「……わかりました」
アスフィのその一言が、空気を変えた。
「本当に……いいんですの?」
リリアナは胸の奥に灯った希望の光を、失うまいと必死に繋ぎとめるように問いかけた。
だが、アスフィは変わらぬ穏やかな表情で頷いた。
「僕も後悔はしたくありません。……だから、貴方の友を助けに行きましょう。それに”後悔”という言葉で返されてしまったら、僕もこれ以上は何も言えませんよ、あはは……」
「……ありがとうございます!」
リリアナは息を呑み、自然と目頭が熱くなるのを感じた。
これまで幾度となく心が折れかけ、それでも歩き続けた一週間。その旅路が、ようやく意味を成した瞬間だった。
「ですが──」
アスフィの声が静かに続いた。
「僕は戦うことができません。ですから、その方までの道のりの護衛は貴方にお任せします」
「それはもちろんですわ。戦闘なら、私にお任せください!」
その言葉に、アスフィは少しだけ目を細めて笑った。
だが、その笑顔にはどこか寂しげな影が差していた。
(……懐かしいな。僕も以前はあんな目をしていたのだろうか)
「では、行きましょうか」
彼はくるりと背を向け、森の奥へと歩き出した。
すると背後から小さな声が聞こえた。
「アスフィ……また帰ってくる……よね?」
「もちろん。僕は絶対に君を見捨てはしない。だから少しだけ待っててレイラ」
「うん……分かった」
そしてアスフィは歩き出した。
その背中を追うように、リリアナも焔銀の剣を握りしめ、一歩を踏み出した。
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森の中を歩くうちに、次第に周囲の気配が変化していくのを感じた。
葉を擦る風の音はどこか遠くなり、枝葉を揺らす鳥の囀りも途絶えていた。
それでも奇妙な静寂ではなく、むしろ心を落ち着かせるような静けさが辺りを包む。
(……この森、一体何なのでしょう)
ふと立ち止まり、背後を振り返る。
だが、そこには先ほどまで歩いてきたはずの獣道も、茂みも、何一つ見当たらなかった。
「……道が、無い?」
背筋を冷たいものが走る。
(どういうことですの……?)
「アスフィさん、ここは一体……?」
その問いに、アスフィは答えなかった。
ただ一度だけ振り返り、穏やかに微笑むと再び前を向いた。
「もうすぐ森を抜けますよ」
「でも、先ほどまでの道が──」
「大丈夫です。もう少しですから」
「……」
納得できないまま、それでもリリアナは歩みを進めた。
(これ以上は教えられないということですのね)
気にならないと言えば嘘になる。だが、今は一刻も早くミレーヌのところまで彼を連れていくことが優先だ。
(待っていてくださいませ!ミレーヌ!)
やがて、木々の隙間から薄い光が差し込み始めた。
その光は暖かく、心の奥にまで染み渡るような優しさを持っていた。
「……朝?」
先ほどまで夜の森を歩いていたはずなのに、気が付けば太陽が昇り始めていた。
そして森の木々が途切れた瞬間、視界が一気に開けた。
「ここは……」
目の前に広がっていたのは、見慣れた世界だった。
青空の下に広がる緑の平原と、遥か遠くに連なる山々。
湿った獣道ではなく、乾いた土の感触が足元に広がる。
「一体、どういうことですの……?」
リリアナは後ろを振り返った。
だが、そこにはもう神秘的な森の姿はなかった。
木々はただの雑木林へと姿を変え、あの静寂と光に満ちた景色はどこにも存在しなかった。
「どうして……さっきまで、あの森にいたはずですのに……」
「……」
アスフィは何も答えず、ただ静かにリリアナの隣に立っていた。
「……あの森、一体何だったのですか?」
「……」
「私がいつの間にか迷い込んでいた……?でも、どうしてそんなことに……?」
幾つもの問いが頭を巡る。だが、その全てに答えを与えてくれる者はいない。
「……どうしても教えてはいただけませんの?」
「……申し訳ありません」
それだけを告げたアスフィの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「では、今後のことを話しましょう」
「え?」
(話を変えられましたわ……)
「これからの道中、魔獣や盗賊との遭遇は避けられないでしょう。僕は戦えませんが、回復魔法での支援はできます。ですから、戦闘は貴方に任せます」
「……分かりました」
リリアナは焔銀の剣の柄を軽く握り直した。
その重みが、これから背負う戦いの現実を思い出させた。
「……では、参りましょう。もう一刻の猶予もありませんの」
「ええ、行きましょう」
青空の下、二人は再び歩き出した。
その歩みが、ミレーヌの元へと続くことを信じて──
「ところで一つお聞きしたいことがありますの」
「……僕が答えられるものであれば」
アスフィはリリアナの声に冷静に返答する。
「恐らく答えられる筈です。というのも、お聞きしたいのは私自身のことですから」
「リリアナさん、ですか?」
「ええ」
アスフィは首を傾げ、リリアナもまた何て言えばいいのか考えていた。
(やってしまいましたわ!聞きたいことがあるのは確かにあるのに、説明がとても難しいですわ!)
前世でトラックに轢かれ、目が覚めれば戦闘スキル持ちの令嬢になっていた、何て誰が信じるのか。
リリアナは考える。
「リリアナさん?」
「え、ええ。少しお待ちくださいませ!今考えをまとめますので!」
「は、はぁ」
(ああどうしたらいいのよわたし!実はわたしってば”転生者”なんですぅ!てへっ!……通じる訳ないじゃん)
リリアナは歩きながら熟考する。
「考えているところすみません、リリアナさん。敵です」
「……え?」
目の前には魔獣……ではなく人影があった。
それも、何度も見た顔。
「……こんな朝日に貴方の顔なんて見たくありませんでしたわ」
そこに立っていたのは、ミレーヌをまだ目を覚さない呪いを付与した本人。
《影狼》のガルス・クロウリーだった。