「警察が雉峰の身柄を拘束したのですか」
夕刻には目を覚まし、井戸水で身体を洗った佐崎は、衣服を整えて屋敷の中を見て回っていた。
その最中、中庭で津賀野に声を掛けられたのだが、彼女からの報告は意外なものであった。
鈴木や津賀野が所属する組織が捕縛する手筈となっているはずの雉峰が、どういうわけか警察署に留置されているというのだ。
他の使用人に聞かれてはまずいと判断し、佐崎は津賀野を連れて中庭の中心まで移動した。
ここであれば廊下を行き来する者にまで声は届かない。
「わたしどもの同輩が現場にたどり着いたときには、警察が現場を封鎖していたとのことでした。上から手を回したのですが、反応が妙に鈍いようで」
「警察が。そうですか」
佐崎は、雉峰の取り調べが行われ、その背後にいる首魁まで間違いなく捕まるのであれば、別に警察でも政府機関でも、どちらでも構わないと考えている。
一つ気になる点は、あの雛森という警官のことだ。
「引き続き、背後関係を調べているところですが、なかなか連携が取れていないのが現状ですね」
津賀野の話に頷いた佐崎は、ふと気づく。
「私の件を上に報告されたのでしょう。鈴木さんという方にもお会いしましたが……」
「報告はいたしました。そのうえで、ご協力もいただきましたので、特に佐崎さんを捕まえるような真似はいたしません。今さら旦那様にお伝えしたところで、一笑に付されて終わるのは目に見えておりますし」
津賀野は諦めたように首を振る。
「わたし個人としても、佐崎さんが危険な人物では……少なくとも、緑小路家や政府に対して危険とは思えません」
敵対しなければ危険ではない、という条件付きの安全保証である。
「まあ、良いでしょう。私としては、当家に危険が及びさえしなければ、それで良いのです。危険につながるものは、順次排除してしまえば良いのです」
佐崎の言葉に引っかかりを覚えた津賀野は、もしかして、と問う。
「屋敷を離れるおつもりですか?」
「お嬢様に危険が及ぶ可能性があるものは排除する。その手段の一つです」
「旦那様やお嬢様が、納得されるとは思えませんが」
佐崎も同様に考えていたが、彼自身は必要なことだと考えていた。
しかし、これに津賀野も反論する。
「お嬢様が悲しみます」
「旦那様やお嬢様の安全には代えられません」
頑なな佐崎に対して、津賀野は花のことをさらに持ち出しての説得を考えていたが、言葉としてどう伝えるかが思い浮かばなかった。
「安全という意味でしたら、佐崎さんはこの屋敷に残るべきでしょう」
結局、理屈で責めることにした津賀野は、少し語気を強めた。
「雉峰が捕まり、背後に誰かの存在があるとすれば、計画が狂ってしまったはずです。敵は恐らく何かしらの手段で目的を達成すべく動くでしょう。その時、この屋敷は安全でしょうか。お嬢様を守るという一点だけを考えても、佐崎さんがここを離れるのは非効率です」
少々怒気交じりになった津賀野の声は、それでも涼やかであり、良く通る。
「何を騒いでいるの」
声が聞こえていたのか、いつの間にか花が中庭の二人に近づいていた。
「珍しく言い争いをしているようだけれど、何があったの。御覧なさい。他の者たちが不安になっているじゃない」
気づけば、中庭を望む窓や通路に、幾人も使用人たちが顔を並べてこちらを見ている。中にはにやにやと笑っている者もいて、何を想像しているのか佐崎はうんざりした顔を見せた。
「お嬢様、申し訳ありません。大したことではありませんので……」
「いいえ、お嬢様。佐崎さんはお嬢様の身を案じて、屋敷を離れることをお考えとのことでしたので、わたしが引き留めていたのです」
佐崎の言葉を遮った津賀野の上申に、花は不意に険しい顔を見せた。
「ひろ、詳しく聞かせて」
津賀野のことを名前で呼んだ花は、佐崎ではなく津賀野の隣へと移動すると、佐崎の顔を見ながら津賀野の言葉に耳を傾ける。
「実は、お嬢様の誘拐の件で……」
「津賀野さん。あまりそのような話をお嬢様の耳にお入れするのは……」
今回の相手である雉峰や、その背後にいる連中も佐崎の過去に関連する者ではないかという話を始めた津賀野を止めようとしたが、花が素早く手で制した。
そのまま一通りの話を聞いた花は、深く大きなため息を吐いた。
そして、まずは野次馬のように集まっていた使用人たちに仕事へ戻るよう伝え、耳目を遠ざける。
「佐崎。わたしは先ほどあなたに稽古をお願いしたはずだけれど、その件はどうなるのかしら」
「それは……もちろん、後日必ずや」
「今必要なことだとわたしは考えているのだけれど。佐崎にとっては違うのね」
佐崎は返す言葉を持たない。これは彼自身がいまいち自覚しきれていない部分であり、花が見抜いている彼の弱点である。
「屋敷やこの家を守る気持ちは嬉しいけれど、あなた自身もこの家の一部であることを自覚して頂戴。誰かを犠牲にして安全を得て、安心するような精神を持っていると思っているのであれば、それはとても失礼なことではないかしら」
「……返す言葉もございません」
「用事があって屋敷を出ることは都度あるでしょうけれど、この家を守ることをお父様と約束したのでしょう。ならば、それを果たして欲しいの」
正確を期するならば、花の将来を守ることを約束したのだが、その方法を佐崎は自分が外へ出て危険を潰すことで守ろうとしている。
しかし、それを花は認めない。
「わたしを見ていてくれると約束して。そして、わたしを鍛えて頂戴。これから先、同じことが起きないように」
参りました、と佐崎は花に約束する。
「お嬢様のご成長を、見守らせていただきます」
「よろしい。……ところで、どうしてひろは佐崎のこと、そんなに詳しいのかしら」
花の声の調子は、思春期の少女が興味を持つような内容を期待したものだというのがありありと伝わってくるものだった。
だが、津賀野は乗らない。
「わたしも武道を嗜んでおりまして、佐崎さんにも時折ご指導をいただいており、少しだけお話を伺う機会が多いのです」
「あら、そう」
「そうです。それだけです」
二人は同世代で通ずるものもあるようだが、立場と性格の違いがはっきりしている。
その様子を見て、佐崎は少しばかり反撃を試みた。
「そういうことですので、男の私が行き届かない点は、津賀野さんを頼られると良いでしょう。彼女の腕前は決して男性に劣るものではありません」
「そうなのね。佐崎一人でも大変でしょうし、お父様にもひろの仕事の割り振りを相談しておきましょう」
問題解決、と嬉しそうに花が去っていくと、津賀野は非難するような視線を向けて佐崎に近づく。
「わたしはあまり深入りするつもりは無かったのですが」
「任務のためにも、お嬢様の近くにいる時間が取りやすくなるのは都合が良いでしょう。それに、私としても腕前に信用がある方が護衛をしてくださるのは助かりますから」
一人では限界がある、と佐崎は素直に認めることにした。
そうなれば、頼れる相手に対して、言い方は悪いが最大限活躍してもらうよう動くのは、緑小路家の使用人として当然のことである、と開き直っている。
「津賀野さんのことを黙っている代わりに、これくらいはやってもらいませんと。同僚の鈴木さんには、うまく利用されてしまいましたし」
あの人は、と嘆息しながら、津賀野は自分本来の仕事へと戻っていった。
佐崎はついでとばかりに庭の様子に異常がないかを確認しつつ、先ほどの花の様子を思い出して安堵していた。
酷い目にあったばかりであるが、花は少なくとも表面上は気丈に振る舞っていた。
空元気だったとしても、前を向いていく力が生まれることを、佐崎は知っている。
平穏が戻りつつある。
このまま何も無ければ良い、と佐崎は心から願いつつも、まだ解決ではないという思いが強かった。
備えなければならない。こちらから攻めるのではなく、迎え撃つ態勢を。
佐崎は表裏の出入口を再び確認することと、巡回について思考を巡らせながら、自分も仕事へと戻っていくのだった。