葵は心臓の鼓動を感じながら、白熊魔法学園の廊下を歩いていた。
光との予想外の勝利を収めた後、教室へ戻ると、朝とはまるで別の空気が流れていた。
足音や会話が廊下に響いていたが、葵が学生の集団のそばを通るたびに、彼らは声をひそめ、ちらりと彼女を見ていた。
「あれが光を倒した葵?」
「そうだけど… どうやって? 火花を出す程度の魔法しかなかったはずじゃ…?」
「本当の力を隠してたんじゃないの?」
「でも、なんであんな人形持ってるんだ? ちょっと変じゃない?」
葵は顔が熱くなるのを感じ、唇をかみしめた。
手の中のレンを強く抱きしめながら、足早に自分の席へ向かった。
椅子に身を投げ出し、周囲の視線を無視しようとしたが
――
手の中にいたレンが、少しだけ頭を傾けて、小さな声で言った。
「へぇ、君は今やちょっとした有名人だね。」
「黙って…!」 葵は歯を食いしばりながらささやいた。
彼が口を開くたびに、ますます視線が集まる気がしたからだ。
レンは小さく笑った。
「そんなに気にすることないよ。数日もすれば、みんな別の話題を見つけるさ。」
葵は腕を組み、落ち着こうとため息をついた。
彼の言葉を信じたかったが、周囲のささやきは止まらなかった。
「きっと操り人形の召喚魔法だ。
「だから、あんな戦い方ができたんだな…。」
「でも、そんな魔法があったなら、どうして今まで使わなかったんだ?」
「わざと弱いふりをしてたんじゃないの?」
葵は俯き、違和感と苛立ちを覚えた。
ただ目立たずにいたかっただけなのに、今はまるで「何かを隠している存在」のように噂されていた。
――そして、その噂はさらに悪い方向へ進んでいった。
「で、その人形は何?」
「使い魔なんじゃない?」
「それとも呪われた道具とか?」
「ていうか、ただの変な子なんじゃない? 人形がいないと話し相手もいないとか。」
背筋に冷たいものが走る。
葵は無意識にレンを強く握りしめると、周囲の視線から逃れるように、彼を急いでカバンに押し込んだ。
まるで、そうすれば噂ごと消えてしまうかのように。
一瞬、教室が静まり返る。
しかし、その静寂を破るように、カバンの中からレンのくぐもった声が聞こえた。
「ちょっと、それはひどくない?」
葵は目を閉じ、悔しさを押し殺した。
今、ここで反論すれば、また注目を集めてしまう。
そう思いながら、彼女は両手で顔を覆い、ただただ一日が早く終わることを願った。
夕日が山々の向こうに沈み始める頃、葵は急いで白熊学園を後にした。
一日中、クラスメートの視線を感じ、彼らのひそひそ話が耳に入っていた。「突然現れた"秘密の力"」について、尊敬の眼差しを向ける者もいれば、疑いの目を向ける者、さらには面白がる者までいた。
しかし、葵が最も気にしていたのは生徒たちではなく、教師たち――特に、光との決闘を監督した教師だった。結局、レンに魔力がないと判断されたものの、彼は完全には納得していないように見えた。
ため息をつきながら、近くの公園で立ち止まり、カバンからレンを取り出した。
「やっと新鮮な空気だ!」
レンは小さな布の手を伸ばしながら叫んだ。
「黙って。」
葵はささやきながら、周囲を見回した。人形と話す姿を見られるわけにはいかない。
レンはクスクスと笑った。
「まだ噂を気にしてるの?」
葵は頬を膨らませ、少し顔を赤らめた。
「当然でしょ! みんな私がすごい魔法を隠してたって思ってるんだから!」
「少なくとも、もう舐められることはないね。」
レンはからかうように微笑んだ。
葵は横目で彼を睨み、ため息をついた。
「問題は、先生たちまで疑ってること。もしレンのことがバレたら、大変なことになる。」
レンは黙ってうなずいた。彼自身も、自分の存在について混乱していた。この世界に目覚めた時から、人形の体に閉じ込められている理由も、その仕組みも理解できていなかった。
「もっと調べたほうがいいね。」
葵はそう言って、レンを再びカバンに戻した。
翌日、魔法理論の授業中、先生は「魔法の付与された物体」や「呪われた道具」について話し始めた。
「魔法の歴史の中で、一部の物体は特別な力を持つようになりました。中には便利な魔道具として活用されるものもあれば、危険視され禁止されたものもあります。特に呪われた道具は、自我を持ち、所有者に影響を与えることがあると言われています。」
葵はゴクリと唾を飲み込んだ。
――まるでレンのことを言っているみたい。
「もし、こういった物を学園内で使用すれば、規則違反となり、重い処罰を受けることになるでしょう。」
葵は周囲の視線を感じた。どうやら噂はすでにクラス中に広まっていたらしい。
カバンの中で、レンもその異様な空気を察知していた。外の様子は見えなかったが、教室に満ちる緊張感は十分に伝わってくる。
「もし僕が動いたり話したりすることがバレたら……」
レンは不安を感じた。
「葵と引き離されるか、最悪の場合、僕が破壊されるかもしれない。」
放課後、葵は図書館へ向かい、「呪われた道具」について調べ始めた。
しかし、彼女は気づいていなかった。光が密かに後をつけていることを――。
「絶対にあの人形には何かある……。」
本棚の影から覗きながら、光は悔しそうに唇を噛んだ。
あの決闘に敗れたことが、どうしても納得できなかった。もし葵が禁じられた道具を使っていたと証明できれば、彼女を学園から追放し、自分の名誉を取り戻せる。
光は鋭い目つきで、葵が召喚魔法や魔道具に関する本を手に取る様子を見つめていた。
「証拠さえ掴めば……。」
その夜、自宅で葵はレンと実験をすることにした。
「よし、試してみよう。レン、何か魔法を使ってみて。」
「え? どうやって?」
レンは困惑した。
葵は腕を組みながら考えた。
「昨日の戦いで、君は人形を召喚した。でも、もう一度できるのか確かめたい。」
レンは布の手を動かし、集中してみた。だが、何も起こらない。
「やっぱり戦闘中じゃないとダメなのかな……。」
葵が考え込んだその時――
彼女がレンに手を伸ばすと、不思議な感覚が走った。
次の瞬間、周囲にいくつもの人形が現れた。レンと似た姿だが、それぞれ異なる色や形をしていた。
「出た……!」
葵は驚きの声を上げた。
召喚された人形たちは、まるで兵士のように動き出した。そして、レンの動きに合わせて行動している。
「すごい!」
レンも驚いた。
だが、さらに衝撃的なことが起こった。
「……え? 火花が……?」
人形たちの手から、小さな火球が生まれたのだ。
「これ、私の魔法!?」
葵は目を見開いた。
レンは布の手を見つめた。
「もしかして、僕の人形たちは、君の魔法をコピーできる?」
葵はしばらく沈黙した後、小さくうなずいた。
「もしそうなら……私たちは本当に強いチームになれるかも。」
レンはにやりと笑った。
「なんだか楽しそうじゃない?」
しかし、次の瞬間、葵はあることを思い出し、慌てて立ち上がった。
「待って! もしこれがバレたら、私が禁じられた魔法を使ってるって思われる!」
レンも黙り込んだ。
「じゃあ、秘密にするしかないね。」
彼は真剣な声で言った。
二人は互いに見つめ合った。
――これは、とても価値のある力。でも、同時に危険な力でもある。
葵は大きく息を吐いた。
「……わかった。明日は何事もなかったように過ごすわ。」
レンは頷いた。
「とりあえず、僕を誰にも渡さないようにね。」
しかし――
その会話を外から聞いていた者がいた。
窓の外の影が、音もなく消えていく。
光は静かに微笑んだ。
「やっぱり……あの人形、生きてるじゃない。」
――終章――