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第二十七話「過去の誓い、今世で果たすために」

 ──空気が、震えた。


 夜が深まる前のはずなのに、周囲はまるで闇の底にいるかのように息苦しい。

 まるで何かが、そこに"存在している"とでもいうような、不快な圧力が漂っている。


「……よく顔を見せる気になりましたわね。まだ日は暮れていませんのよ? 貴方は夜に近づくほど強くなる、そのはずですわ」


 声を張るが、喉が引きつる。

 ここにいるだけで、背筋が凍るような悪寒が走る。

 足元が地に着いている感覚すら、どこか曖昧に思えてしまうほどに。


「フッフフフフ……」


 不気味な笑いが、喉の奥から漏れ出した。

 それは、ただの"声"ではない。


 ──意識を腐らせるような、耳に残る"呪詛"だった。


 黒い外套を羽織った男が、リリアナの目の前に立っていた。

 フードの奥から覗く口元は歪んだ笑みを浮かべているが、その眼光だけは鋭い。

 まるで、目の前の獲物をどう料理してやるか思案しているかのように。


(昼間だというのに、この威圧感……)


 肌にまとわりつくような、不快な圧迫感。

 かつて二度戦った時とは違う。

 あの時よりも、確実に"濃くなっている"。


 そして何より──


 昼間に現れたこと自体が、得体の知れない不安を煽る。


(いや、違う。これは……わざと、ですわね)


 今まで"夜"にしか現れなかった男が、昼間に現れる。

 普通なら、それは"不利な状況"を自ら作る愚行。


 だが──彼は、それを理解した上でここにいる。


「ここまで顔を合わせておきながら、私、まだ貴方のことを何も知りませんわ。いい加減その顔と名前を教えてくださいませ!」


 リリアナは剣を握り締め、相手の動きを見逃さぬよう視線を固定する。


「リリアナさん。これは僕からのアドバイスです」


 静かな声が、隣から届いた。

 声の主はアスフィ。

 彼は先ほどから一歩も動かず、ただ静かに相手を見つめている。


「敵が本来不利な状況にも関わらず姿を現すということは、つまり──確実に獲物を狩る準備が整っているということです」


「え、ええ。もちろん分かっていますわよ!?」


 リリアナは胸の奥で息を整え、緊張を押し殺した。

 だが──この言葉が、後に現実となる。


「……誰だ、お前。見たことねぇな」


 男がアスフィに目を向ける。

 その視線にはわずかな興味が滲んでいたが、すぐに獲物を見定める捕食者の目に戻った。


「そりゃ当たり前ですよ。今知り合ったんですから」


 アスフィは柔らかな笑みを浮かべて返す。

 だが、その言葉に込められた"何か"に、男が舌打ちする。


「ああ、そうかい。つまり、死にたいってことだな~? そうだよなぁっ!!」


 叫ぶや否や、男が地を蹴った。


 その動きは、地面を割るほどに力強く、両手に握られた刃物が陽光を弾くように閃いた。

 まるで光が刃の鋭さを誇示するように。


(こいつ……やはり、速い……!)


 これまでの戦いで、この男が接近戦を得意とすることは理解していた。

 だが、昼間でもこれほどの速度を維持できるとは──。


 肉迫する殺気に、リリアナは瞬時に剣を構えた。


「アスフィさんには傷一つ付けさせませんわ!」


 間に割り込み、相手の進路を遮るように一歩踏み出す。


 全身の神経が研ぎ澄まされる。

 目の前の刃先、男の呼吸、踏み込みの深さ、腕の動き──全てを視界に収めた。


(この男……何を考えていますの?)


 戦いの中で、何かが"引っかかる"。


 いつものように、ただ純粋な殺意をぶつけているだけではない。

 彼の動きには、確実に"狙い"がある。


(夜でもないのに正面から来る。手に持つ武器は同じ。これは……)


「なら私も! 全力で行かせてもらいますわ!」


 声に力を込め、戦闘スキルを発動する。


「《剣聖》!」


 全身に力が湧き上がる。

 視界が一瞬で鮮明になる。


 空気の流れ、相手の筋肉の動き、地を蹴る感触──全てが手に取るように理解できる。


 剣を握る右手に熱が宿るのを感じながら、リリアナは踏み込んだ。


「へっ! 待ってたぜ、この瞬間をっ!!」


「なっ──!?」


 男の口元が、確信に満ちた笑みに変わった。


 それと同時に──


影牙の双刃かげきばのそうじんの本質は『奪う』モノだ。お前のその妙な力は俺のものだっ! 今こそ真の力を見せる時だ"影牙"っ!! 『日陰者に幸あれ──』」


(何ですの!?)


「『強奪』っ!!」


 一瞬のうちに、体が重くなる。


 視界の鮮明さが失われ、空気の流れが再び不明瞭になる。

 指先から感覚が鈍くなり、思考が遅れを取る。

 まるで、意識の一部を掴まれたかのような感覚だった。


「……お、おおおおっ! すげぇなこりゃ! お前の動きが良く見えるぜ!」


「……そんな……まさか私の《剣聖》が奪われた?」


(アレがなければ──!)


 《剣聖》を失った今、戦いの優位は一気に失われた。

 これまで培ってきた経験と鍛錬だけでは、この男を相手にするには厳しすぎる。


 そして、男の"真の狙い"が明らかになる。


「無駄だ、令嬢さんよ? 今までお前が使っていたものは、もう俺様のものだ。動きが遅すぎるぜ?」


 男がにやりと笑い、刃を構えた瞬間──


 リリアナの背筋に、"死"の感覚が駆け抜けた。


(まずい……このままじゃ……!!)


 ──その時、リリアナの視界が赤に染まった。


「っ!?」


 遅れて響いたのは、肉を断つ鈍い音。

 骨を砕く感触。

 肌を裂く鋭い痛み。


(何が……起きたの……?)


 視線を落とすと、そこには──


 血まみれの左腕が転がっていた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」


 喉が裂けるような悲鳴が、森の中に響く。

 それが自分の声だと気づくまで、しばらく時間がかかった。


 痛みが遅れてやってくる。

 尋常ではない熱と、冷たさが同時に走る。


 目の前の光景が歪む。

 呼吸ができない。

 意識が、遠のく。


(左手が……ない……? うそ、そんな……)


 腕の断面から、血が滝のように流れ落ちる。

 鉄の匂いが鼻を突き刺し、視界が紅に染まる。


 体が、震える。


(わたし……左腕……失った?)


「ギャハハハハハハハッ!! どうだぁ!? これが俺様の"強奪"の力だぁ!! これで終わりだなぁ!? んん!? どんな気分だよぉ、お姫様ぁ!!」


 男が笑い、血濡れの刃を突きつける。

 自分の血が飛び散ったその刀身が、あまりにも禍々しく見えた。


(わたし……このまま、殺される……?)


 立ち上がる力が出ない。

 意識が飛びそうになる。

 痛みと恐怖が脳を支配し、思考を奪っていく。


(いや……そんなの……いや……!!)


「『ハイヒール』」


 不意に、誰かの声が聞こえた。


 同時に、体を覆う淡い光が視界を満たす。


(ああ……これは……)


 痛みが引いていく。

 焼けつくような苦痛が、まるで夢のように消えていく。

 血の匂いも薄れ、体が再び自分のものに戻っていく感覚だった。


「な、な、なんだと!? バカな! そんなことが──」


「さぁ、まだ終わっていませんよ。"リリアナ"」


 誰かの声が、意識の奥に届く。


(……ああ、そうか。わたし、取り乱しちゃったんだ。恥ずかしいところ見せちゃったな)


 そう、これはまだ"終わり"じゃない。

 命を失う覚悟でここまで来たのに、左腕を失ったくらいで何を動揺しているのか。


 もう、大丈夫。


「……私の……剣を……返して……」


「はぁ? まだやる気かぁ? いいぜぇ! 何度でも、切り刻んでやるよおおお!!」


 男が再び地を蹴った。

 狩りの時間は、まだ終わらない。


(終わるわけ、ないでしょう……!)


◆◆◆


 ──頭の奥に、古い記憶が蘇る。


 息が詰まるような、冷たい空間。

 目の前に座るのは、机越しにこちらを見下ろす上司。


「ねぇ、かのうさん? あなた、こんなこともできない訳?」


 何気ない問いかけのようでいて、その声には棘があった。

 否定を許さない、相手を責め立てるためだけの言葉。


「すみません……」


 喉が詰まり、声が震える。

 何度目の謝罪だろうか。

 数え切れないほどの「すみません」が、胸の奥に重く積もっていく。


「すみませんって、何回目よそれ。……そういえば、あなた、うちの会社がブラック企業だって愚痴ってたらしいじゃない?」


「──っ!? い、いえ、そんなことは──」


「社員の子から聞いたのよ。……叶さんさぁ、もう辞めてくれない? うちも大きい会社じゃないからさ、無能な社員は要らないのよ。最初は人手が足りないから、根暗そうだけど仕事してくれるならって思って採用したけどね。もうここも随分と人手も揃ったし、あなたもう"邪魔"なのよ。こっちから一方的に首にするのもヤな感じだし、叶さんの方から辞めてくれない?」


(……邪魔、か)


 喉の奥がひどく熱くなり、言葉が出ない。

 自分なりに努力してきたつもりだった。

 それでも、評価するのはいつも"他人"であって、"自分"ではない。


(頑張れば報われる、なんて嘘。努力が認められるなんて幻想。ただ、価値があると思われるかどうかは、他人が決めること──)


 そう、何もかもが"決められて"いる。

 だから、自分がどれだけ必死に生きても、それが無意味なら、存在する価値すら否定される。


「……すみません、今まで以上に頑張ります」


 苦し紛れに出た言葉だった。

 だが、それすら──


「え。ここまで言われても辞めないの? 本当に? ……はぁ、ならその言葉、しっかり有言実行しなさいよ。もし次ミスしたらどうなるか知らないからね」


 上司は、呆れたように言い捨てた。

 もはや会話ですらない。

 ただ、自分という存在を押し潰すための"処理"に過ぎなかった。


(……よし、頑張ろう)


 それでも。

 それでも、自分の力で掴み取る。


 ──それこそが、私の"人生"だ。


◆◆◆


「はああああああああああああああああっ!!」


 叫びと共に、リリアナは地を蹴った。


 その瞬間、焔銀の剣が真紅の光を纏う。

 まるで血の滴るような深い赤が刃全体に走り、空気を震わせた。


「なっ!? はや──」


 男の驚愕が、一瞬遅れた。


 赤く染まった刃が、風を裂き、空間すら切り裂いてゆく。

 その動きは、《剣聖》を失ったはずのリリアナが、本来持ち得ない速さだった。


「これが……私の力ですわああああああああああああああああああああっ!!」


 紅の剣閃が唸りを上げ、男の腹を一突きに貫いた。


「んぎゃああああああああああああああっ!!!」


 男の体が弓なりに反り、口から血の泡を吹く。

 外套が裂け、腹部から迸る血が地面を濡らす。

 刃を引き抜いた瞬間、肉を断つ感触と共に、鮮血が弧を描いた。


「ギ……ギャハ……ギャ……」


 笑い声はもはや声にならず、喉の奥で潰えた呻きとなる。


 それでも、男は倒れない。


「お、お……れ、は、ま、だ──」


「黙りなさい!!」


 叫びと共に、リリアナは剣を振り上げた。


 そして──


「これで……終わりですわあああああああああああああああっ!!」


 最後の一撃が男の首筋を正確に捉え、重い音を立てて肉と骨を断ち切った。


「──っ……!!」


 刃が血を弾き、男の体がその場に崩れ落ちる。

 あれほどの威圧感を放っていた存在は、もう二度と動くことはなかった。


「……ハァ……ハァ……やりました……わ……ミレー……ヌ……」


 血の匂いが鼻を突き、喉に鉄の味が広がる。

 だが、それでも戦いは終わった。


(勝った……これで、前に進める……!)


 そう思った瞬間──力が抜け、地面に膝をついた。


(体が……動かない……っ)


 膝をついたその場所に、赤い血の水たまりが広がっていた。

 それが自分の血か、男の血かはもう分からない。


 視界が揺れ、意識が薄れていく。


(でも……これで、もう邪魔する者はいませんわ……)


 かすかに微笑み、リリアナはその場に倒れ込んだ。


「リリアナさんっ!!」


 意識の途切れる寸前、誰かの声が耳に届いた。

 それがアスフィの声だと気付く前に、視界は静かな闇に覆われていった。

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