緑小路家御用達の菓子舗は、屋敷からそう遠くない場所にある。
六座邸へ向かう途上、やや遠回りすることになるが、それでも信用できる確実な品を選ぶことを佐崎は好み、当主もまたそれを支持している。
佐崎が名代として届け物をすることは珍しくなく、むしろ緑小路当主本人よりも頻繁に顔を出す相手の方が多い。
「ようこそいらっしゃいました」
と、菓子舗の女将が深々と頭を下げて佐崎を出迎えるのは、そういう流れで当然のことでもあった。
催事などの際には大量の注文を行うこともあり、店側はいつでも緑小路家の要望に応えると常々佐崎に話していた。
「お世話になっております。菓子折りを一つ、お願いしたいのですが」
「かしこまりました。御手土産としてお包みしてよろしいでしょうか」
慣れた調子でのやり取りは、これまで幾度となく繰り返されてきた内容である。金額の指定を受けた女将が、詰め合わせの内容を伝え、それで良いと佐崎が頷くまでが一つの流れとなっていた。
「では、お包みします。粗茶ですが、よろしければご一服ください」
「ありがとうございます。それでは、失礼して」
用意された椅子に腰を下ろし、熱い茶で口を湿らせる。佐崎は煙草をやらないので、煙草盆は使わないが、ちらりと見遣るだけはする。
以前は喫煙していたのだが、ある日を境に止めている。
臭いが身体に残ると、闇討ちに不利になるからだ。
「花お嬢様はお元気でらっしゃいますか」
「ええ、お元気ですよ」
女将がにこやかに尋ねてくるのを、佐崎はさらりと返した。
「実は洋菓子を取り扱うことになりまして、若い子には大変好評でございますれば、宜しければお嬢様にも味わっていただきたいと存じます」
言いながら、女将はお試しにと小皿に小さな焼き菓子を二つ乗せて出してきた。
「ありがとうございます。ですが、少し急ぎの用がございますので、これは後程お嬢様にお渡しさせていただきますね」
「左様ですか。御口に合いましたら幸いでございます」
「ええ、きっと感想をお伝えに伺います」
焼き菓子を懐紙に手早く包み、懐に納めたところで注文の菓子が用意される。
風呂敷包みになっているのを、佐崎は両手でしっかりと受け取った。
「ありがとうございます。いつも通り、風呂敷は屋敷の者に返しに向かわせます」
「いつでも構いません。いつも御贔屓いただき、誠にありがとうございます」
女将に見送られて菓子舗を後にした佐崎は、しっかりと両手に菓子を抱えて道を進む。
背筋を正し、するすると滑るように歩くその姿は、一見すると単に育ちの良い人物にみえる。だが、武門の者からすれば、軸のぶれない見事な足運びであると気づいただろう。
その軽やかな足取りが、ふいにぴたりと止まる。
「……人違いでは?」
「緑小路家執事の佐崎様ではありませんか?」
いつの間にか、佐崎の数歩後ろに立っている男がいた。
尾行に気付いた佐崎であったが、その距離は意外なほど近く。相手の顔を見るや否や、佐崎はその身体を滑らせるように路地へと入り込む。
「何者ですか」
暗がりから誰何しながら、風呂敷をそっと解いて中の菓子折りを路地に放置された木箱の上にそっと置いた。
「いえ、少しお噂を耳にしたので、確認したいことがありますもので」
言うが早いか、男は路地へと飛び込む勢いで距離を詰めた。
脇をぐいと絞め、絞り込むように叩き込んでくる右手の突きは、鋭い。
これを佐崎は風呂敷を両手で引き絞り、直接触れないように受け流した。
「……やはり。妙な臭いがしたので、念のためのつもりでしたが」
風呂敷は二割ほど裂けてしまい、その部分はやや濡れている。
「素晴らしい勘働き。御見それいたしました」
慇懃に語る男は、右手の親指につけていた鉄製の爪を見遣る。
「弦楽器用の爪なんですがね。ちょいと磨いてやって、溝を切って軽い痺れ薬をしみこませてやると、これがなかなか、使い勝手の良い道具になるのですよ」
すぐ曲がってしまうから、使い捨てですがね、と言って男は爪道具を外して上着の中に放り込んだ。
「鈴木、と申します。お見知りおきを。念のため確認ですが、やはり緑小路家の佐崎さまで間違いないですよね」
「単なる使用人で、執事と呼べるほどの地位ではありませんが」
敵意が抜けた様子うの鈴木を相手に、佐崎は嘆息しながら避けた風呂敷を広げて見せた。
「まったく……。預かりものなのに」
「これは失敬。後日、当家の者から代わりの風呂敷をお届けいたしますので、どうかご容赦を」
「いずれかの華族家の方ですか」
「お世話になっております、六座家にお仕えしております、しがない雑用係でございます」
佐崎は眉を顰めた。
六座家との交流は令嬢である花と、六座家のかのえ嬢との関係もあり、互いの家の行き来はかなり密である。
その中で、佐崎は鈴木と称するこの男を見たことがない。
「つい二か月前からのお仕えでございますれば、お初にお目にかかるというわけでございまして」
へらりと笑う鈴木の顔に、佐崎は妙な違和感があると気づいた。
「……何れかの密偵、といったところですか」
「やはり、鋭い。津賀野の評価は間違いないようですね」
その言葉で、佐崎はこの男がどこの所属であるか見当がついた。
「津賀野がお世話になっております。なかなか面倒な状況でございますれば、私もこうして、昔取った杵柄とやらを買われて、かり出されているわけでございます」
それで、と佐崎は置いていた菓子を抱えなおした。
「あいさつ代わりに一撃入れるのが、政府方針というわけですか」
「いやはや、失礼いたしました。どうも津賀野の報告内容が怪しかったもので、自分で確認してみたかったもので」
ひょい、と頭を下げた鈴木は、すぐににこやかな笑顔を貼り付けた顔をあげた。
「ご挨拶もあるのですが、一つお伝えしたいことと、お願いがございまして」
「うかがいましょう」
「緑小路花様の所在についてですが」
その名前が出た瞬間、佐崎と鈴木の間にぴり、と張りつめた空気が流れる。
「西町の作業場跡に幽閉されておいでですよ」
「なぜ、それを」
「知っているか、という意味でしたら、わたしの部下が調べてくれました。なぜ伝えるか、という意味でしたら、わたしや手下が動けない理由があるのです」
鈴木は隠し事など無いかのように、詰めている六座家から長時間離れるのが難しい状況であり、部下たちは荒事に向いていないからだと述べた。
「何分人手が足りていないものでして、津賀野を向かわせるのが筋とは思いましたが、些か腕前に不安がありますので」
「それで、私を利用したいと」
「お願い、でございますよ。佐崎さまにとっても良い提案かと思いますが」
佐崎は鈴木の顔を見る。
一見するとさわやかな笑み。だが、その裏に何があるのか、底の見えない、真っ暗な穴がぽっかりとそこにある様な、背筋が寒くなる何かがある。
「あなたを信用はできませんが……その話、乗ってみましょう」
「流石は『黒旋風』どの。話がわかる」
「あまり、その言葉を聞きたくはありませんな」
佐崎は手にしていた菓子折りを鈴木へと手渡し、「これは六座様へのお見舞いの品です」と伝えた。
「これを持ち帰れば、屋敷を抜けた言い訳は立つでしょう」
「ありがたく、頂戴します」
「いずれにせよ、六座家にお渡しするものでしたので。……あなたが本当に六座にお仕えされていることを祈っておりますよ」
「そこはどうぞ、いつでもご確認ください。それと」
押しいただくように菓子折りを胸に抱え、鈴木は再び頭を下げた。
「六座の御当主も、緑小路さまと同じく、心痛に沈んでおられます。どうか、かのえお嬢様をお救いくださいますよう、重ねてお願い申し上げます」
少しだけ、そこに悔しさが滲んでいるように佐崎は感じた。
怪しい男だが、此度の狼藉に対して自らが動けぬことに歯痒さもあるのだろう。仕事に徹して尚、力不足を呪っているかのように。
「お引き受けします。事が終わりましたなら、改めてお礼をさせていただきます」
「その際は、ゆっくりお話をさせていただく機会をいただければ幸いです。わたしが望むのは、ただ物事が恙なく進むこと、それのみでございますよ」
戦いなど、疲れるだけですからね。そう言って鈴木は静かに去っていった。
「あれも、幕末の亡霊の一種でしょうか」
佐崎は自分と似た何かを感じながらも、その異質さがべったりと空気中に残っているような不快さに苦笑していた。
日ノ本が混乱していたあの頃には、人の道からころりと外れてしまったような奴があちこちにいたものだと思い返す。
佐崎も危うかった。
「そうですね。戦いなど、疲れるだけです」
死闘から離れたこの数年の幸福を思い出し、佐崎は平穏を取り戻すため、件の作業場跡へと向かう。
佐崎にとって、平穏とは緑小路家での日々であり、その中心には花という存在が必要不可欠なのだ。
日は昇り、街は光に包まれている。
日の当たる道を進み続ける佐崎は、もう闇に飲まれる気は毛頭なかった。