──扉の前に立つ。
この扉を開ければ、そこにはミレーヌがいる。
何度も開けた自室の扉なのに、今はどうしてか手が動かない。
たったひとつの単純な動作。それなのに、ドアノブを握る指先が震えている。
(覚悟を決めたっていうのに、こんなところでわたし、何してんのよ……)
もし──。
もしもアスフィをもってしても、ミレーヌが目を覚まさなかったら?
そんな考えが頭をよぎる。
せっかくここまで来たのに、期待が絶望に変わったら──。
そんな恐怖が、わたしの心を、体を硬直させていた。
その時だった。
わたしの上から、そっと重ねられた温かな手。
「リリアナさん、大丈夫です」
アスフィの静かな声が響く。
優しくも、確固たる自信に満ちた言葉。
「僕は自分で言うのもなんですが、最強のヒーラーです。
呪いなんて、僕の手にかかれば簡単に解けます。ですから、どうかご心配なく」
「……イケメン……だ」
──つい、声に出してしまった。
「何言ってるんですか。さぁ、開けますよ」
「う、うん」
(しまった……! つい、「うん」とか言っちゃった)
わたし、なに乙女な反応してんのーーーー!!
慌てて顔を背けたその時、受付のお姉さんの姿が目に入る。
──彼女は、両手で顔を覆い、真っ赤に染まっていた。
(そうなるよねっ!? わたしだけじゃないよね!?)
思わず、妙な仲間意識が芽生えそうになった。
……ふぅ、落ち着こう。
アスフィのおかげで、さっきまでの不安は霧散していた。
今は、目の前の扉を開くことに集中しなくては。
深く息を吸い、私はドアノブをゆっくりと回した──。
「──ミレーヌっ! 今戻りましたわ! 今から貴女を治し……て……」
部屋に足を踏み入れた瞬間。
そこにいたのは──見覚えのある男だった。
「……はぁ、随分と待ったよ。お久しぶりです、リリアナ殿」
金髪の男が、ソファに腰を掛け、くつろぐように言った。
「……アレクシス王太子」
「以前のように私を"王太子殿下"と、そう呼んで頂けないのですね」
口調こそ柔らかだが、そこに感じるのは冷たい圧。
「当たり前ですわ。貴方のした事は決して許されないこと。私は今、とても怒っております。 今からミレーヌの目を覚ます所なので、早急に出て行って──」
「黙れ黙れ黙れえええええええええっ!!」
「──っ!?」
突然の怒声に、部屋の空気が揺れた。 思わず身を強張らせるほどの圧力。
その声は、ギルドの下階にいる者たちにまで届いたことだろう。
「……はぁ。僕としたことがつい取り乱してしまった」
アレクシスは、一度深く息を吐き、冷静さを取り戻す。
だが、その目は酷く冷たく、どこか歪んでいた。初めて見る表情に口調。
(これがアレクシスの本性……)
「でも、これは君が悪いんだ。僕との婚約を拒否した。それがどれだけ罪深い事か、分かっちゃいない」
「それは貴方から先に──」
断ったはず、そう言おうとした瞬間──。
彼は、それを遮るように言葉を続けた。
「リリアナ。君は大した腕だ。僕が放った日陰者達を全て退けた。ただの令嬢じゃありえない話だ。……一部、例外はあったが。……まぁ、それはいい。過ぎたことはね」
「……何を言いたいんですの?」
嫌な予感がする。
彼がここまでしてわたしに執着する理由は何なのか。
アレクシスは、軽く髪をかき上げながら、淡々と言った。
「僕との婚約を拒むな、それだ──」
「嫌ですわ」
迷いなく、即答する。
「……理由は?」
「簡単な話です。妻を迎え入れようとしているとは思えない行動。
私の命を奪うために刺客を放ち、それだけならまだしも私の大事な友人をこんな状態にした。そんな方と婚約なんて、反吐が出ますわ」
「この女に関しては僕も誤算だった。それは僕のせいじゃない。それは結果論でしかないよ」
「だとしても、結果として今彼女は貴方のせいで眠り続けている。だから私は断るだけです」
はっきりと、拒絶の意思を伝える。
もはや怒りも通り越し、呆れすら感じていた。
「……そうか。そう来ると思っていたよ。 だが、僕は絶対に君を諦めない」
アレクシスの目には、執念の光が宿っていた。
それは、ただの未練や後悔ではなく、"狂気"に近いものだった。
「どうしてそこまで私を……先に拒んだのはそちらです!それを今度は拒むな?いい加減にも程がありますわっ!」
「黙れっ!!」
またしても怒声が響く。
その声には、確かな"焦燥"が滲んでいた。
「……僕は知っているんだ。リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢を」
「いいえ、何も知りませんわ。私のことを知っていれば、こんな真似するはずがありませんもの!」
アレクシスは、静かに首を振った。
そして──低く、ゆっくりと呟く。
「違う、君じゃない。僕が言いたいのは"リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢"であって……
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……どういう意味ですの」
「リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢……彼女は、とても非力な娘だったということさ」
アレクシスは静かに語る。
本来の"リリアナ・フォン・エルフェルト"について──。