目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第三十二話「弱き少女リリアナ」

 彼女は非力で、か弱い娘だった。

 愚図で、のろまで──そして、何よりも"凡庸"な女。


 何か特別な能力があるわけでもなく、剣の才があるわけでもない。

 魔法を扱えるわけでもなければ、頭がずば抜けているわけでもない。


 ──ただの、"公爵令嬢"。


 それが、"本来のリリアナ・フォン・エルフェルト"だった。


---


「何? リリアナ・フォン・エルフェルト? 誰だそいつは」


 乱雑に書類をめくる手を止めることなく、アレクシスは問う。


「レオン・フォン・エルフェルト公爵の娘です」


「……レオン。あの暴力しか頭にない男か」


 眉をひそめる。

 エルフェルト公爵──レオン・フォン・エルフェルト。

 王国でも屈指の軍事貴族であり、その剛腕と苛烈な性格は貴族社会でも有名だった。

 彼の名を聞けば、誰もが一歩引くほどの圧力を持つ人物。


「その者から話があると」


「断れ、アル」


 対面に立つ執事──アルに命じる。

 だが、彼は何も言わずに立ち尽くしていた。


「見ての通り、僕は今忙しい。婚約相手を自分で選べなんて、父上は一体何を考えているのだ? それも、どれもブスばかりじゃないか。僕の好みじゃない」


 アレクシス・フォン・ルクセリア。

 金髪碧眼の少年。


 王太子という立場にありながら、未だ貴族としての権力は皆無。

 だからこそ、政略結婚などというくだらないものには興味がなかった。

 婚姻で得られる力など、真の権力ではない。


(僕は、僕の手でこの国を変えなければならない)


 だからこそ、今こうして"選定"の場にいる。

 山のように積まれた候補者の名簿をペラペラとめくりながら、ため息をつく。


「……はぁ。アル、僕は本当に父上の言う通りにするべきなのだろうか」


「……」


「お前に聞いた僕がバカだったよ」


(ちっ……僕の執事であるこいつも結局は役に立たない……)


 アルは王家に仕える優秀な執事だが、アレクシスにとっては"優秀すぎる"男だった。

 忠誠心が高すぎて、彼の野心には一切手を貸さない。


 自分にとって有益な返答が返ってこないことを察し、アレクシスはまた書類に目を落とした。

 が、ふと手を止める。


「……脳筋レオンの娘、か」


 今の僕に貴族としての影響力はほとんどない。

 なら、力を持つ者と直接話してみるのも悪くはないだろう。

 このまま知りもしない女の顔を眺め続けるよりは、幾分マシだ。


「分かった、会おう」


 アルが目を見開く。


「よろしいのですか?」


「どうせ無駄な時間を過ごすなら、興味深い相手の方がいい」


 それが、リリアナ・フォン・エルフェルトとの"出会い"だった。


---


 数日後、アレクシスはエルフェルト公爵家の迎賓室にいた。

 重厚な造りの部屋は、いかにも軍事貴族らしい無駄のない調度品で整えられている。

 煌びやかさはないが、質実剛健──まさに"戦士の城"といった趣だ。


「……遅いな」


 机に肘をつき、苛立たしげに扉を睨む。

 公爵の娘ならば、もっと早く出迎えるのが普通だろう。


(まあいい、どうせ脳筋レオンの娘だ。期待はしていない)


 その時だった。

 扉の向こうから、甲高い声が響く。


「こんなところで転ぶな!立て!」


「ご、ごめんなさい……!」


 アレクシスは眉をひそめる。

 何か、足音とは別に"鈍い音"が聞こえたような気がした。

 その直後──迎賓室の扉が開く。


「失礼いたします……」


 小さな声とともに現れたのは、白銀の髪を肩まで垂らした金色の瞳の少女。華美ではないが上品なドレスを纏っている。


いや、ドレスを纏っていると言うより、ドレスに纏われていると言う方が正しいかもしれない。貴族でありながら貴族らしくない。


(……なんだ、この娘は)


 第一印象は、ひどく"弱々しい"。

 背筋こそ伸ばしているものの、どこかぎこちなく、怯えたような瞳をしていた。


 そして、歩みを進めるたびに足が震えている。


「リリアナ・フォン・エルフェルト……か」


「は、はいっ!」


 少女はビクリと肩を跳ね上げ、直立する。

 その様子に、アレクシスはわずかに顔をしかめた。


「何をそんなに怯えている?」


「……い、いえ……」


 リリアナは小さく俯く。

 まるで、何かを隠すように。


 ──そして、アレクシスは気づいた。


 彼女の手が、わずかに震えていることに。

 その手首には、薄く赤い痣のようなものが見えた。


(……なるほどな)


 その瞬間、アレクシスの中で"ある仮説"が生まれた。


「リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢。……君は、とても非力な娘なのだな」


 その言葉に、リリアナはピクリと肩を震わせた。まさにその反応が、答えだった。


 アレクシスは静かに笑みを浮かべる。


(なるほど……これは、"使える"かもしれない)


 彼が、この少女に興味を持った瞬間だった。


 アレクシスはリリアナの姿をじっと見つめた。


 震える指先。

 怯えた瞳。

 まるで、己の存在そのものが"許されない"とでも言うかのような立ち振る舞い。


(……脆いな)


 公爵令嬢という立場でありながら、彼女からは気品も誇りも感じられない。

 あるのはただ、萎縮した少女の姿だけ。


 アレクシスは、ため息をつきながら椅子にもたれかかる。


「リリアナ・フォン・エルフェルト。……君は、自分のことをどう思っている?」


「え……?」


 突然の問いかけに、リリアナは戸惑ったように目を見開いた。

 だが、アレクシスはその反応を楽しむように続ける。


「君は貴族として生まれた。しかし、その振る舞いは貴族らしくない。

 戦士の家系に生まれながら、剣も取れず、魔法も扱えず。

 かといって学問に秀でているわけでもなく、社交界でも名を馳せることもない。

 そんな君は……この家の者にとって"必要"な存在なのか?君に価値はあるのか」


「……っ」


 その言葉に、リリアナの肩が小さく震えた。

 唇を強く噛みしめ、俯く。


(……図星か)


 アレクシスは、彼女の反応を見て確信する。


 彼女は"不要"な存在として扱われてきたのだ、と。

 公爵家の娘でありながら、期待されることもなく、家の名に見合う力も持たない。

 その事実を、彼女自身が痛いほど理解しているのだろう。


 そして、彼女がその"劣等感"を抱えたまま生きていることも──。


「……私は……」


 震える声が聞こえる。


「私は……父様の……期待に……応えたくて……」


 リリアナは、拳を強く握りしめながら絞り出すように言った。

 だが、その声はどこか"自信のないもの"だった。


「でも……何をしても、上手くいかないんです……」


「ほう?」


 アレクシスは興味深げに頷く。


(面白い……これは実に面白い)


 父親の期待に応えようとする"努力"。

 それなのに報われない"現実"。


 彼女が必死にもがいていることは、その表情を見れば分かった。

 だが、問題は──


「君は、なぜ"努力"している?」


「……え?」


「君は父親のために努力しているのか? それとも、自分自身のために?」


 リリアナは、言葉に詰まった。


 その問いが、彼女にとって"想定外"だったのだろう。

 何かを答えようと口を開きかけるも、言葉が出てこない。


(……ふむ)


 アレクシスは、そんなリリアナの反応をじっくりと観察する。


「もし君が"自分のため"に努力しているのなら、それは素晴らしいことだ」


「……」


「だが、"父親のため"に努力しているのなら、それは実に滑稽だ」


「……どういう……こと、ですの?」


「簡単な話だよ」


 アレクシスは、少しだけ口元を歪めた。


「君の父親は"力"を求める男だ。

 剣の才も、魔法の才もない君を、果たして本当に"娘"として見ているのか?」


「……っ」


 リリアナの目に、迷いが浮かんだ。


(案外、分かってはいるのだろうな)


 自分が"エルフェルト公爵家の娘として失格"であることを。

 父にとって"期待する価値のない存在"であることを。


 それでも、彼女は必死に抗おうとしていた。

 それは、アレクシスには"哀れ"にすら思えた。


 ──だからこそ。


「……君は、僕の婚約者になればいい」


「……え?」


 リリアナの顔が、驚愕に染まる。


 アレクシスは、彼女の反応を楽しむように微笑んだ。


「君は今、何をしても報われない立場にいる。ならば、"報われる場所"に行けばいいんじゃないか?」


「……それは、どういう……?」


「簡単な話さ。君が"王太子の婚約者"になれば、君の父親も君を無視できなくなる」


「……っ」


「そして、君自身も"エルフェルト家の失敗作"ではなくなる」


 その言葉が、リリアナの心を深く抉るのを、アレクシスは感じた。


(さあ、どうする?)


 リリアナは、何かを言おうとするが、喉が震えて声にならない。


「……私は……」


「選べばいいさ。君は"今のまま"父親の期待に応えようとして惨めな人生を歩み見続けるか、それとも"僕の婚約者"になって、新しい生き方を選ぶか」


 アレクシスは、静かに言い放った。


 その選択こそが、リリアナの"運命"を大きく変えるものとなる──と知っていたから。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?