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第二十八話「リリアナ・フォン・エルフェルト」

 ──意識が浮上する。


 瞼の裏に微かな光を感じ、暗いまどろみの中でゆっくりと目を開いた。

 ぼやけた視界の先、そこに映るのは穏やかな眼差しを向ける青年の顔だった。


「……イケメン……ですわ」


 ぼそりと漏れたその言葉に、自分で言っておきながら思考が止まった。


「……何言ってるんですか」


 アスフィが困惑したように目を細める。


(あ、しまった。私としたことが……つい言葉に出てしまいましたわ)


 慌てて咳払いをし、意識を立て直す。

 不思議と痛み全くない。それどころかむしろ今までより調子がいいくらいだ。

それに左腕が……ある。


(この方の……)


私が左腕の有無を確認していると、青年が手を差し伸べてきた。


「立てますか?」


「え、ええ。情けないところを見せてしまいましたわ」


 私はゆっくりと地面に手をつき、彼の手を取ると、慎重に立ち上がった。体は軽く、傷の痛みはすっかり消えている。

 だが、心の重さだけは、どこまでも沈んだままだった。


「いいえ、とても勇敢なところを見せていただきました」


 アスフィはそう言いながら、柔らかな笑みを浮かべた。

 その笑顔が、どこか遠い記憶を懐かしむようなものに見えて──胸の奥が締め付けられる。


「……」


「どうかしましたか?」


「……殺してしまいましたわ。"人間"を」


 その言葉を口にした瞬間、全身が震えた。

 改めて自覚すると、指先がじんわりと冷たくなるのを感じた。

 あの男の体を貫いた時の感触がまだ手に残っている。


「……いいえ、リリアナさんは"殺した"のではなく、"救った"んです」


「救った……?」


 アスフィの言葉の意味が理解できず、思わず問い返した。

 だが、彼は真剣な目で冷静に続ける。


「はい。もしあの男を逃せば、きっとまた狙われていたでしょう。そうなれば、もしあなたの大切な人を救えたとしても、また同じことが起きた事でしょう」


「それは……」


 仮の話、だ。

 現実は違う。私はこの手で"人間"の命を奪った。

 命を奪うことが"救い"になるなんて……そんな考え方、したこともなかった。


(……言い訳ですわ。私は、彼を殺した)


 血が飛び散る音。断ち切られる骨の感触。

 悲鳴。最後に見せた、男の驚愕と恐怖の表情。

 それらが鮮明に脳裏にこびりつき、離れない。


「リリアナさんは、人を殺めたのは初めてなんですね」


 アスフィの静かな声が、胸に突き刺さる。


「……当たり前ですわ。それが普通──」


「──じゃない」


 私の言葉を遮るように、アスフィが言葉を重ねた。


「この世界はそういう世界なんです。善人がいて、悪人がいる。それはこの世界に限らず、どこの世界でも同じことです。そして、更生する者がいれば、それを拒み、同じ過ちを繰り返す者もいる。

 さっきの男は"過ち"を者。彼にとってはそれが当たり前なんです。

 ですからリリアナさんが手を下さなくとも、いずれ彼は誰かの手によって命を落としたでしょう。要するに、時間の問題だったと言う事です」


「……もしかして私を慰めていらっしゃいますの?」


「ええ、そのつもりです」


 アスフィはためらいなく頷いた。

 その言葉は、驚くほどに穏やかで、まるで全てを包み込むような優しさを持っていた。


「……ありがとうございますわ」


 私はゆっくりと息を吐き、空を仰いだ。

 見上げれば、そこには雲一つない澄み切った青空が広がっている。


(本当に……これで良かったのですの……?)


 問いかけても、答えはどこにもなかった。


「では、行きましょう。あなたの大切な方の元へ」


「ええ」


 私は頷き、再び前を向いた。

 けれど、その手に残る感触は、この先もきっと消えることはないだろう。


---


(……アスフィさんはあのように言いましたけど)


 歩きながら、私は左手を見つめる。

 この手が、人間の命を奪った。

 魔獣とは違う。

 骨を断ち切る感触。

 切った瞬間の重み。

 刃を通じて伝わる、人間の脆さと、それでも抗おうとする生命力。


(……”わたし”はこの思いを一生引きずって生きていくのだろう)


 前世で、人を殺すなんて考えたことは一度もなかった。

 むしろ、"死んでくれないかな"と陰口を叩かれる側だった。


(……全て聞こえていた)


 職場の同僚たちは、私に聞こえないと思っていたのかもしれない。

 けれど、嫌でも耳に入った。

 あの人たちは、わたしがどう思うかなんて、どうでもよかったのだろう。

いや、もしかしたら聞こえるように言っていたのかも知れない。


(……でもあの時のわたしは、聞こえないフリをするしかなかった)


 社長に、同僚が私の有る事無い事の悪口をそのまま報告していたことも知っている。

 仲の良いフリをして、私から愚痴を引き出し、それを録音して社長にリークしたことも知っている。


 それでも私は、会社を辞めなかった。


(……だって、わたしは──)


 悔しかった。

 どれだけ努力しても評価されない。

 報われない日々が続く。

 それでも"頑張れば変わる"と信じていた。


 ──だけど。


 その頑張りは、あっけなく終わった。

 トラックに轢かれ、気がつけばこの異世界に転生していた。


(……そして今、私は"頑張った"結果、


 これが、私がこの世界で生きるということなのか。


 わたしが、前世で生きていた"努力"とは、こんなにも違うものなのか。


この世界とか関係ない……どこの世界にも悪人はいる……。


アスフィの言葉が私の心を掻き乱す。


(……ミレーヌ)


 彼女の姿を思い出す。

 今のわたしの手は汚れてしまったのかもしれない。

 それでも──彼女のために。

 この道を進むと決めたのだ。


「リリアナさん?」


「……行きましょう」


 アスフィに向き直り、わたしは相棒を握りしめた。

 今はまだ、答えを見つけることはできない。


 ──けれど、一つだけ確かなことがある。


今回の件でわたしは自分がこの世界でどう生きたいのかを理解した。


わたしは、わたしの大切な人の命を奪う者が今後も現れるのなら、容赦はしない。

もう、迷わない。


前世のわたしはここには居ない。


この世界にいるのは、

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