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第6話 母と嫌いな先生

こんばんは。

また、時間ができましたので、

母のエッセイを書きに来ました。

このエッセイを連載するようになってから、

母にいろいろな話を追加で聞いています。

幼い頃の話、結婚した後の話、娘たちの話、

いろいろな話がどんどん出てきます。

それらの話を私は覚えていて、

あとでノートにつけて、題材を選んで、エッセイとして執筆します。

執筆しているうちに別の機会に回すようなものも出ますし、

とにかくこれも書きたいあれも書きたいが出てきてしまいます。

母は、一般人です。特別な何かをした人ではないかもしれません。

しかし、私が聞いた母の人生は、

波乱万丈そのものでした。

そのすごさを伝えたいと思うのですが、

私の文章能力でどこまで伝えられるか。

また、母からどれだけの人生の記憶を聞き出して覚えていられるか。

とにかく私の能力次第です。

私は、母のことを記録したいと思っています。

母の記憶を残したいと思っています。

母がどんな人生を生きて、こんな思い出をもって、

あの時こんなことを思ったなどを、

可能な限り書きたいと思っています。

まだ母が生きているうちに、

とにかく聞けるだけ聞きたいです。

母の記憶の雨はまだ足りません。

記憶の雨はもっと降ってしみこまないといけません。

可能であれば、この連載を読んだ人が、

私の母というものをなんとなくイメージして覚えていられるような、

母そのもののエッセイにしたいと思っています。

私の主観も入るかと思いますが、

とある一人の女性の人生を余すところ書くエッセイに仕上げたいと思っています。

母にはたくさんの物語があります。

その物語がもっとたくさん雨のように、

皆様のもとにも降らせたいと思っています。

今回も、その物語を書きたいと思います。


さて、今回の母のエッセイは、

母の嫌いな先生についてです。


母も学生時代を過ごしてきました。

戦後まもなくに生まれましたので、

今とは価値観の違う先生もいたようです。

おおむね問題のない先生にあたったようでしたが、

一人だけ、大嫌いな先生にあたったことがあったようでした。

母はその先生をフルネームで覚えています。

他の先生は忘れてしまったようでしたが、

大嫌いな先生は今でも大嫌いなようです。

母が大嫌いといえども、

フルネームを出してご家族に迷惑をかけることはよくないので、

とにかく大嫌いな先生としておきます。


母の大嫌いな先生は、

母の小学生の高学年の頃の担任であったようでした。

その先生は、母だけでなく、みんなから嫌われているようでした。

ある時授業をしていた際に、

母に向けてチョークを投げて、

俺はおまえみたいなのは嫌いだと言ったと聞きました。

母は、そう言われて傷つくような性格ではないようですので、

なんだこいつと思ったようでした。

授業が終わってから、クラスのみんなに、

あいつになんか好かれなくていいんだと言われたと母から聞き、

相当嫌われていたんだなと思いました。


母の大嫌いな先生は、

何かで使うから、母の家から米を持って来いと言ったようでした。

授業で使うものだったのかもしれません。

ただ、その頃、母の家業の米屋は廃業していて、

持ってくるお米もありませんでした。

米屋が廃業していますので、母の家はとても貧乏でした。

母は、大嫌いな先生に、米屋は廃業しましたと言ったそうです。

母は、とにかく米屋が廃業したことを言わなくてはと思ったと言います。

母の大嫌いな先生が、どのような意図をもって、

米を持って来いと言ったのかはわかりません。

また、生徒の家庭環境がそれほどまでになっていることを、

わからないものなのかなと、話を聞いた部外者の私は少し思いました。

母の話では、ひとクラスの生徒数は相当多かったそうです。

目の届かない生徒はたくさんいたかもしれません。

家庭訪問なんて言う制度がなかったかもしれません。

それでも、母が、米屋を廃業したと告げるのは、

小学生にこれを言わせるのは、つらいことであると思います。

貧しい家庭が多かった時代と聞いています。

貧しいことを取り繕ってなんとか生きている、

そんな家庭も多かったと思います。

母がその先生を嫌いになったのは、

たくさんの生徒の中で、

少なくない数を取りこぼしていた先生だったからかもしれません。

すべてを把握しろ、配慮しろではありませんが、

貧しくても懸命に生きている家庭のことを見ていたら、

そこに少しでも寄り添えていたら、

先生は嫌われなかったのかもしれません。

みんなに嫌われていたのは、

そこもあったのかもしれないと私は感じました。

人の力は有限ですが、

母や、他の生徒がつらくならない手段があったのではないかと、

なんとなく思う次第です。


また、母の嫌いな先生は、

寄り添わないだけでなく、

生徒をバカにすることもしていたと聞きました。

クラスには吃音の男の子がいたと聞きました。

母の嫌いな先生は、吃音の男の子に音読をさせて、

ゲラゲラと笑っていたと聞きました。

漫才より面白いなと言っていたそうです。

吃音の男の子は真っ赤になって、

それでも一生懸命に音読をし、

母の嫌いな先生は、それを笑ったと言います。

母は、これはいじめだと感じたと言います。

母の正義感ではなく、

多分ですけれど、

変わったものを槍玉に挙げて嘲笑する様が、

醜いものだと感じられたのでしょう。

昭和の頃の先生というものは、

クラスの中の権力者です。

先生によっては殴ることもいとわなかったかもしれません。

小学生にしてみれば、

命を握られているようなものです。

逆らうなんてできません。

それでも、吃音の子をあざ笑う様子は、

母には醜く見えたのだと思います。

弱い子供をいじめる醜い大人の先生は、

母の中でずっと嫌いな先生であり続けました。

どれほど先生の名前を忘れようとも、

嫌いな先生の名前はフルネームで覚え続けました。

ある意味での憎しみです。

忘れられないほどの嫌悪です。


多分、母は、こんな大人になりたくないと、

文字通りの反面教師として覚え続けていたのだと思います。

母の嫌いな先生も、多分もう故人です。

どんな思いで先生をしていたか、知る術はありません。

ただ、生きている母だけが、

嫌いな先生だと語ってくれます。

嫌な思いをしたと語ります。

結局生き残った人が語って、

語ったことが残り続ければ、

小さくてもそれが歴史になります。

その点で、母は嫌いな先生に勝ったのだと思います。

いや、勝ち負けではないのかもしれませんが、

母びいきの私は、勝ったと思うのです。


今回は、母の嫌いな先生についてでした。

母にはたくさん関わった方々がいますので、

これからのエッセイで、

母といろいろな人や、

母と何かの出来事などを書いていきたいと思います。


次がいつになるかはわかりませんが、いずれ、また。

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