彼女は非力で、か弱い娘だった。
愚図で、のろまで──そして、何よりも"凡庸"な女。
何か特別な能力があるわけでもなく、剣の才があるわけでもない。
魔法を扱えるわけでもなければ、頭がずば抜けているわけでもない。
──ただの、"公爵令嬢"。
それが、"本来のリリアナ・フォン・エルフェルト"だった。
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「何? リリアナ・フォン・エルフェルト? 誰だそいつは」
乱雑に書類をめくる手を止めることなく、アレクシスは問う。
「レオン・フォン・エルフェルト公爵の娘です」
「……レオン。あの暴力しか頭にない男か」
眉をひそめる。
エルフェルト公爵──レオン・フォン・エルフェルト。
王国でも屈指の軍事貴族であり、その剛腕と苛烈な性格は貴族社会でも有名だった。
彼の名を聞けば、誰もが一歩引くほどの圧力を持つ人物。
「その者から話があると」
「断れ、アル」
対面に立つ執事──アルに命じる。
だが、彼は何も言わずに立ち尽くしていた。
「見ての通り、僕は今忙しい。婚約相手を自分で選べなんて、父上は一体何を考えているのだ? それも、どれもブスばかりじゃないか。僕の好みじゃない」
アレクシス・フォン・ルクセリア。
金髪碧眼の少年。
王太子という立場にありながら、未だ貴族としての権力は皆無。
だからこそ、政略結婚などというくだらないものには興味がなかった。
婚姻で得られる力など、真の権力ではない。
(僕は、僕の手でこの国を変えなければならない)
だからこそ、今こうして"選定"の場にいる。
山のように積まれた候補者の名簿をペラペラとめくりながら、ため息をつく。
「……はぁ。アル、僕は本当に父上の言う通りにするべきなのだろうか」
「……」
「お前に聞いた僕がバカだったよ」
(ちっ……僕の執事であるこいつも結局は役に立たない……)
アルは王家に仕える優秀な執事だが、アレクシスにとっては"優秀すぎる"男だった。
忠誠心が高すぎて、彼の野心には一切手を貸さない。
自分にとって有益な返答が返ってこないことを察し、アレクシスはまた書類に目を落とした。
が、ふと手を止める。
「……脳筋レオンの娘、か」
今の僕に貴族としての影響力はほとんどない。
なら、力を持つ者と直接話してみるのも悪くはないだろう。
このまま知りもしない女の顔を眺め続けるよりは、幾分マシだ。
「分かった、会おう」
アルが目を見開く。
「よろしいのですか?」
「どうせ無駄な時間を過ごすなら、興味深い相手の方がいい」
それが、リリアナ・フォン・エルフェルトとの"出会い"だった。
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数日後、アレクシスはエルフェルト公爵家の迎賓室にいた。
重厚な造りの部屋は、いかにも軍事貴族らしい無駄のない調度品で整えられている。
煌びやかさはないが、質実剛健──まさに"戦士の城"といった趣だ。
「……遅いな」
机に肘をつき、苛立たしげに扉を睨む。
公爵の娘ならば、もっと早く出迎えるのが普通だろう。
(まあいい、どうせ脳筋レオンの娘だ。期待はしていない)
その時だった。
扉の向こうから、甲高い声が響く。
「こんなところで転ぶな!立て!」
「ご、ごめんなさい……!」
アレクシスは眉をひそめる。
何か、足音とは別に"鈍い音"が聞こえたような気がした。
その直後──迎賓室の扉が開く。
「失礼いたします……」
小さな声とともに現れたのは、白銀の髪を肩まで垂らした金色の瞳の少女。華美ではないが上品なドレスを纏っている。
いや、ドレスを纏っていると言うより、ドレスに纏われていると言う方が正しいかもしれない。貴族でありながら貴族らしくない。
(……なんだ、この娘は)
第一印象は、ひどく"弱々しい"。
背筋こそ伸ばしているものの、どこかぎこちなく、怯えたような瞳をしていた。
そして、歩みを進めるたびに足が震えている。
「リリアナ・フォン・エルフェルト……か」
「は、はいっ!」
少女はビクリと肩を跳ね上げ、直立する。
その様子に、アレクシスはわずかに顔をしかめた。
「何をそんなに怯えている?」
「……い、いえ……」
リリアナは小さく俯く。
まるで、何かを隠すように。
──そして、アレクシスは気づいた。
彼女の手が、わずかに震えていることに。
その手首には、薄く赤い痣のようなものが見えた。
(……なるほどな)
その瞬間、アレクシスの中で"ある仮説"が生まれた。
「リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢。……君は、とても非力な娘なのだな」
その言葉に、リリアナはピクリと肩を震わせた。まさにその反応が、答えだった。
アレクシスは静かに笑みを浮かべる。
(なるほど……これは、"使える"かもしれない)
彼が、この少女に興味を持った瞬間だった。
アレクシスはリリアナの姿をじっと見つめた。
震える指先。
怯えた瞳。
まるで、己の存在そのものが"許されない"とでも言うかのような立ち振る舞い。
(……脆いな)
公爵令嬢という立場でありながら、彼女からは気品も誇りも感じられない。
あるのはただ、萎縮した少女の姿だけ。
アレクシスは、ため息をつきながら椅子にもたれかかる。
「リリアナ・フォン・エルフェルト。……君は、自分のことをどう思っている?」
「え……?」
突然の問いかけに、リリアナは戸惑ったように目を見開いた。
だが、アレクシスはその反応を楽しむように続ける。
「君は貴族として生まれた。しかし、その振る舞いは貴族らしくない。
戦士の家系に生まれながら、剣も取れず、魔法も扱えず。
かといって学問に秀でているわけでもなく、社交界でも名を馳せることもない。
そんな君は……この家の者にとって"必要"な存在なのか?君に価値はあるのか」
「……っ」
その言葉に、リリアナの肩が小さく震えた。
唇を強く噛みしめ、俯く。
(……図星か)
アレクシスは、彼女の反応を見て確信する。
彼女は"不要"な存在として扱われてきたのだ、と。
公爵家の娘でありながら、期待されることもなく、家の名に見合う力も持たない。
その事実を、彼女自身が痛いほど理解しているのだろう。
そして、彼女がその"劣等感"を抱えたまま生きていることも──。
「……私は……」
震える声が聞こえる。
「私は……父様の……期待に……応えたくて……」
リリアナは、拳を強く握りしめながら絞り出すように言った。
だが、その声はどこか"自信のないもの"だった。
「でも……何をしても、上手くいかないんです……」
「ほう?」
アレクシスは興味深げに頷く。
(面白い……これは実に面白い)
父親の期待に応えようとする"努力"。
それなのに報われない"現実"。
彼女が必死にもがいていることは、その表情を見れば分かった。
だが、問題は──
「君は、なぜ"努力"している?」
「……え?」
「君は父親のために努力しているのか? それとも、自分自身のために?」
リリアナは、言葉に詰まった。
その問いが、彼女にとって"想定外"だったのだろう。
何かを答えようと口を開きかけるも、言葉が出てこない。
(……ふむ)
アレクシスは、そんなリリアナの反応をじっくりと観察する。
「もし君が"自分のため"に努力しているのなら、それは素晴らしいことだ」
「……」
「だが、"父親のため"に努力しているのなら、それは実に滑稽だ」
「……どういう……こと、ですの?」
「簡単な話だよ」
アレクシスは、少しだけ口元を歪めた。
「君の父親は"力"を求める男だ。
剣の才も、魔法の才もない君を、果たして本当に"娘"として見ているのか?」
「……っ」
リリアナの目に、迷いが浮かんだ。
(案外、分かってはいるのだろうな)
自分が"エルフェルト公爵家の娘として失格"であることを。
父にとって"期待する価値のない存在"であることを。
それでも、彼女は必死に抗おうとしていた。
それは、アレクシスには"哀れ"にすら思えた。
──だからこそ。
「……君は、僕の婚約者になればいい」
「……え?」
リリアナの顔が、驚愕に染まる。
アレクシスは、彼女の反応を楽しむように微笑んだ。
「君は今、何をしても報われない立場にいる。ならば、"報われる場所"に行けばいいんじゃないか?」
「……それは、どういう……?」
「簡単な話さ。君が"王太子の婚約者"になれば、君の父親も君を無視できなくなる」
「……っ」
「そして、君自身も"エルフェルト家の失敗作"ではなくなる」
その言葉が、リリアナの心を深く抉るのを、アレクシスは感じた。
(さあ、どうする?)
リリアナは、何かを言おうとするが、喉が震えて声にならない。
「……私は……」
「選べばいいさ。君は"今のまま"父親の期待に応えようとして惨めな人生を歩み見続けるか、それとも"僕の婚約者"になって、新しい生き方を選ぶか」
アレクシスは、静かに言い放った。
その選択こそが、リリアナの"運命"を大きく変えるものとなる──と知っていたから。