静寂だけが部屋に残る。
あれほど騒がしかった戦場は、まるで嘘のように静まり返っていた。
血の匂いが充満し、倒れた死体と滴り落ちる赤が、床をどこまでも染めていく。
だが──その静寂も、たった数秒で終わる。
「──はっ!ミレーヌ!ミレーヌ!!」
リリアナの焦燥した声が、沈黙を破った。
瞬間、世界が再び動き出す。
「お嬢様……お嬢様あああああああっ!!」
ミレーヌもまた、リリアナの声に応えるように叫ぶ。
泣き叫びながら、彼女は走った。
そして、強く──互いを抱き合う。
ミレーヌの震える指先が、確かめるようにリリアナの腕を掴む。
リリアナの指も、今にも消えそうな儚さで、ミレーヌの背を撫でる。
ただのぬくもりの確認だった。
言葉では足りない。言葉など、いくら並べても、この瞬間には勝てない。
「ごめん、ごめんねミレーヌッ!!」
「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けし申し訳ございません、お嬢様っ!!」
どちらが謝るべきかなんて、そんなことはもうどうでもよかった。
ようやく──お互いの命を確かめることができたのだから。
ミレーヌの細い肩が、しゃくり上げるたびに震えた。
"もう、誰も奪わせない"。
リリアナは、ミレーヌの背中に回した腕に、力を込めた。
一方で──。
「……何故です、師匠」
低く、静かな声が響いた。
「……」
「貴方がこれくらいで死なない事を僕は知っている」
ユウは、血の海に倒れ込むアルフォードを見下ろしながら、淡々とした口調で言った。
彼の目は、憐れむようでもあり、怒っているようにも見える。
アルフォードの身体は、ピクリとも動かない。
その周囲に広がる赤黒い血溜まりは、あまりに生々しく、まるで部屋全体を浸食するかのようにじわじわと広がっていく。
生きているはずなのに、"死"が背後にまで染み付いていた。
「……ユウ」
その名が、重たく響く。
アルフォードの口が、やっとのことで動いた。
その声が発された瞬間、全員の目が彼に向けられた。
「お、お嬢様っ!?」
ミレーヌが息を呑む。
リリアナもまた、ミレーヌの無事を確認しながら、ゆっくりとアルフォードの元へ歩を進める。
ずる、と靴底が血溜まりを踏んだ。
ぬめる感触が足元から伝わる。
しかし、彼女は決して歩みを止めなかった。
片手には、まだ赤黒く濡れた剣を握ったまま。
そして──。
「どいて」
執事の前に立ったリリアナは、冷たい声でそう言い放つ。
「リリアナお嬢様、ここは僕に任せてください」
「嫌」
即答だった。
「……嫌と言われましても」
ユウが困惑したように眉をひそめる。
しかし、リリアナはまるで意に介さず、剣を強く握り直した。
剣の刃に付いた血が、ひたりと床に落ちる。
そして、その切っ先を、血を流しながら横たわるアルフォードに向けた。
「……貴方があいつの付人ね」
「……いかにも」
「聞かせて。どうしてあんなやつに従っていたのか」
リリアナの声は冷静だった。
だが、その瞳の奥には、何かを探るような鋭さが宿っていた。
「…………私のせいだからです」
アルフォードは、微かに息を吐いた。
「……私が、あの方を正しい道へと導くことが出来なかった。あの方はルクセリア家でも優秀なお方──」
「そんな事どうでもいい」
リリアナは、きっぱりと遮る。
「では何をお答えすれば……?」
「貴方自身の事を聞かせて。貴方からは後悔の念を感じる。だからその理由を教えて」
「……あれはアレクシス様がまだ物心ついたばかりのことでした──」
アルフォードは、静かに語り始めた。
---
王城の奥深く、暗い一室。
豪奢な調度品が並ぶその空間に、ひとりの男が横たわっていた。
「私がアレクシス様のお世話をっ!?」
驚愕と困惑が入り混じった声が響く。
六十半ば程の男の名はアルフォード。彼は目の前の男を見つめた。
王位にある者でありながら、その身体は異様に痩せ細っており、その肌はまるで蝋人形のように血色がなく、手足は骨ばり、動くことすらままならない状態だった。
しかし──その瞳だけはまだ死んではいなかった。
鋭く、真っ直ぐで、恐ろしいほどの執念が滲んでいる。
「……ああ。私は見ての通りだ。もうここから動くことすらできやしない」
枯れた声が告げる。
「私が死ねば、次代の王はあの子になる……だが、あの子はおかしい。お前も気付いているであろう、アルフォード」
──気付かないはずがなかった。
アレクシス・フォン・ルクセリア。
生まれながらに王族の血を引く男。
だが、その性格はあまりに"異質"だった。
歪んでいた。独占欲が強く、支配を当然のように考え、他人を道具のように扱う。
自分に従う者だけを"価値あるもの"と認識し、それ以外の者は"不要"と切り捨てる。
王太子としての教育を受けたところで、それは変わらなかった。
むしろ彼にとって、それらは"他者を従えるための知識"に過ぎなかった。
「……だからどうか、あの子を正しい道へ導いてやってほしい」
王の声には、焦燥が滲んでいた。
今のままではいけない──。
アレクシスがこのまま王となれば、この国は確実に歪むと。
「それはアレクシス様を王にさせるなと、そう仰っているのですか」
アルフォードの声は、あくまで冷静だった。
「……ああ」
王は、静かに肯定する。
「頼むっ!アルフォード!私はいつ終わるのか分からないのだ!この国を救えるのはお前しかいないのだ!だから頼むっ!!」
今にも崩れ落ちそうな身体を揺らしながら、王は手を伸ばす。
まるで溺れる者が、最後の藁を掴もうとするかのように。
「お前は私の馴染であろう!?私を守ると昔から剣だけを握るお前と、それを見て笑っていた私は……俺達は友では無かったのか……?」
その言葉に、アルフォードは目を伏せた。
──友。
確かに、かつてはそうだった。
身分の差こそあれど、彼らは共に時間を過ごし、剣を交え、語り合った仲。
しかし──。
「……友ですとも」
アルフォードは、静かに言った。
「なら──」
「ですが、それ以上に貴方は今やこの国の王」
「──っ」
「身分の差というものがあります。今の私とあなたではもう昔のような馴染みではないのです」
その瞬間、王の顔が苦しげに歪んだ。
今の彼にとって、王としての威厳など意味はなかった。
ただ、友として頼りたかったのだろう。
だが、それをアルフォードは否定した。
「……では失礼します。お体、大事にして下さい」
アルフォードは王に背を向けた。
「……俺を捨てるのか、アルよ」
しぼり出すような声。
しかし王の手を取ることなく、アルフォードは一礼し、王宮の扉に手を掛ける。
もう振り返ることはなかった。
「──待てっ!待ってくれアルッ!」
悲痛な叫びが響く。
しかし、彼は歩みを止めなかった。ただ──
「アレクシス様は──ワシに任せろ
そうだけを言い残し、王宮を後にした。
──これが、運命の分岐点だった。
---
「今日からお前が僕の執事とかいうやつなのか?」
冷めた声が響く。
幼い少年が、扉の前でアルフォードを見上げていた。
まだ子供のはずなのに、その目にはまるで感情の色が見えなかった。
(やはり恐ろしい……)
アルフォードは思った。友の言う通りかもしれないと。
「はい、アルフォードと申します。貴方様のお世話をさせて頂くことになりました」
そう告げた瞬間、アレクシスは口元を歪める。
──それは、笑みなんかでは無い。
愉悦と、冷笑と、支配欲。
その全てが入り混じった、"嗤い"だった。
「そうか」
少年は、アルフォードの顔をじっと見つめ、言った。
「なら、僕に従え」
──その言葉が、全てを決定づけた。
こうして、二人の関係は始まった。
だが、それは"主従"等ではなく、
あくまでアルフォードは、最後まで友の従者であったのだ。