「花に身を守る術を教えてやってくれないか」
と言い出したのは、緑小路当主である花の父親であった。
「新政府体制が落ち着いてきたと言っても、まだ安心して町を歩けるような状況でもない。佐崎、どうだろうか」
「望まれるのであれば。ですが、お嬢様のお気持ちはいかがでしょうか」
技を教える経験など数えるほどしかない佐崎だったが、伝えるのであれば手を抜く気はまるでなかった。
自分の稽古ほどでなくとも、ある程度は厳しく教えるつもりだ。
「護身術と言っても、生兵法は大怪我の基と申しますゆえ、しっかりと気を入れて稽古いただかなければなりません」
「覚悟はあるか、という意味なら、問題あるまい」
緑小路は腕を組んで口の端を下げた。
その視線の先には中庭で稽古着を着て走り回っている花の姿があり、その周囲では女中たちが不安げに見守っている。
「どうやら、娘は女だてらに強くあることを望んでいるらしい。誰の影響かはわからんが、時代かも知れんな」
幕末の荒んだ空気は随分と落ち着いてはいるが、新しい時代でたくましく生きようとしているのは、何も政府関係の男ばかりではない。
むしろ市井では戦で少なくなった男手を補って余りある、女たちの活躍は目覚ましい。
「わしとしても、花が自分の身を守れる程度には強くあってもらいたい。御一新が成ったとはいえ、まだ不安はある」
緑小路の不安が、不平士族たちのことを指していることは佐崎にも理解できた。
「平時に乱を起こすのは、士道に背くことではないかと」
「士道か。連中からすれば、幕府の敵を誅することこそ士道なのであろう。理解はできんが、これも新政府が後始末をせねばならんことだ」
次代に禍根を残さずに済むように、と緑小路は続けた。
「願わくば、あの子たちが大人になった時代には、戦など無い穏やかな日本であってほしいものだな」
「私も、旦那様と同じ気持ちでございます。私のような人間は、もう必要のない世の中が幾久しく続きましたら、最上でございます」
佐崎の言葉に嘘は一切ない。だからこそ、緑小路はそれが気になった。
「それは駄目だな。お前のような人財は、まだ必要だ。暗い時代を知る者として、わしの次に花を支えてもらわねば困る」
緑小路は佐崎を高く評価している。
それも戦闘技術の面でなく、よく観察し、率直に意見し、過不足なく補佐ができる点を。
「今の時代、誰にも過去がある。それを恥じる気持ちもわかるが、だからと言って今のお前を否定するのは間違っている」
血に塗れた過去を持つ者は多い。
そのことを誇る者、栄達に利用する者もいるが、むしろ腹の中で時折蠢いては、背骨を軋ませる重りのように感じている者もいる。
「頼めるか、佐崎」
「……畏まりました、旦那様」
使用人として、佐崎がこの時引き受けたのは、花への護身術指導だけではない。彼女の将来を守るという任務を命じられたのだ。
それは明言されたものではない。
しかし確実に、佐崎の魂に刻まれた。
彼の生涯の役割として。
花が背後にいる相手の、それもつま先を的確に踵で踏みつけたのは、佐崎の丁寧な指導の賜である。
「貴様ぁ!」
苦悶と怒りを綯い交ぜにした叫びと共に、雉峰の刀が振り下ろされる。
それを花は相手の腕をかいくぐるようかたちで、頭を下げてやり過ごした。
そこから、花はわき目もふらずに走る。
全力で駆けて、駆けて、縛られたかのえを守るように立ちはだかった。
「はぁ、はぁ……」
疲労よりも緊張で息が上がっている花だったが、その瞳にはしっかりとした意思がある。危地を抜けて尚、折れない意思が。
雉峰はそれが気に入らなかったのだろうが、激昂して花に向かって構えたことが、決定的な失策であった。
「私を前にして、目を逸らすとは」
雉峰の背後に、黒い執事服の陰がするりと忍び寄る。
背筋に寒いものが奔ったと同時に、雉峰は反射的に首元を左腕で庇った。
黒旋風は、その名の通り相手の背後へとするりと風のように入り込み、内反りの奇妙な刃で相手の首筋を斬り裂く。
それは幕末の江戸や京で活動していた志士たちの間では、人斬りと呼ばれた者が幾人も存在したが、中でも黒旋風だけは、姿ではなく技の方が広く知られていた。
無論、生き残った者の証言ではない。目の前で味方を斬られた者が広めたものだ。
それがわかっているから、雉峰は首を守った。
だが、それは佐崎も想定しているし、そもそも首を狙ってはいない。
「お嬢様の前で殺しはしません」
佐崎の小刀は、防御に動いた雉峰の左ひじを割いて、その腱を断った。
次の瞬間には、佐崎は再び立ち位置を変え、花の前。つまり雉峰の正面へと回った。
「ぐあぁ……」
出血する肘を押さえ、膝を突いた雉峰を見下ろす佐崎が口を開いたが、その相手は雉峰ではなかった。
「お嬢様。お待たせして申し訳ございません。少々御見苦しい光景となりますので、目を逸らしていただけますでしょうか」
殺しはしないが、見ての通り教育に良い光景ではない、と佐崎は花を気遣った。
「いいえ、佐崎。わたしはあなたがどう戦うか、しっかり見ておきます。だから、わたしの友人をこのような目に遭わせた悪漢をとっちめてやって頂戴!」
「なんとまあ……かしこまりました」
もう十五歳なのだから、と花は自分への気遣いは無用であると断言。使用人たる佐崎に対し、堂々とした命令を下した。
そして自分のためでなく、友人のために、と。
「ふざけるな」
花の成長を噛みしめている佐崎に対し、ふらふらと立ち上がった雉峰が吐き捨てた。
「あの地獄の戦いを、知らずに育った小娘が、偉そうに……」
「まだ薬の影響があるようですね。とはいえ、もう限界でしょう。大人しく縛に就きなさい」
雉峰の言葉を、佐崎はあえて無視した。
「お前の戯言に付き合ってやる余裕はありません。敗者としての役割を果たしなさい」
血を失い過ぎたのだろう、顔を青くして、雉峰はぐったりとうなだれた。
「腹を切れ、と」
「いいえ。お前の裏にいる者が誰か、何を目的としているかを詳らかにせよ、と言っているのです」
切腹など、もう時代遅れのことであるし、何より雉峰には死に逃げることなど許されない。重要な糸口となるのだから、全て話してもらわねばならない。
「ですから……む。気絶してしまいましたか」
いつの間にか倒れ伏していた雉峰の首すじに触れ、念のため絶命していないことを確認した佐崎は、ちらりと花を見遣った。
かのえを縛っている縄を懸命にほどこうとしている彼女の姿に、ふと笑みが零れる。優しい女性に育ってくれた、と。
「お嬢様、私めにお任せを」
言うが早いか、佐崎は小刀で以て縄を断ち切り、ぐらりと倒れかけたかのえの身体をそっと受け止めた。
「この者は一先ず縛り上げておき、政府に引き渡すといたしましょう。さあ、お嬢様。屋敷で皆が待っております。少し遅くなりましたが、昼食にいたしましょう」
言われて空腹に気付いた花は、自分の腹が音を立てたことに赤面して顔を伏せた。
その頭を撫でようと手を伸ばした佐崎は、手袋に血が付いていることに気付いて止めた。自分がどんな男なのかを否応なく知らされた気がして、彼の心情は重く沈みかけた。
それを引き戻したのは、花の細い両手だった。
赤く染まった手袋を気にせず、佐崎の手首を両手で掴んだ彼女は、そのまま自分の頭に引き寄せた。
「お嬢様、お手が汚れてしまいます」
「佐崎が教えてくれた通りにできたでしょう。ちゃんと褒めてくれなくちゃ、心が温かくならないじゃない。それに……」
花は、泣いていた。
「わたしのために、こんなになるまで戦ってくれたのだもの。汚れだなんて思うわけないでしょう」
大粒の涙を零しながら、花は「ありがとう」と小さく呟いた。
佐崎には、その言葉だけで充分であった。