明治の新政府が発足して以降に洋式化が進んだ、というわけでもない。
幕末の頃には西洋の調練方式が取り入れられていたし、髷を止めて総髪にする者が武士階級から広がっていった。
実際、勝利を収めた尊王派側の軍は接触的に洋装の軍服へと変換を進めていたし、各藩は後生大事に抱えていた火縄銃を大慌てで新型銃へと更新していた。
維新の騒乱が落ち着いて、ようやく一般市民にも洋装が少しずつ広がり始めたのが、この時代の世間の表情である。
海外からの情報も入り初め、外国人の姿も時折見かけるようになってきた。
街の大通りには馬車が行き交うことも珍しくない。
緑小路家の令嬢、花が誘拐された現場は、そんな表通りから路地へと入ってすぐの場所であった。
残されていたのは、一台の馬車と使用人の遺体。そして『天誅』と書かれた一枚の布切れ。
消えてしまったのは、緑小路花。そして友人の
「馬車にも周囲にも、特に不明な血痕などは残っていません。あるのは亡くなったお付きの方の遺体に付着しているもののみです」
と、現場にいた警官は佐崎に説明する。
夜間の間に屋敷内に怪しい点が無いかを確認したあと、軽く休息を取った佐崎は、津賀野と共に緑小路花が誘拐されたと思しき現場へとやってきたのだ。
早暁にも関わらず、現場を保存するための警官が数名詰めており、そこに居た一人が現場の責任者であるという。
「馬は逃がされたのか、盗まれたのかわかりませんが、馬車から解かれていました」
雛森と名乗った警官は、丁寧に現場の説明をする。
「馬車の中に血痕はありませんので、下りたところを襲撃されたのでしょう。遺体があった場所以外には血もありませんでしたので、一太刀で絶命し、その場に倒れたようです」
「一太刀……ということは、死因は刀傷ですか」
佐崎に問われ、雛森は自分の右わき腹から左肩へと指でなぞった。
「ええ、ばっさりと」
遺体はすでになかったが、血の跡は生々しく地面に残っている。
踏み固められた土の道路は黒く染まっており、血だまりの他、うっすらと人間の上半身の形が見える。
「書置きは血で書かれたものでしたよ。悪趣味なものです」
天誅と殴り書きされたぼろ布は、証拠品としてすでに押収されていた。
「天誅とは、まるで勤王志士のようですな」
「志士なぞという言い方、おれは好みませんがね」
佐崎が言うと、雛森は口を尖らせた。
「とはいえ、明治になってそういう連中は大概政府の役人になりましたからね。華族の緑小路氏を攻撃する謂れはありませんや」
この時期の警官と言えば、元は二本差しであった者がかなり多い。雛森も元はどこかの藩士なり浪士であったのだろうと佐崎は考えた。
「私の知る限り、旦那様は勤王派連中との折り合いが悪いというわけではありませんから、確かにその線は薄いでしょう」
「では、なぜそのような書置きをしたのでしょうか」
津賀野の疑問に、雛森は無精ひげが目立つ細い顎を擦って首を傾げ、佐崎は眉間に皺を寄せて「推察するには材料が少ない」と判断した。
ただ、と雛森は声を低くして言う。
「あまり表沙汰になっちゃいませんがね。天誅の書置きを現場に置いておく賊は未だにそこそこいるんですよ」
彼が言うには、新政府の連中とすれば過去の恥部の発露ととられかねない犯行である以上、大々的に報じられるのは都合が悪い。
「上の圧力で、秘密裏に処理しちまうんですがね」
元二本差しの侍である警察官たちにしてみれば、幕末の時期に多くの侍が害された出来事の再現である。当然、面白くはない。
「目撃者はおられますか」
「いえ、今のところ……」
佐崎の問いに、雛森は芳しくないと苦い顔をする。
「人通りの多い場所ではありますがね。今の御時世、厄介ごとに首を突っ込もうなんて奴は少ないですよ。正義感にせよ傾奇者気取りにせよ、そういう連中はもう死んでるか、政府で働いてるでしょうよ」
佐崎はその言い草が気になったが、今は彼の思想信条に付き合ってやる暇はない。
「手掛かりは無い、ということですね」
津賀野が問うと、雛森は全くないわけではない、と答えた。
「強いて言うなら、下手人は中々の腕前ってところでしょうな。これだけの技量のある人物となると、まあ少ないでしょうな」
いずれにせよ、元二本差しであることは間違いないでしょう、と雛森は結論付けた。
「雛森さんのような、というわけですな」
「……見た目と違って、家老さんは冗談がお好きなようで」
「そのような役職ではありませんよ。わたしは単なる執事に過ぎません」
執事という言葉がいまいちピンとこないようで、雛森は首を傾げた。だが、似たようなものだろうと勝手に納得している。
「おれから言わせてもらえば、佐崎さんも同じような出自ではありませんかね」
「さて、わたしには心当たりはありませんな」
二人の視線の間で、ぴり、と緊張が奔る。
「あの……事件の話を進めたいのですが。何かお嬢様の行き先に関わる情報はありませんか」
津賀野が言葉を挟んだことで、多少空気がほぐれる。
佐崎は咳払いをして、「失礼しました」と一礼する。
雛森も帽子を取って頭を掻いた。
「いやはや、おれもどうも熱くなっちまって。……行き先と言われましてもね。あたりをつけるとすりゃ、不平士族あたりじゃないかと思うんですがね」
「だとしても、数が多すぎますね」
雛森の言葉に、佐崎が続けた。
「御一新からこっち、あちこちで話は耳にしますが、それほど腕前があるような連中がいるとは思えませんが」
「まあ大半は士分を笠に着てた能無し連中が、過ぎ去った我が世の春を認めたくねぇって手合いですがね。中には維新で死にきれなかった連中もいるんですよ」
雛森はふいに暗い顔を見せたが、すぐにへらりと相好を崩した。
「ま、いずれにせよもう少し絞り込みをしませんと、な。それより、折角おいでいただきましたので、状況を確認させていただきたいのですが」
「良いでしょう。協力いたします」
状況について聞きたいという雛森の問いに、佐崎は快く応じると返した。
二人の持つ情報から整理された状況としては、緑小路家の令嬢である花が、友人である六座かのえと共に、馬車に乗って緑小路邸へと向かう途中の犯行であること。殺害された使用人以外の姿はなく、花もかのえも誘拐されたであろう状況であること。
そして、襲撃を行ったのは複数人であろうということだ。
いくら十代の娘が相手とは言え、多少の抵抗はしたであろう二人を単独で拐すのは不可能だろう。
「であれば、最初から周到に準備をした可能性が高いわけですね」
津賀野が結論付けると、佐崎や雛森も同意した。
「徒党を組んで、単なる襲撃ではなく誘拐を行う。賊とは言え、そこいらの破落戸では不可能なはずです」
ここに至っても、佐崎は屋敷が監視されている可能性について語りはしなかった。津賀野もそうだが、雛森に対しても警戒を解いていない。
二人の言葉を聞いて、雛森が難しい顔をして顎の無精ひげを撫でた。
「一人、そういう奴の名前を知っとります。雉峰という男ですがね」
一般の人に言いふらさないで欲しいと声を潜め、雛森は佐崎たちに顔を寄せた。
「何人かの士族落ち連中を集めて、やくざ者のような真似をしているのが居ましてね。おれたち警察も追っちゃいますが、これがなかなか」
それ以上はちょっと情報は掴めていないと言う雛森に礼を言い、佐崎は津賀野を連れて現場を離れた。
「あまり情報は多くありませんな」
「ですが、あの雛森という警官はなかなか気が利きます。色々と情報をくださいました」
「そうですが、あまり信用はおけませんね」
現場から充分に離れた二人は、語りながら六座家へと向かっていた。最後に緑小路花と会ったのは六座かのえであるはずで、その自宅で何かしらの情報が得られないかと考えたのだ。
「そうでしょうか」
「まず、あの御仁は遺体の傷を見てわき腹から肩口にかけての傷である、と指で示しましたね」
津賀野はそのことを思い出しながら、確かにと頷く。
「遺体は検死にかけられたはずですが、そんなにすぐには結論は出ないでしょう。まして現場を守る警官にまで連絡が来るものでしょうか」
しかし、雛森は袈裟懸けではなくはっきりと逆袈裟での刀傷だと断言していた。
「抜き打ちの一撃であったのか、あるいは庇い手を避けるためかはわかりませんが、刀傷だけではっきり見分けがつくには、相当な経験が必要です」
恐らくは維新の頃に相当の修羅場をくぐっているだろうことは想像に難くない。
「彼も不平士族の一味、という可能性もあります。今のところは疑いでしかありませんが」
「では、情報を疑って動かねばなりません。いずれにせよ、六座家に伺わねばなりませんね」
「まったく情報が無いわけではありませんよ。幸いというべきか、どうか。雛森さんは知りませんでしたが、彼が口にした雉峰という男には覚えがあります」
「それは……! 御一新前のお話ですか」
目を見開いた津賀野に、佐崎は嘆息して答えた。
「あまり良い思い出ではありませんがね。そちらに当たるのは後にするとして、まずは予定通り六座家へ向かいましょう。先方も混乱の中にありましょうが、のんびりしている余裕はありません」
そうして、二人が常人のそれよりもかなり早い足取りで六座邸へと歩みを進めたところで、後ろから声をかけた連中がいる。
「……何か、御用ですか」
視線だけを向けた佐崎の問いに、相手は複数名で道を防ぐように広がって。無言のまま距離を詰めてくる。
そのまま誘いこまれるように路地へと入ったところで、そこにも待ち伏せの一団がいた。
「まったく、急ぎだというのに。狙いは何ですか。と問うても答えないでしょうね」
佐崎は手袋を整えると、右手で懐から小刀を取り出した。
「仕方がありません。話したくなる状態になっていただきましょう」
そこに若干、怒りの矛先が現れたことに対する昂揚があると気づいて、隣で身構えた津賀野は賊よりも佐崎に対して緊張を感じていた。