「わたしが行かなくてどうするのです」
と言い切った緑小路花は、堂々と胸を張っていた。
それを見ている佐崎と、彼女の父親である緑小路家当主寛治は、苦々しい表情を浮かべている。
「此度の祝宴、かのえさんのお誕生日会を兼ねているのでしょう。であれば、友人であるわたしが誰よりもお祝いを伝えなければ」
「うぅむ、しかしだな……」
緑小路は腕組をしたまま、椅子の上で唸った。
「お嬢様、先日の件もあります。あまり軽々に外出なさっては、危険が及ぶやも知れません」
主人の言葉を引き取って続けた佐崎に、花は腰に手を当てて反駁を加える。
「家に居ても賊は来ました。どこに居ても危険は変わらないでしょう。それよりも、華族の娘が賊に怯えて親友の祝い事にすら顔を出せないなど、その方が恥ずかしいでしょう」
実際、花の言うことは安全という点を無視すれば正しい。
緑小路家の成り立ちは士族からの流れであり、少なくとも維新での功績。つまりは戦果があってのことは間違いない。
政治の世界であっても、押し出しの強さは充分な武器になる。逆に言えば、周囲から怯懦と取られては甚だ不利になるのだ。
「緑小路家が賊に恐れたなどと噂されるのは、お父様にとっても不本意ではありませんか」
ここまで言われると、緑小路当主としては首肯せざるを得ない。彼は傍らにいる佐崎へちらりと視線を移した。
「佐崎、悪いが……」
「ただ、御命じください。遠慮などなさらないでください」
緑小路は佐崎に花の護衛を命じた。
「お任せください。そもそも、旦那様の護衛として同行する予定でございましたので、問題はございません。お嬢様、一つだけお願いがございます」
花は手をまっすぐに下ろして直立の姿勢を取った。
それは緑小路家の令嬢としてではなく、佐崎の弟子としての姿勢である。
「当日は、私の目が届く範囲から離れることの無いようにお願いいたします。何か異変がありましたら、すぐに私のところへ走ってくださいませ。淑女の体面など気にすることなく、一目散に」
一度、似たようなことを花に教えたことがある。
それは逃走の際の心得であった。
逃げる、という行為には未練が付き物であると佐崎は経験で学んだ。
何かを成し遂げることが叶わず逃げるのであれば猶更だが、ただ
襲撃を受けただけの状況でも、人は「敵が何者か」「何が目的か」を確認しようとしてしまう。せめて情報を得ておきたい未練が生まれるのだ。
未練は逃げ足を鈍らせ、時には振り返る隙をも生み出してしまう。
最悪の場合、そのために逃走を失敗する。
「私の手が届く範囲まで、とにかく走るのです」
「理解しました。お願いしますね、佐崎」
「ご了承いただけましたなら……旦那様、よろしいですね」
佐崎が緑小路に了承を得て、招待状とは別のもう一通の書簡を取り出した。
「お嬢様。こちらは六座かのえ様からのお手紙でございます」
驚きながらも受け取った花に、緑小路は重々しく口を開いた。
「中を検めるような真似はしていないが、内容はここですぐに確認しなさい」
「わかりました」
花が中身を確認すると、花が咲いたように表情が明るくなったかと思うと、すぐに眉をひそめた。
「佐崎。これを読んでみて」
「……失礼します」
内容としては、まず花の無事を喜ぶ内容であり、自分もこれといった怪我などは無く、無事でいるということから始まり、緑小路の使用人に救われたことで、誕生日を迎えられることに対する感謝が綴られていた。
花が表情を曇らせたのは、その後に続く内容に対してであった。
「……もし、まだ花さまが私を友人であると思ってくださっているなら。いえ、知人としてでもお付き合いを続けてくださるのであれば、もし誕生会へお越しに慣れないとしても、私とって最上の喜びです……」
「失礼です。そう思いませんか、佐崎」
花が怒っているのは、今回のことで花が自分を見限るのではないか、とかのえが本気で考えているらしいことが手紙にありありと描かれていることだった。
「わたしとかのえさんは、物心ついた頃には仲の良い友人でした。同じ華族だからというだけではありません。大人しくて可愛らしくて、気配りのできる優しい方だからです」
悔しさに涙が滲む花に、手紙を返した佐崎は、手紙を返す提案をした。
「そのお気持ちを、今のうちに手紙にしたためておきましょう」
「祝宴の際に話せば良いのではないか。そのように手回しのような真似をせずとも」
緑小路の言葉に、佐崎は「それでも良いかも知れませんが」と前置きしたうえで、それでも手紙を出すべきだと続けた。
「わだかまりは、長引けばそれだけ水に流すことが難しくなります。少しだからと放っておけば、そのまま固まってしまい、いつの日かとても大きな重荷になります。
佐崎は花に向き直った。
「お嬢様。先ほどお話になったお気持ちに、嘘はありませんね」
「もちろんです。わたしはかのえさんとの友情を疑ったことは一度もありません。今度の祝宴も、心からお祝いしたいと思っています」
「であれば、すぐにでもお返事を。祝宴への参加についてもお書きになり、合わせてかのえ様へのお祝いの気持ちを、付き合いのある華族の一員としてではなく、友人として書くのです」
その手紙は、責任を持って自分が六座家に届ける、と佐崎は断言した。
「そして、当日には元通り仲の良いご友人として、真正面からお祝いされると良いでしょう」
「わかった。ありがとう、佐崎。やっぱり貴方に話して良かった」
「勿体無いお言葉です」
恭しく一礼する佐崎から、花の視線は父親に移った。
「お父様。わたし、お手紙を書いてからお買い物に出かけます。よろしいでしょうか」
「祝いの品なら、すでに手配しているぞ」
「それは緑小路家から六座家への贈り物でしょう。わたしが買いたいのは、わたしからかのえさんへの贈り物です」
使いを出して買ってこさせるわけにはいかんのか、と緑小路は食い下がったが、花は頑として首を縦に振らない。
「わたし自身が選んでこそ、ではありませんか」
「……わかった。佐崎を連れて行きなさい。
「いりません」
と言ってから、花は佐崎が護衛することについてではなく、と挟む。
「充分なお小遣いをいただいていますから、大丈夫です」
緑小路はそれ以上、花には何も言わなかった。
ただ、佐崎にだけ念を押して花の安全に気を付けるよう言い含め、疲れた様子で自室へと戻っていくのみである。
「根付はどうかしら。和装でもドレスでも、小物に付けて持ち歩けるでしょう。手紙と一緒に届けてくれるかしら。もし祝宴で使ってくれたら、とても嬉しいもの」
楽しいことを思いついた、とはしゃいでいる花に、佐崎は心がほぐれるような心持ちで頷いた。
「そういう事でしたら、良い店を把握しております。ご案内いたしましょう。幾人もの職人を抱えて、常に豊富な品揃えを自慢している
「ええ、早速お願いね。……それにしても」
花は頭一つ背の高い佐崎を見上げて言った。
「佐崎。今日のあなたは優しい顔をしていると思うわ」
「そうでしょうか」
「ええ、最近はこう、目元に力が入っていて、何を見るにしても突き刺すような鋭い視線を向けていたもの」
「それは……失礼いたしました」
津賀野にも指摘されたことだが、花にもやはり伝わっていたのだ。佐崎は自分を恥じ入るような気持になってしまったが、対する花も同じであった。
「ごめんなさい。わたしが捕まってしまったから、そんなふうになってしまったのよね」
「いえ、そういうわけではありません」
花は自分が誘拐されたことで、優しい佐崎が変わってしまったのだと思っているらしい。流石にそんな重荷を背負わせるわけにはいかない、と佐崎はすぐさま否定する。
「お恥ずかしながら、旦那様に拾われるまでの私は、もっと厳しい……いえ、血生臭い場所で生きていたのです」
具体的なことは言わないが、佐崎は自分の出自について語る。
「以前の私は、命のやりとりが当たり前の場所にいました。先だって襲ってきた雉峰のような男と、私は何ら変わらぬのです」
言って置かねばならぬことだ、とわかっていながらも、佐崎は後悔していた。花は維新の後に物心がついた世代で、戦の混乱を知らない。余計なことを話して怯えさせるだけではないか、周りの人間が信用できなくなるのではないか、と。
だが、花はあっけらかんとして受け止めた。
「なるほど。それであんなに強いのね」
むしろ腑に落ちてすっきりしたと言わんばかりに頷いた花は、尊敬の眼差しで佐崎を見る。
「お父様が本当に苦労したとおっしゃっていたし、家庭教師からも聞いたのよ。幕府末期の混乱は、それはそれは酷い時代だったと」
沢山の人が死んだ。それぞれの想いがあって戦っていたことはもちろんだが、今の日本を形作る大きな転換点であった、と花は教わったようだ。
「お嬢様。それは“整理された物語”でございます。実際にあの時代を生きた者からしましたら……」
「佐崎。あなたや周りの人たちの過去が、綺麗事では済まないこと。理想で片付けて良い物事ばかりではないこと、わたしは知っています。知っているつもりです」
それは父親についても同じだと花は続ける。
「それでも、今ここで佐崎がわたしに微笑んでくれることを、喜んではいけないかしら」
「そのようなことは、決して」
むしろ、将来を作る者たちが若々しく輝いていることを、佐崎は何より喜ばしく思う。
「さあ、今は来る祝宴に向けての準備をいたしましょう。贈り物を選んで、手紙を書かなくちゃ。ドレスも決めておきたいし、忙しくなるわね」
共に部屋を出る用促す彼女を見て、花の世代は、保護されているけれど弱弱しい存在ではないのだと、佐崎は実感していた。
あの血の臭いに満ちた時代は間違いなく存在したが、その結果として今の世代が笑っていられるのであれば、それは先の時代の者たちにとって勝利と言える。
「お嬢様、あまり急がれますと転んでしまいますよ」
子供扱いしないで頂戴、と返してくる花に、佐崎はにっこりと笑った。
「ええ、そうですね。失礼いたしました」
あの頃の狂奔を忘れることは生涯無いと断言できるが、今からの世代のために、それが何かしらの役に立つのであれば、その経験で彼女たちを守れるのであれば、それは最上の喜びではなかろうか。
佐崎はそう確信していた。