「……愚かな娘だ」
父、レオン・フォン・エルフェルトの冷淡な声が、迎賓室の静寂を切り裂く。
「お前のような出来損ないが、王太子殿下の婚約者など笑止千万。身の程を弁えろ」
リリアナの心がひどく冷える。
先ほどまでの決意が、父の一言で霧散していくのがわかった。
「王太子殿下。どうかお許しを。こやつはただの夢見がちなお子様。婚約の話など、冗談にもなりません」
レオンは深々と頭を下げる。
だが、彼の顔には謝罪の色など微塵もなかった。
「……なるほど」
頭を下げるレオンを見たアレクシスは薄く笑う。
「では、今日のところはこの話はなかったことにしましょう」
王太子としての威厳を崩すことなく、静かにそう言った。
その言葉に、レオンは満足げに頷く。
リリアナは──何も言えなかった。
(……やっぱり、私は)
変わることは許されない。
剣を握ることも、自由に生きることも、夢を見ることすらも。
ただ、父の望むように、"か弱い少女"のままでいなければならない。
その日、リリアナは再び"鳥籠"の中へと戻った。
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それから数年後。
アレクシス・フォン・ルクセリアは、未だに正式な婚約者を決められずにいた。
優秀な貴族令嬢は多い。
だが、どの娘も己の意志が強すぎた。何より好みじゃない。
(僕に従順で、美しく、王妃にふさわしい女性……そんな者は、いるのだろうか)
ふと、彼は過去の記憶を辿る。
(そういえば……あの時の少女はどうしているのだろうか)
リリアナ・フォン・エルフェルト。
あの日、すぐに折れたか弱い少女。
父の一言で何も言えなくなり、意志を貫くことすらできなかったあの女。
(──あの娘なら、僕に従順な妻になりえるのでは?)
アレクシスの脳裏に、その考えが浮かんだ。
決して悪くはない容姿。
おとなしく、素直で、支配するのに都合のいい女。
(試してみる価値はあるか)
彼は再び、エルフェルト公爵家を訪れることにした。
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数日後、アレクシスは公爵家に赴き、レオンと対峙した。
「──ほう、リリアナの婚約の話ですか?」
レオンは軽く目を見開くが、すぐに笑った。
「殿下も物好きなことで」
「彼女がどのように成長したか、気になりましてね」
アレクシスが問うと、レオンは微かに顔をしかめた。
「……ふむ。成長、と言えるかどうか」
「……何か?」
「昔のように"か弱い少女"ではない。むしろ、今は……天真爛漫というか……まるで別人のようになったもので」
「別人の、よう?」
その言葉に、アレクシスは眉をひそめた。
「まさか、見違えるほど美しくでもなったと?」
「いいえ」
レオンは淡々とした口調で告げる。
「リリアナは……剣を握るようになったのです」
その言葉に、アレクシスの表情が変わった。
(剣を?あのか弱かった少女が?)
信じられなかった。
剣など、戦いとは無縁の人生を送っていたはずだ。
それが、なぜ。
「リリアナは今、どこに?」
「ちょうど今夜の舞踏会に出席していましてな」
「……ほう」
アレクシスは興味を抱き、彼女に会うことを決めた。
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夜、舞踏会の会場は華やかに飾られ、多くの貴族が社交を楽しんでいた。
アレクシスは会場に足を踏み入れ、そして──目を奪われた。
リリアナ・フォン・エルフェルト。
彼女は、そこにいた。
だが、数年前の"か弱い少女"の面影はどこにもなかった。
(──確かにまるで、別人のようだ)
上品に着こなしたドレスに、凛とした立ち振る舞い。
そして何より、その瞳には"力"が宿っていた。
(本当に……あの時の彼女なのか?)
それを確かめるべく、アレクシスはリリアナにダンスを申し出た。
その動きは、まるで舞踏のプロのように洗練され、迷いのないステップを踏んでいた。
(……これは私の知っているリリアナではない)
困惑しながらも、彼は舞踏会の最後まで彼女を見つめていた。
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舞踏会が終わり、アレクシスの元へ彼の執事であるアルフォードが近づいてきた。
「アレクシス様、何かお考えでしょうか」
アレクシスは彼に問う。
「アルフォード……彼女は、本当にあの時のリリアナなのか?」
アルフォードは微かに笑った。
「ええ。彼女はあの時のか弱い彼女のままです」
その言葉に、アレクシスは眉を寄せた。
(……か弱い?アレが?)
か弱いと言う一言で説明が付くものなのか?
だが確かに、彼の執事が誇張を交えることはない。今までがそうだった。
彼は嘘をつかない。
また、公爵であるレオンは、確かにこう言った。
『まるで別人のようになったもので』
そして、自分の目が見たものも同じだった。
(──あれが本当に、あの時の少女なのか?)
舞踏会で踊るリリアナの姿は、記憶の中のか弱く従順な少女とはかけ離れていた。
研ぎ澄まされた動き、無駄のない所作、そして何より──あの瞳。
強い意志を宿したあの瞳は、もはやあの日の少女のものではなかった。
(……だが、もしアルフォードの言葉が真実なら?)
アレクシスの中で、戸惑いが生まれる。
彼が欲しいのは、強い女だ。それは武力だけでは無い。
意志を持ち、己の力のみで立ち上がる──そんな者こそ、自らの傍に相応しい。
(もし彼女が本当に変わったのなら……手に入れる価値がある)
しかし、執事の言葉はそれを否定していた。
「失礼ながら、アレクシス様。彼女はただ剣を握れるようになっただけです」
アルフォードは静かに告げる。
(……"ただ"?)
アレクシスは思考を巡らせた。
アルフォードは長年仕えてきた執事であり、彼の言葉が誤りであったことは今まで一度もなかった。
(僕はどちらを信じるべきだ?)
自分の目か、忠実なる執事の言葉か。
迷いの末、アレクシスは静かに息を吐き──決断した。
「……剣を握る者が、王妃として相応しいとは思えない」
そう告げ、彼はリリアナとの婚約を破棄した。
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その知らせを受けた時、リリアナは何の感情も抱かなかった。
「……分かりましたわ」
とただそれだけを呟き、静かに微笑んだ。
かつてのリリアナなら、絶望したかもしれない。
だが、今の彼女には、王太子の婚約など必要なかった。
何故なら彼女はすでに、リリアナ・フォン・エルフェルト公爵令嬢では無く、
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その頃、アルフォードは誰もいない執務室で静かに独り呟いた。
「……これでいい」
彼の意図を知る者は、まだ誰もいない。