雉峰の死で日常が戻った、と手放しで喜べるような佐崎ではない。
屋敷の各所の点検を日常の防犯作業として朝夜の日課とし、使用人たちと花に対する稽古は続けていた。
特に花は熱心に佐崎の言葉に耳を傾け、指示された反復稽古を黙々とこなしている。
勉学についても身が入っているようで、家庭教師を専門課程毎に雇うことにして、稽古のとき以外はしっかりと机に向かっている。
「今度こそ、お嬢様に影響がないように立ち回らねばなりません」
佐崎はいつも通りの執事服に出を通し、早朝の見回りで厳しく視線を巡らせながら独り言ちた。
「不平士族、というのは案外人数が多いようですね」
彼の頭の中には、書簡にて鈴木から津賀野を通して知らされた現状が思い起こされている。
怪しいと睨んだ警官雛森は、鈴木の調査ではその尻尾を掴むこと能わず、今も通常通りの業務に就いているとのことだった。
今でも監視の目は配しているが、時折見失ってしまうあたり、完全な監視状態にあるとは言えない。
佐崎が直接当たることも考えたが、性急に事を進めてくれるな、というのが鈴木からの要望であった。
「佐崎さん。あなたが動けば物事は収集が難しくなります」
書簡を届け、佐崎が一通り目を通した後でそう告げた津賀野の目には、若干の疲労が見えた。
「今回の件で、多くの死者が出ました。ほぼ全ては内々に処理いたしましたが……」
その事務処理に津賀野もかり出されていたのだろう。昼はメイドとして働き、夜は報告書を作る作業に追われて寝不足になっているようだ。
「別に私のせいではないでしょう」
そう言って佐崎は反論を試みたが、津賀野の視線は非難のそれに近い。
「もちろん、雉峰の犯行であり、死んだ者たちは自業自得でしょうけれど、このような状態を政府は公にすることを望んでいません」
「そうやって内々に処理するよりも、見せしめとした方が良いのではありませんか」
佐崎の提案に、津賀野は青い顔をして頭を振る。
「それで大人しくなる連中ではありません。少なくとも、捕縛した一部の生き残りを開放しようとする連中が出かねませんし、それに呼応する者が現れたら、収拾がつきません」
「そうなれば……」
「全て斬れば良い、などと言わないでくださいね。お嬢様や旦那様のこともお考え下さい」
言葉を遮られた佐崎は、続く津賀野の言葉に閉口せざるを得なかった。
「言いたくはありませんが、佐崎さん。先日から顔が怖いですよ。昔に戻ってしまわれたのではないかと、わたしは心配でなりません」
思わず頬に手を当てた佐崎に、津賀野は嘆息する。
「やはり無意識でしたか。昔を御存知の旦那様は兎も角、他の使用人たちが怯えてしまいます」
今は先日の襲撃があってピリピリしているのだろう、と津賀野が収めているようだが、これが長く続くのは屋敷内の状態として良くはないことを佐崎も理解した。
「御忠告、ありがとうございます。気を張り過ぎていたようです。これではいけませんね。注意いたしましょう」
「まさか、わたしが佐崎さんにこのような注意をすることになるとは思いませんでした」
未だ表情に鋭利さが抜けない佐崎に対して、津賀野は以前のような無表情で冷淡な印象が薄れ、少しばかり頬に柔らかさが見えるようになっていた。
初めて命を奪ったときには動揺していたが、花を無事救出できた安心感と多忙さが、彼女の心をほぐしたのだろうか。佐崎はそう感じていた。
津賀野という若者が一皮剥けたようだ、と。
思い出しながら自分の頬を強く押してほぐした佐崎は、見回りの終盤で来客の知らせを聞いて門へと向かった。
以前であれば使用人の誰かが用向きを伺って佐崎に伝え、玄関で迎えるという流れにしていたのだが、今は門のところで佐崎が出迎えるようにしている。
警官が来た、と聞いて佐崎は何かの調査かと思ったが、門のところで待っていたのは意外な人物であった。
「雛森さん。あなたでしたか」
「ご無沙汰しております、佐崎さん。お元気そうで何より」
正門横の通用口を出たところで視界に入ったのが雛森であると気づいた瞬間、佐崎は自然と懐の小刀に手が向かいかけたが、辛うじて止めた。
そのまま、胸に手を当てて一礼する。
「ご無沙汰しております。本日は、どういったご用件でしょうか」
「なぁに。大したことではありませんよ」
飄々と笑う雛森の本心は佐崎にも見て取ることはできない。
不穏な空気すら感じさせない、まるで自然体で、無邪気さのみそこにあるかのような様子は、彼を怪しむ者でなければ人の好い警官であろうと受け止めるだろうこと間違いない。
「例の襲撃事件の後、緑小路家の様子を伺ってくるように上司から言われましてね。まあ通り一遍の状況だけ、佐崎さんから伺えましたら問題ありませんや」
付け加えて、安月給だもんで手土産はありません。と帽子を取って恥ずかしそうに頭を掻く。その様子に、門番は思わず笑ってしまったほど屈託がない。
「どうぞ、お気になさらず。お仕事で来られたのですから、そのような気遣いは不要ですとも」
恐縮です、と言った雛森が一歩距離を詰めてくる。
ぴり、と佐崎の背に信号が奔ったが、雛森は口元に手を寄せて、視線は門番を見ていた。
「雉峰の手下どもを幾人かを捕縛しておりましたが、全員殺害されました」
「……死罪になった、と?」
声を落とした雛森に合わせ、佐崎も声を落とした。
「それが、お恥ずかしい話なんですがね、拘留中何者かに毒を盛られたようで……」
記録にない酒の差し入れがあり、その中に仕込まれていた毒によって悉く殺害されてしまった、と雛森は語る。
「他にも繋がりのある不平士族がいる、というわけですか」
佐崎の視線は、雛森を見据えている。
しかし、雛森はそれに気づいているのかいないのか、苦笑いでまた頭を掻いた。
「わかりません。酒もどこで買ったやらわからぬ無印の瓢箪に入っておりましたし、毒の内容もいまいち判然としませんで……」
ただ、と雛森は真剣な面持ちになった。
「不平士族などと呼ばれちゃいますが、連中も侍ですよ。毒殺なぞやりますかね」
自分も元は士族であるからか、雛森はそこが腑に落ちないという様子であった。
「むしろ、毒を使うのは公家とか華族さまの方じゃありませんか。例えば、今回の事件であまり知られたくないことを連中が嗅ぎ付けた可能性がある、だとか」
「私どもが、生き残りを始末した、と。そう言いたいわけですか」
「いや、いやいやいや」
佐崎の空気が変わったことに、雛森はひょいと飛び退って慌てて手を振った。
「緑小路家が純然たる被害者であることは、我々警察も重々承知のうえですとも。いやね、上が知りたいのはもう片方の……」
「六座家、ですか」
「口に出すのも憚ることながら、というやつです」
この時代の警官隊の権限は、政府筋までは及ばない。華族を調べるには余程に明確な証拠がなければ難しい。
「先日の誘拐事件も、邸内ではありませんでしたからね。中に踏み込んで調べるなんて、とてもとても……」
「それで、私に何か協力しろと言いたいのですか」
「そこまでは言いませんや。ただ、お気をつけください、ということです」
へらりと、笑って雛森は敬礼を見せた。
「では、本官はこれで」
「……貴重な情報、ありがとうございます。私の方でも、何かあればご連絡いたしましょう」
ご協力、感謝しますと言い残し、雛森は去っていった。
見送っていた佐崎の視界の端、路地から一人の小柄な男がするりと出てきて、自然な足取りで雛森の背後を追う。鈴木の手の者だろう。
「真実は那辺にありや、と言いたい気分ですね」
佐崎としては六座家を疑う気はない。
愛娘を危険な目に遭わせてまで、不平士族連中に与する必要がかの家にあるとは思えないからだ。
だが、信条とは裏腹に、そうせざるを得ない状況に置かれることもある。
「憂鬱ですね」
上着の内側から、一通の手紙を取り出す。
「さて、お嬢様は私の言うことを聞いてくださるでしょうか」
それは六座家からの招待状であった。
祝宴を開くので、先日の詫びも兼ねて緑小路家を歓待したい旨、そしてこれは六座家令嬢であるかのえの誕生会も兼ねている、と綴られている。
主人へと相談に向かう佐崎の足取りは、重かった。