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19.毒殺

 祝宴は大きな混乱もなく進み、少しばかり酒が入って赤ら顔をした六座岸良が、緑小路へと静かに告げた。

「よろしければ、別の部屋で少し話をさせていただけませんか。先日のお礼、いやお詫びをしたいのもありますし、お話しておきたいこともございます」


 六座はホールを出てやや廊下を進んだ先にある控室の一つに来てほしい、と告げた。

「旦那様。私も参ります」

 先に準備して待っていると言った六座が会場を後にするのを見計らい、佐崎は護衛として同行することを告げた。


 しかし、やや考えて緑小路は不要だと判断した。

「党首同士の話になる。それに、護衛を連れて行くと隔意があるように見せてしまう」

 腹を割って話すのだろうと察した緑小路は、花の護衛に集中してほしいと話した。


「なに、まかり間違ってあいつがわしに襲い掛かってきたとして、負けるはずもなかろう。佐崎ほどではないが、これでも多少なり稽古はしているのだ」

「どうか、お気をつけて」

「花を頼んだぞ」


 幾人かに声をかけてから、緑小路も会場を出て行った。

 主催がおらずとも、会場ではあちこちで会話が続いており、どこか雑然とした雰囲気の中で、幾人かの六座家使用人が忙しく歩き回っている。

 立食形式であるため、酒やジュースを配って回らねばならないのだ。


 佐崎は緑小路家に入って以降は何度も目にしている光景だが、来場者の半数以上は勝手がわからず戸惑っていた。

「お飲み物はいかがでしょうか」

「あ、かたじけない」

 言ってグラスを受け取った人物から小銭を渡されて困惑する使用人が居たり、飲みなれない洋酒でふらふらに酔ってしまっている客人もいたりと、佐崎も経験がある状況が散見される。


 つい助言をしたくなる状況であったが、他家のことに口を出すのも失礼かと黙っていた佐崎に、一人の使用人が声をかけた。

「佐崎さんも、一杯いかがですか」

「私は職務中です。酒は飲めませんよ、鈴木さん」

 いつの間にか会場にた鈴木が、にっこりと笑って近くに立っていた。


「そうだろうと思いまして、水をお持ちしました」

「……いただきましょう」

 軽く匂いを確認し、口を湿らす程度に留めた佐崎の視線は、花へと向いている。

 その隣では、六座かのえが楽しそうに笑っていた。


「おかげさまで、かのえ様もすっかりお元気になられました」

 鈴木の言葉には、素直な喜びの感情があった。

「花様お気遣いには、本当に感謝しております。あの根付も決して安くない逸品なのに、お小遣いを使ってご自身でお選びになられたとか」


「あの店を知っているのですか」

 金額を把握しているかのような口ぶりであった。

「ええ、わたしも贔屓にしておりますので」

「……そうですか」

 深くは聞かなかったが、もしかすると店の店主なり従業員なりが、鈴木とつながりがある情報屋かも知れない。佐崎はそう感じていた。


 こういった情報収集については、一執事でしかない佐崎には到底不可能なことだ。

 再び水を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ佐崎は、鈴木も自分と同じようにかのえを見ていることに気づいた。

「……佐崎さん。わたしはね、若い人たちが陽の当たる場所で快活に生きていける世の中になってくれたら、と常々思っています。特に、見知っている人たちならば猶更です」


「私も、同じ気持ちです。人を傷つけねば物事が成せないような世間であってはいけません」

 鈴木が、小さく「佐崎さんも若いころから苦労されたでしょう」と呟いた。

 それは佐崎の過去を詮索しようとする言葉ではない。むしろ、鈴木が自分の過去を知ってほしいとでも言うような口ぶりだった。


「そうですね。私は貧しい武家の生まれで、勉学もやりましたが、とにかく腕っぷしが強くなければならないような環境でしたから」

 佐崎は隠さずに言った。

「帰りたいとは思いませんか」

 鈴木の問いに、故郷の日々を思い出す。もう随分と遠い記憶のように思える過去の話だ。幕末の混乱期に脱藩して以降、一度も帰っていない故郷は、今どうなっているか。佐崎は調べる気にもならなかった。


「私は、冷たい人間ですから」

「そうですか。わたしには、故郷があるだけ羨ましいものです。物心ついたころには仲間を蹴落としてでも生き残る修練の日々にいた者にとっては」

 言葉に込められた感情がどういうものか、佐崎には読み取れなかった。


 しかし、鈴木の言葉が本当であれば、彼は恐らくどこかの藩士の子や町民の出身というわけではない、もっと特殊な出自であろうことがわかる。

 幼少から厳しい修練の中に身を置くといわれると、佐崎が真っ先に思い浮かべるのは、忍びの者たちである。


「鈴木さん。あなたは……」

「わたしは六座家の使用人、鈴木です。今の私は、それ以外ではありませんよ。佐崎さん」

 言葉を遮られた佐崎は、小さく頷いた。

「では、わたしはこれで」

「はい、ありがとうございます」


 一礼した鈴木に丁寧な礼で佐崎が返した瞬間だった。

「きゃああっ!」

 と、悲鳴が彼らの耳に届いたのだ。

 女性の叫び声であるのは間違いないが、会場の中ではない。

 場内にいる人々のうち、幾人かは悲鳴に気づいているようだが、誰もその出所がわからずに周囲を見回し、互いの顔を見合わせている。


 花も同様であり、その手は不安げなかのえの手を握っていた。

 花の無事を確認した佐崎が向かうべきは、主人のところである。

「鈴木さん!」

「こちらです!」

 何を言いたいか、鈴木はすぐに察して走り始めた。


 会場にあるいくつかの扉のうち、彼が迷いなく開いたのは、先ほど両家当主が通ったところと同じ扉である。

 そして、長い廊下の中央で、一人の侍女が腰を抜かして座り込んでいるのがすぐ目に飛び込んできた。

「伊能さん、どうしました!」

 と、鈴木が声をかけたことで、彼女が六座家の使用人であることがわかる。


「あ、あの……」

 恐る恐る震える指で指した先は、扉が開かれた室内であった。

 そこには、いくつかの椅子が並んでおり、棚には洋酒の酒瓶がいくつも並んでいた。

「さ、佐崎、か……」


 室内で立ち尽くし、ゆっくりと振り返ったのは緑小路家当主。その顔には驚きと戸惑いがあり、事態を呑み込めていない様子がありありと浮かんでいる。

 そして、彼と相対するように部屋の奥で椅子に座っているのは、六座家当主岸良であった。


 ぐったりと首をもたげ、力なく垂れ下がった両手の先、絨毯の上にはグラスが一つ転がっていた。

「旦那様!」

 鈴木が六座に駆け寄り、その顔を確認し、すぐに首筋へと指先を当てる。

 急いた表情であった鈴木だが、その顔は苦痛へと変わる。


「……亡くなられています」

 ぞわりとした冷たい何かが、佐崎の背をはしった。

 六座の口から血が流れていること、その表情が苦悶に満ちていることから、毒殺であろうことは間違いない。

 問題は、誰が毒を盛ったのか、ということだ。


 状況としては、六座と一緒に部屋にいたのは緑小路のみであり、侍女は部屋に入っていない。もっとも疑わしい人物は、単純に考えれば一人だ。

 もちろん、以前に酒に毒を仕込んだ人物がいるかどうかの調査も入るだろうが、状況的に緑小路が最もまずい立場にいるのは間違いない。


 警察、という言葉が脳裏をよぎるが、雛森への疑いもある以上、警察に任せてしまっては緑小路がどのような目にあうかもわからない。

「旦那様。まずはこの場を離れましょう。何者の仕業かはわかりませんが、毒が使われているとすれば、旦那様にも危険が……」


 使用人としての言い分によって、主人をこの場からまず離すことを考えた佐崎であったが、一足遅かった。

「全員、今の場所から動くな!」

 そう叫びながら、廊下の向こうから二人の警官がやってくるのが見えたのだ。


「佐崎、すまんが、屋敷を頼む」

「旦那様……」

 この場で逃走を図れば、良い結果にはならないと判断したのだろう。緑小路はやってきた警官達に自分の名を明かした。

 そして、自ら状況を説明し、「これでわしが傍若無人に振舞っては、君たちも困るだろう」と身柄を警官に預けることに同意し、捜査に全面的に協力すると宣言した。

 彼が連行され、現場が封鎖されて退去を命じられるまで、佐崎は茫然としてその場に立ち尽くしていた。

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