花が無事帰還してから数日。これと言った問題はなく、緑小路屋敷は平穏そのものであった。
変わったことと言えば、花が佐崎の指導を受ける時間を増やし、同時に他の使用人たちも幾人かが稽古に参加するようになったことだ。
一種の連帯感が生まれ、屋敷の中に流れる雰囲気も軽くなってきている。
お嬢様にも困ったものだ、と津賀野ひろは裏門の周辺を掃きながら嘆息した。
彼女は政府組織の密偵として緑小路屋敷に潜入している立場であり、任務が終われば何かしらの理由を付けて退職するだけの予定である。
基本的には政府中枢に対して緑小路の存在が危険ではないかを監視。あるいは組織から指示があれば調査を行うこともある。
武術の腕前を活かす機会など、基本的には想定していなかった。というより、今の組織において戦闘は任務に含まれない。
故に鈴木などごく一部を除いて、荒事に対応せねばならない場合は警察などとの協力が必要になってくるのだが、今回は佐崎が戦闘面を担当したことで、後始末のみ行えば良い。その流れになるはずであった。
「この先、どうなるのでしょうか」
考えながらも、慣れた手つきで裏通りを清掃し終えた津賀野は、周囲を見回して怪しい者が居ないことを確認する。
裏門を抜けたら、敷地内から
がっしりとした太い閂は、つい先日使用人の政が取り付けたものだ。
これまでは簡単な金具を引っ掛けておくだけであったのだが、佐崎の指示で見直しと工事が行われたのだ。
やや重たいが、安全には代えられない。
「よいしょ、と」
箒を置いて施錠を完了した津賀野は、額にほんのりと浮いた汗を拭った。
メイドと呼ばれる使用人たちの主な仕事は掃除である。
西洋から取り入れた格好で、洋風の建物を清掃してまわっている彼女たちの姿は、貴賓たちの間では財力を示す一種の指標でもあった。
内容としては女中と大差がないのだが、何せ「見た目」を整えるだけでも、建築費用が衣裳代が馬鹿にならない。
「ひらひらして最初は落ち着きませんでしたが……案外、足回りが動かしやすいのですよね」
スカートは着物よりも足を開いて動くには都合が良い。
杖を振り回すのに、しっかりと腰を落として踏み込むのだが、普通の着物では稽古の際に着ている道着のようには動けない。
スカートの方が、足回りは自由なのだ。
この時代、まだ立体裁断で作る洋服は出回り始めたばかりで、一般の人々が手に入れるのは難しい。
津賀野もこの家に仕えるようになって初めて袖を通した。
帯が無いことも不満であったが、腰回りの圧迫は段違いに少ないので、楽ではある。
靴なども至急されていて、こちらも草履よりは動きやすいと感じていた。
「さて、では次の場所へ……」
今日の当番は屋外の清掃である。幾人かで手分けをするのだが、毎日のように清掃をしている屋敷内は、そこまで手がかかるような箇所は少ない。
箱入り娘はいざ知らず、鍛えている津賀野にとっては大した労力ではなかった。
むしろ、この屋敷で働き始めてから鈍ったような気がするほどだ。
荒事に巻き込まれる可能性が高まったこともあるが、先日の件で雉峰に敗れたことを反省し、今は花とは別に、佐崎との稽古を行っている。
命のやりとりは初めてであった。
終わってから、負けたことへの悔しさと、もし佐崎がいなければ命を落としていたことを実感して恐怖したのを憶えている。
いや、今でも怖かった。
恐怖を振り払うために稽古をしている。
「とはいえ、一度も佐崎さんから一本を取れていないのは悔しいですね」
死線を経験した津賀野は、佐崎曰く格段に動きが良くなっているとの評だったが、全く以て歯が立たない相手が近くにいることに腹も立っている。
要するに、自信をなくしかけていた。
「わたしの役割は、密偵です。それ以上を求めるのは逸脱した行為に他なりません」
そう名言しつつも、組織の中では戦える方だと自負していた思い上がりが見事に砕き割られた状態である。
せめて一太刀。佐崎に浴びせることができれば。
この時、余人から見れば津賀野はやや危うい心理状態にあっただろう。
稽古に身が入っているというよりは、必死で力が入り過ぎている状態であった。佐崎に対する感情も、敬意や恐れを通り越して敵意に近いものになりつつある。
「……予定外ですが、今夜も佐崎さんに手合わせをお願いいたしましょう」
箒を握る手に力が入る。軽い木製の杖がミシミシと音を立てた。
不意に、声をかけてきた者がいる。
「……お前、見たことがあるな」
「どうしてここに」
驚きを必死で押し殺し、言葉を返した津賀野の前にいたのは、警察署に留置されているはずの雉峰であった。
「ってことは、この屋敷だって話はガセじゃなかったんだな」
薬が抜けているのか、声の調子は捕まった時に比べて落ち着いている。
耳の傷を押さえるために頭部、そして左腕にも痛々しい程の包帯が巻かれていて、腕の方は完全に傷が癒えないまま無理して動かしたのだろう。包帯は血で染まり、だらりと下げた指先に滴っていた。
着流し一枚で、腰には塗りが剥げている刀を差している。
夜道で出会えば、死者が化けて出てきたかと思ったかも知れない様相だ。
「亡霊ではなさそうですね」
「あぁ、死にぞこないとでも言いてぇのか」
話をしながら、ちらりと津賀野が視線を巡らせる。裏口の閂は動いていない。塀が破壊されている様子もない。
では、どうやったか。凡そ七尺の塀を乗り越えてきた以外には考えられない、と津賀野は結論付けた。
「釈放されたわけではないでしょう」
「んな事はどうだって良いんだよ。佐崎はどこだ。出さねぇなら、殺すぞ」
直接的で粗野に過ぎる脅し。
これが同世代の別の少女であれば、怪我で襤褸のようになっている姿も相まって、ひどく怯えていただろう。しかし、津賀野には通用しない。
もっと怖いのが屋敷内にいるからだ。
怪我の状態は佐崎から聞いていた。
「左手が動かないのでしょう。その状態では佐崎さんどころか……」
津賀野は箒を杖代わりに構えた。
「わたしにすら勝てませんよ」
「ちっ、小娘が調子に乗りやがって。死にぞこないはてめぇだろうが!」
左腰から右手のみで刀を抜いた雉峰は、刃を肩に担ぐような恰好で構えた。
ぶらぶらと揺れる左腕が視界の中で非常に目障りだが、津賀野は努めて無視をする。佐崎が「斬った」と明言した以上、そこから飛び道具が飛んでくるような可能性はかなり低い。
「そんな棒切れで……今度こそ、お前をしっかり始末してやろう」
挑発に、津賀野は返事すらしない。
ただ慎重に自分を観察している津賀野を相手に、雉峰はすぐさま怒り心頭になり、唾を吐きながら叫んだ。
「ボケっとしやがって!」
倒れ込むかのような前傾姿勢での距離の詰め方は、先日までの雉峰の動きと比しても非常に「雑」で「乱暴」だった。
勢いよく振り下ろした刀の切っ先が地面に当たり、古びた刀の帽子が中ほどから折れた。
それに構わず、今度は背伸びをするような動きに合わせて、逆袈裟に振り上げる。
「なんという動きをするんですか」
あまりに大仰な動きに、津賀野もできるだけ大きな動きで避けた。
いつもの樫の杖であれば、刀を受け流す動きもできたが、箒では心もとない。まともに受ければ、棒ごと真っ二つになるだろう。
「避けるだけじゃあ、いずれぶった斬っちまうぞ!」
三度の大振りを避け、大きく距離をとった津賀野は、周囲に誰もいないことを確認し、焦りを覚えた。
同時に、安堵もしていた。他の使用人の誰かを巻き込むことは避けたかったのだ。
特に佐崎には来てほしくなかった。雉峰を今度こそ自分で倒すために。
雉峰が言う通り、避けてばかりでは埒が明かない。
「箒一本で、あとどれだけ踊るつもりだ」
「心配は無用です」
意を決して、津賀野は前に出た。
箒を両手に持ち、まるで刀を持っているかのように、下段に構えて掬い上げるように振りながら。
「馬鹿が!」
足元から伸びてくる箒の一撃を、雉峰が振り下ろした刀が叩き切った。
勢いそのままに、再び逆袈裟を繰り出そうとした雉峰だったが、刀が、上がらない。
「……なんだ、と」
振り下ろした刀の先端を、津賀野が靴で踏みつけていたのだ。
「二度も同じ動きを繰り返すなんて」
もう一歩進んだ足でさらに鈨近くを踏みつけると、その勢いで雉本の身体は前のめりに引き寄せられ、たたらを踏む。
「舐められたものですね」
津賀野の手には、先ほど斬られた箒の柄があった。
竹槍の如く斜めに斬られたその穂先に、雉峰の顔面が勢いよく突っ込んできた格好になる。
右手は刀。左手は使えぬ状況で、自らの身体を止めることもできず。箒を払いのけることもできなかった雉峰は、左目から深々と突き刺され、声をあげることすらできないまま絶命した。
膝を突き、箒を顔から生やしたまま倒れた雉峰の身体は、幾度かの痙攣の後、二度と動かなくなった。
手元から、箒と共に雉峰の体重が失われたのを感じ、津賀野は立ち尽くして両手をじっと見つめる。
「……少し、気が晴れました」
騒ぎを聞きつけて他の使用人たちが駆け付けた時、彼女はかすかに笑みを浮かべていた。