──空気が、震えた。
夜が深まる前のはずなのに、周囲はまるで闇の底にいるかのように息苦しい。
まるで何かが、そこに"存在している"とでもいうような、不快な圧力が漂っている。
「……よく顔を見せる気になりましたわね。まだ日は暮れていませんのよ? 貴方は夜に近づくほど強くなる、そのはずですわ」
声を張るが、喉が引きつる。
ここにいるだけで、背筋が凍るような悪寒が走る。
足元が地に着いている感覚すら、どこか曖昧に思えてしまうほどに。
「フッフフフフ……」
不気味な笑いが、喉の奥から漏れ出した。
それは、ただの"声"ではない。
──意識を腐らせるような、耳に残る"呪詛"だった。
黒い外套を羽織った男が、リリアナの目の前に立っていた。
フードの奥から覗く口元は歪んだ笑みを浮かべているが、その眼光だけは鋭い。
まるで、目の前の獲物をどう料理してやるか思案しているかのように。
(昼間だというのに、この威圧感……)
肌にまとわりつくような、不快な圧迫感。
かつて二度戦った時とは違う。
あの時よりも、確実に"濃くなっている"。
そして何より──
昼間に現れたこと自体が、得体の知れない不安を煽る。
(いや、違う。これは……わざと、ですわね)
今まで"夜"にしか現れなかった男が、昼間に現れる。
普通なら、それは"不利な状況"を自ら作る愚行。
だが──彼は、それを理解した上でここにいる。
「ここまで顔を合わせておきながら、私、まだ貴方のことを何も知りませんわ。いい加減その顔と名前を教えてくださいませ!」
リリアナは剣を握り締め、相手の動きを見逃さぬよう視線を固定する。
「リリアナさん。これは僕からのアドバイスです」
静かな声が、隣から届いた。
声の主はアスフィ。
彼は先ほどから一歩も動かず、ただ静かに相手を見つめている。
「敵が本来不利な状況にも関わらず姿を現すということは、つまり──確実に獲物を狩る準備が整っているということです」
「え、ええ。もちろん分かっていますわよ!?」
リリアナは胸の奥で息を整え、緊張を押し殺した。
だが──この言葉が、後に現実となる。
「……誰だ、お前。見たことねぇな」
男がアスフィに目を向ける。
その視線にはわずかな興味が滲んでいたが、すぐに獲物を見定める捕食者の目に戻った。
「そりゃ当たり前ですよ。今知り合ったんですから」
アスフィは柔らかな笑みを浮かべて返す。
だが、その言葉に込められた"何か"に、男が舌打ちする。
「ああ、そうかい。つまり、死にたいってことだな~? そうだよなぁっ!!」
叫ぶや否や、男が地を蹴った。
その動きは、地面を割るほどに力強く、両手に握られた刃物が陽光を弾くように閃いた。
まるで光が刃の鋭さを誇示するように。
(こいつ……やはり、速い……!)
これまでの戦いで、この男が接近戦を得意とすることは理解していた。
だが、昼間でもこれほどの速度を維持できるとは──。
肉迫する殺気に、リリアナは瞬時に剣を構えた。
「アスフィさんには傷一つ付けさせませんわ!」
間に割り込み、相手の進路を遮るように一歩踏み出す。
全身の神経が研ぎ澄まされる。
目の前の刃先、男の呼吸、踏み込みの深さ、腕の動き──全てを視界に収めた。
(この男……何を考えていますの?)
戦いの中で、何かが"引っかかる"。
いつものように、ただ純粋な殺意をぶつけているだけではない。
彼の動きには、確実に"狙い"がある。
(夜でもないのに正面から来る。手に持つ武器は同じ。これは……)
「なら私も! 全力で行かせてもらいますわ!」
声に力を込め、戦闘スキルを発動する。
「《剣聖》!」
全身に力が湧き上がる。
視界が一瞬で鮮明になる。
空気の流れ、相手の筋肉の動き、地を蹴る感触──全てが手に取るように理解できる。
剣を握る右手に熱が宿るのを感じながら、リリアナは踏み込んだ。
「へっ! 待ってたぜ、この瞬間をっ!!」
「なっ──!?」
男の口元が、確信に満ちた笑みに変わった。
それと同時に──
「
(何ですの!?)
「『強奪』っ!!」
一瞬のうちに、体が重くなる。
視界の鮮明さが失われ、空気の流れが再び不明瞭になる。
指先から感覚が鈍くなり、思考が遅れを取る。
まるで、意識の一部を掴まれたかのような感覚だった。
「……お、おおおおっ! すげぇなこりゃ! お前の動きが良く見えるぜ!」
「……そんな……まさか私の《剣聖》が奪われた?」
(アレがなければ──!)
《剣聖》を失った今、戦いの優位は一気に失われた。
これまで培ってきた経験と鍛錬だけでは、この男を相手にするには厳しすぎる。
そして、男の"真の狙い"が明らかになる。
「無駄だ、令嬢さんよ? 今までお前が使っていたものは、もう俺様のものだ。動きが遅すぎるぜ?」
男がにやりと笑い、刃を構えた瞬間──
リリアナの背筋に、"死"の感覚が駆け抜けた。
(まずい……このままじゃ……!!)
──その時、リリアナの視界が赤に染まった。
「っ!?」
遅れて響いたのは、肉を断つ鈍い音。
骨を砕く感触。
肌を裂く鋭い痛み。
(何が……起きたの……?)
視線を落とすと、そこには──
血まみれの左腕が転がっていた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
喉が裂けるような悲鳴が、森の中に響く。
それが自分の声だと気づくまで、しばらく時間がかかった。
痛みが遅れてやってくる。
尋常ではない熱と、冷たさが同時に走る。
目の前の光景が歪む。
呼吸ができない。
意識が、遠のく。
(左手が……ない……? うそ、そんな……)
腕の断面から、血が滝のように流れ落ちる。
鉄の匂いが鼻を突き刺し、視界が紅に染まる。
体が、震える。
(わたし……左腕……失った?)
「ギャハハハハハハハッ!! どうだぁ!? これが俺様の"強奪"の力だぁ!! これで終わりだなぁ!? んん!? どんな気分だよぉ、お姫様ぁ!!」
男が笑い、血濡れの刃を突きつける。
自分の血が飛び散ったその刀身が、あまりにも禍々しく見えた。
(わたし……このまま、殺される……?)
立ち上がる力が出ない。
意識が飛びそうになる。
痛みと恐怖が脳を支配し、思考を奪っていく。
(いや……そんなの……いや……!!)
「『ハイヒール』」
不意に、誰かの声が聞こえた。
同時に、体を覆う淡い光が視界を満たす。
(ああ……これは……)
痛みが引いていく。
焼けつくような苦痛が、まるで夢のように消えていく。
血の匂いも薄れ、体が再び自分のものに戻っていく感覚だった。
「な、な、なんだと!? バカな! そんなことが──」
「さぁ、まだ終わっていませんよ。"リリアナ"」
誰かの声が、意識の奥に届く。
(……ああ、そうか。わたし、取り乱しちゃったんだ。恥ずかしいところ見せちゃったな)
そう、これはまだ"終わり"じゃない。
命を失う覚悟でここまで来たのに、左腕を失ったくらいで何を動揺しているのか。
もう、大丈夫。
「……私の……剣を……返して……」
「はぁ? まだやる気かぁ? いいぜぇ! 何度でも、切り刻んでやるよおおお!!」
男が再び地を蹴った。
狩りの時間は、まだ終わらない。
(終わるわけ、ないでしょう……!)
◆◆◆
──頭の奥に、古い記憶が蘇る。
息が詰まるような、冷たい空間。
目の前に座るのは、机越しにこちらを見下ろす上司。
「ねぇ、
何気ない問いかけのようでいて、その声には棘があった。
否定を許さない、相手を責め立てるためだけの言葉。
「すみません……」
喉が詰まり、声が震える。
何度目の謝罪だろうか。
数え切れないほどの「すみません」が、胸の奥に重く積もっていく。
「すみませんって、何回目よそれ。……そういえば、あなた、うちの会社がブラック企業だって愚痴ってたらしいじゃない?」
「──っ!? い、いえ、そんなことは──」
「社員の子から聞いたのよ。……叶さんさぁ、もう辞めてくれない? うちも大きい会社じゃないからさ、無能な社員は要らないのよ。最初は人手が足りないから、根暗そうだけど仕事してくれるならって思って採用したけどね。もうここも随分と人手も揃ったし、あなたもう"邪魔"なのよ。こっちから一方的に首にするのもヤな感じだし、叶さんの方から辞めてくれない?」
(……邪魔、か)
喉の奥がひどく熱くなり、言葉が出ない。
自分なりに努力してきたつもりだった。
それでも、評価するのはいつも"他人"であって、"自分"ではない。
(頑張れば報われる、なんて嘘。努力が認められるなんて幻想。ただ、価値があると思われるかどうかは、他人が決めること──)
そう、何もかもが"決められて"いる。
だから、自分がどれだけ必死に生きても、それが無意味なら、存在する価値すら否定される。
「……すみません、今まで以上に頑張ります」
苦し紛れに出た言葉だった。
だが、それすら──
「え。ここまで言われても辞めないの? 本当に? ……はぁ、ならその言葉、しっかり有言実行しなさいよ。もし次ミスしたらどうなるか知らないからね」
上司は、呆れたように言い捨てた。
もはや会話ですらない。
ただ、自分という存在を押し潰すための"処理"に過ぎなかった。
(……よし、頑張ろう)
それでも。
それでも、自分の力で掴み取る。
──それこそが、私の"人生"だ。
◆◆◆
「はああああああああああああああああっ!!」
叫びと共に、リリアナは地を蹴った。
その瞬間、焔銀の剣が真紅の光を纏う。
まるで血の滴るような深い赤が刃全体に走り、空気を震わせた。
「なっ!? はや──」
男の驚愕が、一瞬遅れた。
赤く染まった刃が、風を裂き、空間すら切り裂いてゆく。
その動きは、《剣聖》を失ったはずのリリアナが、本来持ち得ない速さだった。
「これが……私の力ですわああああああああああああああああああああっ!!」
紅の剣閃が唸りを上げ、男の腹を一突きに貫いた。
「んぎゃああああああああああああああっ!!!」
男の体が弓なりに反り、口から血の泡を吹く。
外套が裂け、腹部から迸る血が地面を濡らす。
刃を引き抜いた瞬間、肉を断つ感触と共に、鮮血が弧を描いた。
「ギ……ギャハ……ギャ……」
笑い声はもはや声にならず、喉の奥で潰えた呻きとなる。
それでも、男は倒れない。
「お、お……れ、は、ま、だ──」
「黙りなさい!!」
叫びと共に、リリアナは剣を振り上げた。
そして──
「これで……終わりですわあああああああああああああああっ!!」
最後の一撃が男の首筋を正確に捉え、重い音を立てて肉と骨を断ち切った。
「──っ……!!」
刃が血を弾き、男の体がその場に崩れ落ちる。
あれほどの威圧感を放っていた存在は、もう二度と動くことはなかった。
「……ハァ……ハァ……やりました……わ……ミレー……ヌ……」
血の匂いが鼻を突き、喉に鉄の味が広がる。
だが、それでも戦いは終わった。
(勝った……これで、前に進める……!)
そう思った瞬間──力が抜け、地面に膝をついた。
(体が……動かない……っ)
膝をついたその場所に、赤い血の水たまりが広がっていた。
それが自分の血か、男の血かはもう分からない。
視界が揺れ、意識が薄れていく。
(でも……これで、もう邪魔する者はいませんわ……)
かすかに微笑み、リリアナはその場に倒れ込んだ。
「リリアナさんっ!!」
意識の途切れる寸前、誰かの声が耳に届いた。
それがアスフィの声だと気付く前に、視界は静かな闇に覆われていった。