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第11話

 自分でも呆れるくらい、拒否というのが苦手だった。


 桜花先生の腕をギュッと掴む。思いが伝わるように。この感覚を、私は言葉で表現できそうにない。


 恋人以外とキスするのはダメだなんて、きっと、子供のようなことを言っていると思う。恋なんてそんな高尚なものでもないし、運命的な恋愛以外を除外できるほど数に余裕があるわけでもない。どこかで妥協し、成り行きに身を任せるのは利口といえる。


 ダイヤモンドが隠れているに違いないと砂場を掘り起こしていた子供の頃とは、もう違うのだ。大人の恋愛という無法地帯に、いつか私も足を踏み入れなければならない。


「みゃおちゃん……」


 しっとりとした声が降りかかる。


 ああ、私、きっとここでこの人に食べられちゃうんだ。


 そんなの……。


「い、イヤー!」


 ローキックが桜花先生の脛に直撃する。


 それでも離してくれないので、バシバシ! と何度も蹴り飛ばす。


「離して! この面食い! 女たらし!」 

「恥ずかしがらないでいいから」

「いや普通こんなんなったらやめませんか!?」


 私の真剣な声を聞いても、桜花先生は止まることをしなかった。このまま接近を許したら前歯と前歯が衝突しそうなくらいの勢いだったので、私は力尽くで桜花先生を押しのけた。


「えー、いいじゃん、減るもんじゃないし」

「減るんですよ! 価値が!」


 おいそれと唇を明け渡していたら、制限がなくなってしまう。人間の欲望が底なしなんてことはとっくに解明されているので、そうしたら次は身体を要求されるのがオチだ。


「私が増やしてあげるから。ね? もっともっとしたくなるよ、きっと」


 桜花先生が舌を出す。この人はいちいち、仕草が獣っぽい。


 それなのに、野蛮さを感じないのは何故だろう。


 今も腕を掴まれて無理矢理キスをされそうになっているのに、恐怖というものを感じない。それはもしかしたら、私を押す力が、弱く、弾き返すのが容易だからかもしれない。つまり、この人……本気じゃないのだ。


 キスがしたいのではなく、恥ずかしがる私を見たいだけ。


 ようやく離れてくれた桜花先生は、息切れを起こす私とは違いけろっとしていた。


「じゃあこうしよう。みゃおちゃんのお願いは、私にSNSをやってほしいってことだったよね?」

「はぁ、はぁ……そうですけど」

「でも、私はあんまり乗り気じゃない。だから、そうだな。SNSはやってあげるけど、活動内容は私の方で決めさせてもらう。だからもしかしたら、みゃおちゃんの望んでいるようにはならないかもしれない」

「その代わり、私には何を求めるんですか?」

「キスが嫌なら、一つランクを落とそうか」


 そう言って、桜花先生が両手を広げる。


「ハグしたい」


 桜花先生の中では、キスの下がハグらしい。


「ま、まぁ……それくらいなら、いいですけど」


 ハグくらいなら家族や友達ともするし、ある程度の仲があればそれほど違和感のない行為だろう。私と桜花先生の仲が相応のレベルに達しているかは不明だが、私は別に嫌な気持ちは抱かない。ということは、私なりに、桜花先生に気を許しはじめているのかもしれない。


 普通「失礼します」とか、声かけをしようものなのに、桜花先生は私の了解を得ると無言で私を抱擁した。


 その静けさが、なんだか本気度をあげてしまって、妙な恥ずかしさがあった。


 桜花先生は背が高い。私を抱きしめると、身体をすっぽり覆ってしまった。


「ハグってさ、近いようで遠いよね。顔が見えないから、相手の表情は想像することしかできない。みゃおちゃんは今、どういう顔をしているのかな」


 桜花先生と仲はよくなった。それは、少し語弊があるかもしれない。


 都内のハトが人間を避けないように、ただ、慣れただけだ。心の距離が縮まったとは、到底思えない。


 だって私は、まだこの人のことを何も知らない。


 どうして漫画家を目指したのか。学生自体は何をしていたのか。いつから女性を好きだったのか。友達はいるの? 恋人は? 家族は? 趣味も、好きな食べ物も。桜花先生は、何もかもを包み隠さず打ち明けているようで、その実何も教えてくれない。


 この人は、私に興味があるのか。それとも女性なら誰でもいいのか。もしくは、私が編集者だから? 良い漫画を書くためならなんでもするというストイックな創作精神が垣間見えているだけで、私を見ているわけではない?


 私を通して、何を見ているのだろうか。


「みゃおちゃん、電車の時間は大丈夫?」


 桜花先生はハグするときも、離れるときも、動作が淀みない。慣れているのかもしれないと思うと、胸の奥がザワザワした。


「あ、そうですね。そろそろおいとまさせていただきます。ハーブティー、今日もごちそうさまでした」

「うん。こちらこそ、ごちそうさま」


 お粗末様。私のどこから出汁が出ているのだろう。


「ハッピーエンド、お願いしますね。絶対、殺しちゃダメですよ」


 釘を刺してから、マンションを出ようとすると、玄関で桜花先生に呼び止められた。これまではいつも、見送ってくれることなんかなかったのに。


「みゃおちゃんは、どうしてそんなハッピーエンドに執着するの?」

「それは前も言った通り、私が好きなのと作品をマネジメントするための戦術です。ドントバッド・ノンハッピー。私はこれまでも、この理論に基づいてやってきたので」

「それは分かるんだよ。でもね、みゃおちゃんを見てるといつも思うんだ」


 桜花先生は、まるでもう救うことのできない化け物を見るような、そんな哀れんだ目で私を見ていた。


「みゃおちゃんは、何に怯えているの?」


 その目が、大人びた言葉が、先に進むことが何よりも正しいと説き伏せるように、私の頭上に降りかかってくる。その重力に逆らう術を、私は持っていない。返事もしないまま、私はマンションを飛び出した。


 見上げると、灰色の雲が空を覆っていた。光の遮られた太陽が自分と重なって、寒気が増した。  

自分を曝け出していないのは、桜花先生だけじゃないのに。


 私だって、きっと、自分のことなんか一つも話していない。



 その日の夜、編集長から社員全員に向けてのメールが届いた。


 制作部の中村さんが急逝したとの訃報だった。通夜は明日開かれるらしい。私たち編集チームもお世話になった人なので、仕事は午前で切り上げて全員で通夜に参列することになった。


 中村さんとは私も喋ったことがあった。人当たりがよく、忙しいときでも気遣いができる人だった。制作部の窓口は午後の二時で締め切られてしまうため、広告バナーなどを当日に発注したい場合は二時までに提出する必要がある。制作部は時間に厳しい人が多く、一秒でも遅れたら業務を請け負ってはくれないほどの徹底ぶりだった。


 新人の頃、私は当日までに発注しなければならない公式サイトのポスターの寸法を出し忘れてしまったことがあった。気付いたのは午後の三時で、今から制作部に出しても、発注は明日になってしまう。このままでは、業務が一日ずつ遅れることになる。


 そうなるとポスターを貼ってくれると言ってくれた図書館や書店、デザイナーさんや印刷所にも電話をしてスケジュールを変更してもらわなければならない。生きた心地がしなかった私は、トボトボとポスターの寸法を制作部に提出しにいった。


 しかし、そんな私を見かねた中村さんは、残業をしてまで私の業務をその日に請け負ってくれた。中村さんは「私も最初は失敗ばかりしてたよ。でも、そのたびに先輩たちに助けてもらったんだ」と言っていた。


 中村さんと話したのはその一回きりだったが、入社したてで右も左も分からない状態だった私にとって、それは忘れられない出来事だった。


 そんな中村さんが、死んでしまった。急逝ということは、心臓か、脳だろうか。寝ている間だったのか。それとも、出勤中か。お風呂上がりか、ジョギング中か。


 シャワーを浴びながら、そんなことを考える。


 中村さんも、きっと明日の仕事のことを考えていたはずだ。明日も頑張ろう。未来に馳せる希望と、将来への渇望を抱きながら、明日を信じた。


 だが、それはこなかった。そして、中村さんに未来が訪れることは二度とない。


 床に落ちていく水滴が、無数の星々を想起させる。


 足元から次第に重力が失われていく感覚に陥り、私は反射的に浴室を飛び出した。身体を拭くこともできないまま、びしょ濡れの状態でフローリングに倒れた。


「ハッ、ハッ……ッ、ハァ…………ッ!」


 呼吸の方法が頭からすっぽり抜け落ちる。喉に穴が開いたかのようで、吸っても吸っても、空気が肺に入ってこない。目の奥がスポンジを詰められたかのように痛くなり、視界に靄が掛かり始める。


 這ってリビングまで行き、濡れた手でスマホを操作した。救急車を呼ぼうとしたが、指先が震えてダイヤルをまともに打てなかった。スマホを投げて、仰向けになる。


 頭を抱えて叫んだ。


 発狂とはこのことを言うのだろうか。当てもなく、理由もなく、わけもなく叫ぶ。慟哭などという感情的なものでは決してなかった。


 声を出していないと、この小さな灯火が消えてしまう気がしてならない。


 隣人が、壁を叩いた。私は口に手を当てて声を押し殺した。ドアに激突して、棚に乗っていたコスメ類が全部床に落ちた。それらを蹴飛ばしながら、私は床の上でもがき苦しんだ。


 中村さんの死に対して、悲しんでいるわけではなかった。命の儚さに嘆いているわけでもなかった。私は、そんな出来た人間ではないのだ。


 いつまで子供みたいなこと言ってるの。


 みんな同じなの、あなただけじゃないのよ。


 いい加減、大人になりなさい!


 これまでぶつけられた罵詈雑言が膿みのように滲み出てくる。


 そんなの分かってる。


 この悩みが、苦しみが、どれだけ幼稚であることかも分かっている。


 それでも、どうしようもないから、目を逸らすことでしか対処できなかったのに。


 どうしてこうも、目の前に現れ続けるのだろう。


 ガチガチと歯を鳴らしながら、私は裸のまま、自分の身体を抱いた。


 気付けば深夜の二時になっていた。


 シャワーを出しっぱなしだったことに気付いて、私はようやく立ち上がることができた。


 水を止めて、鏡に映る自分を見た。


 髑髏のようにげっそりとした私。泣き腫らした瞼は真っ赤になっていた。


 その日、私は眠ることができなかった。


 目を瞑ったら、すべてが終わってしまいそうで。


 布団にも入らず、部屋の隅で蹲って、立ち向かう術も知らないまま時間が過ぎるのを待った。


 小さい頃から、ずっとそうだ。


 ――私は、死ぬのが怖い。


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