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第二十五話「後悔はしない」

 ──夜の静寂に包まれた森の奥、その場所はまるで別世界のようだった。

 異世界で”別世界”と表現するのもおかしいが、そう思っても仕方がない程に神秘的だった。


「……ここは」


 私の視界に映ったのは、木立の中にぽつりと佇む小さなログハウスだった。

 木の皮をそのまま生かした外壁は素朴で温かみがあり、窓から漏れる橙色の光が夜の闇を優しく照らしている。


「これが……僕の家です」


 青年は、静かにそう告げた。


 リリアナとして転生した私からすると、とてもじゃないが大きいとは言えない。

 だが、その控えめで穏やかな佇まいは、どこか人生の終末に辿り着いた者が、最後に選ぶ理想郷のようにも思えた。


「……いいお家ですわね」


「ありがとうございます。僕も気に入っています」


 言葉を交わす間、胸の奥に漂っていた緊張が少しずつ和らいでいくのを感じた。

 不思議と、この場所には戦い続けてきた心を癒す何かがあるように思えた。


 だが──


「アスフィ?お客さ……誰その女」


 不意に耳を掠めた声に、私は反射的に視線を向けた。


 ログハウスの扉が開き、現れたのは黒い長髪に猫の耳を持つ少女だった。

 緩やかに垂れた耳が感情を隠すように揺れ、黒い瞳がじっとこちらを見つめている。


(……やはり、亜人がいたのですね)


 この世界が"異世界"だということを、私はすっかり忘れていた。

 ミレーヌを助けるためだけに駆け抜けたこの一週間は、そんな現実を意識する余裕すら奪い去っていた。


「彼女は……えっと……」


 アスフィは口篭った。


 それを見て、私は軽く息を整えると口を開いた。


「あ、申し遅れました。私の名は、リリア──」


 名を名乗ろうとした瞬間だった。

 胸の奥に残っていた疲労が一気に押し寄せ、視界が揺らぎ、足元から力が抜けていく。


「……っ!」


 鞘で体を支えようとするも、体が言うことを聞かず、私は地面に倒れ込んだ。


「……その人、傷だらけだね」


「うん、かなり無茶をしていたようだからね」


 二人の会話が遠くで響いていた。

 耳に届くのに、言葉として理解できないもどかしさが苛立ちとなって胸に渦巻く。


(せっかく……手がかりを知っていそうな方に出会えたかもしれないというのに、私は何をしていますの……動きなさいリリアナ……っ!)


 力を込めても、体は微動だにしなかった。


(どうして……あの時のように傷が癒えませんの……)


 ギルドの宿でのあの戦いでは、いつの間にか傷が消えていた。

 けれど、今は違う。肩の傷は熱を持ち、足元にまで重さを引きずっていた。


(どうして……どうして……!)


 焦燥と無力感が胸を締め付ける。

 そんな中、黒髪の少女──レイラの声が微かに耳に届いた。


「……ねぇアスフィ、その人癒してあげたら?」


「レイラがそう言うなら……でも、僕らが干渉すれば彼女の運命が変わるかも」


「なら放っておいて。レイラはアスフィさえいれば構わないから……でも、後悔だけはしないで」


 その言葉に、アスフィはしばし沈黙した。


「……はぁ、全くレイラには敵わないや。分かったよ、なら僕は"後悔しない道を選ぶ"──『ヒール』」


 柔らかな光が視界を満たした。


(……これは……)


 全身を包む暖かさが、痛みを優しく溶かしていく。

 鋭く疼いていた肩の傷が、じんわりと癒えていくのを感じた。


(……痛みが……消えていく……?)


 その感覚に、思わず目を見開いた。

 光が消える頃には、全ての痛みが嘘のように消え去っていた。


「……私に何を?」


「『ヒール』、初級の回復魔法です」


「初級……初級でこんなにも回復するものですか!?」


 驚きが声に滲む。


「まぁ、その辺は深入りしないでください。……で、どうですか?動けそうですか?」


「ええ、ありがとうございます。おかげで現状の把握が出来……ん?」


「どうしました?」


(体が癒えて、頭がやっと回り始めましたわ。さっきの回復といい、あの黒髪の猫耳少女が呼んでいた名前……)


「……アスフィってあなた……でしたの」


 その問いに、青年──アスフィは穏やかに笑みを浮かべた。


「はい。僕が君の探し求める人物……ですかね。少しイメージと違いましたか?」


「少しも何も……てっきりご老体を想像していましたわ……ではあの方が言っていた話は一体……」


 記憶の中の老人の言葉が、頭の奥でこだまする。

 ──放浪のヒーラー『アスフィ』。かつて多くの人々を救い、そして風のように消えた男。


(でも……目の前にいるのは、どう見ても青年ですわよね……)


 頭の中で答えの出ない疑問が巡る。


 だが──今はそんなことよりも伝えなければならないことがある。


「どうか、お願いいたしますわ!」


 私は深く頭を下げた。


「私の友を……ミレーヌを助けていただきたいのです!」


(今の私は貴族じゃない。頭を下げて友の命が救えるなら、いくらでも下げるっ!)


 それが、この一週間の旅で得た唯一の答えだった。


「……すみません、それはできません」


「……え?」


 その言葉はあまりにもあっさりと告げられた。


「これ以上、僕が貴方に干渉すると何が起きるかわからない。それは君にとっても、この世界にとってもです」


「せ……かい?」


 その単語が胸に引っかかった。


「”リリア”さん、で良かったですか?」


「あ、申し訳ありません!私の名はリリアナ・フォン・エルフェルト。一応冒険者をやっておりますの」


「……冒険者、ですか」


「何か?」


「いいえ、少し昔を思い出しただけです」


(この方も冒険者だったのですね……)


 どこか遠くを見るような眼差しが、彼の過去を物語っているように見えた。


「なら──リリアナさん、貴方は"神"を信じますか?」


「……宗教の話ですの?」


「いいえ、僕は至って真剣です」


(神……)


 その単語に、胸の奥が重くなるのを感じた。


(私が神を信じたことなど、一度もありませんわ)


 賽銭箱に金を入れ、手を合わせて祈る人々を馬鹿にしていた過去を思い出す。

 なぜ祈るのか。なぜ神に縋るのか。

 なぜ……自分の力を使わないのか。


(私は神も、他人も信じたことがなかった)


 ブラック企業に勤めていた日々。

 過労とストレスに追われながらも、いつか報われると信じて働き続けた。

 だけど、結局はトラックに轢かれ、あっけなく終わった人生。


(……でも、今は……)


 目を閉じれば、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。

 血に染まったミレーヌの体。

 その命を取り戻すために、私はここまで歩いてきた。


 だけど──


(もし、この旅が無駄だったら……)


 その考えが、心の奥を締め付ける。


(……もう、後悔はしたくありませんわ)


 そう、後悔だけは──


(だから私は──)


「神は信じていませんわ。欲しいものは願うのではなく、掴むもの。私はここまでの道のりで貴方を掴みましたわ」


「あはは……僕は便利な道具、というわけですか」


「そう捉えて頂いても結構ですわっ!それに貴方が恩人であるのは百も承知!その上で、私は貴方を是が非でもミレーヌのところまで連れて行きますわっ!アスフィさん、貴方が"後悔しない道を選ぶ"と決め私を癒したように、私も後悔しない道を突き進みますわっ!」


 もう絶対に後悔だけはしたく無いから。

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