つめている。
(……やはり、亜人がいたのですね)
この世界が"異世界"だということを、私はすっかり忘れていた。
ミレーヌを助けるためだけに駆け抜けたこの一週間は、そんな現実を意識する余裕すら奪い去っていた。
「彼女は……えっと……」
アスフィは口篭った。
それを見て、私は軽く息を整えると口を開いた。
「あ、申し遅れました。私の名は、リリア──」
名を名乗ろうとした瞬間だった。
胸の奥に残っていた疲労が一気に押し寄せ、視界が揺らぎ、足元から力が抜けていく。
「……っ!」
鞘で体を支えようとするも、体が言うことを聞かず、私は地面に倒れ込んだ。
「……その人、傷だらけだね」
「うん、かなり無茶をしていたようだからね」
二人の会話が遠くで響いていた。
耳に届くのに、言葉として理解できないもどかしさが苛立ちとなって胸に渦巻く。
(せっかく……手がかりを知っていそうな方に出会えたかもしれないというのに、私は何をしていますの……動きなさいリリアナ……っ!)
力を込めても、体は微動だにしなかった。
(どうして……あの時のように傷が癒えませんの……)
ギルドの宿でのあの戦いでは、いつの間にか傷が消えていた。
けれど、今は違う。肩の傷は熱を持ち、足元にまで重さを引きずっていた。
(どうして……どうして……!)
焦燥と無力感が胸を締め付ける。
そんな中、黒髪の少女──レイラの声が微かに耳に届いた。
「……ねぇアスフィ、その人癒してあげたら?」
「レイラがそう言うなら……でも、僕らが干渉すれば彼女の運命が変わるかも」
「なら放っておいて。レイラはアスフィさえいれば構わないから……でも、後悔だけはしないで」
その言葉に、アスフィはしばし沈黙した。
「……はぁ、全くレイラには敵わないや。分かったよ、なら僕は"後悔しない道を選ぶ"──『ヒール』」
柔らかな光が視界を満たした。
(……これは……)
全身を包む暖かさが、痛みを優しく溶かしていく。
鋭く疼いていた肩の傷が、じんわりと癒えていくのを感じた。
(……痛みが……消えていく……?)
その感覚に、思わず目を見開いた。
光が消える頃には、全ての痛みが嘘のように消え去っていた。
「……私に何を?」
「『ヒール』、初級の回復魔法です」
「初級……初級でこんなにも回復するものですか!?」
驚きが声に滲む。
「まぁ、その辺は深入りしないでください。……で、どうですか?動けそうですか?」
「ええ、ありがとうございます。おかげで現状の把握が出来……ん?」
「どうしました?」
(体が癒えて、頭がやっと回り始めましたわ。さっきの回復といい、あの黒髪の猫耳少女が呼んでいた名前……)
「……アスフィってあなた……でしたの」
その問いに、青年──アスフィは穏やかに笑みを浮かべた。
「はい。僕が君の探し求める人物……ですかね。少しイメージと違いましたか?」
「少しも何も……てっきりご老体を想像していましたわ……ではあの方が言っていた話は一体……」
記憶の中の老人の言葉が、頭の奥でこだまする。
──放浪のヒーラー『アスフィ』。かつて多くの人々を救い、そして風のように消えた男。
(でも……目の前にいるのは、どう見ても青年ですわよね……)
頭の中で答えの出ない疑問が巡る。
だが──今はそんなことよりも伝えなければならないことがある。
「どうか、お願いいたしますわ!」
私は深く頭を下げた。
「私の友を……ミレーヌを助けていただきたいのです!」
(今の私は貴族じゃない。頭を下げて友の命が救えるなら、いくらでも下げるっ!)
それが、この一週間の旅で得た唯一の答えだった。
「……すみません、それはできません」
「……え?」
その言葉はあまりにもあっさりと告げられた。
「これ以上、僕が貴方に干渉すると何が起きるかわからない。それは君にとっても、この世界にとってもです」
「せ……かい?」
その単語が胸に引っかかった。
「”リリア”さん、で良かったですか?」
「あ、申し訳ありません!私の名はリリアナ・フォン・エルフェルト。一応冒険者をやっておりますの」
「……冒険者、ですか」
「何か?」
「いいえ、少し昔を思い出しただけです」
(この方も冒険者だったのですね……)
どこか遠くを見るような眼差しが、彼の過去を物語っているように見えた。
「なら──リリアナさん、貴方は"神"を信じますか?」
「……宗教の話ですの?」
「いいえ、僕は至って真剣です」
(神……)
その単語に、胸の奥が重くなるのを感じた。
(私が神を信じたことなど、一度もありませんわ)
賽銭箱に金を入れ、手を合わせて祈る人々を馬鹿にしていた過去を思い出す。
なぜ祈るのか。なぜ神に縋るのか。
なぜ……自分の力を使わないのか。
(私は神も、他人も信じたことがなかった)
ブラック企業に勤めていた日々。
過労とストレスに追われながらも、いつか報われると信じて働き続けた。
だけど、結局はトラックに轢かれ、あっけなく終わった人生。
(……でも、今は……)
目を閉じれば、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。
血に染まったミレーヌの体。
その命を取り戻すために、私はここまで歩いてきた。
だけど──
(もし、この旅が無駄だったら……)
その考えが、心の奥を締め付ける。
(……もう、後悔はしたくありませんわ)
そう、後悔だけは──
(だから私は──)
「神は信じていませんわ。欲しいものは願うのではなく、掴むもの。私はここまでの道のりで貴方を掴みましたわ」
「あはは……僕は便利な道具、というわけですか」
「そう捉えて頂いても結構ですわっ!それに貴方が恩人であるのは百も承知!その上で、私は貴方を是が非でもミレーヌのところまで連れて行きますわっ!アスフィさん、貴方が"後悔しない道を選ぶ"と決め私を癒したように、私も後悔しない道を突き進みますわっ!」
もう絶対に後悔だけはしたく無いから。