初めて人間の死を目の当たりにしたのは六歳の頃だった。
再従姉妹のお母さん――私はよくミカお母さんと呼んでいた。共働きだった私の両親は夕方まで帰ってこないことが多く、そのたびにミカお母さんがうちに来て私の面倒を見てくれた。 ミカお母さんは私に甘く、頼めばお菓子だっておもちゃだって買ってくれた。現金な子供だった私は、そんなミカお母さんを実の母より慕っていた。
ミカお母さんなんでこないの! と夜な夜な泣き喚いたこともあると聞く。
そんな大好きなミカお母さんが死んだ。訃報というものが耳に入ってくることはなく、私は学校を休まされ、ワケも分からないまま母の車に乗せられた。
通夜というものは子供が足を踏み入れるには重苦しすぎる空気だった。普段はミカお母さんの家に着くなり騒ぎだす私ですら、これは何か大変なことが起きたんだと理解して大人しくしていた。
私は押し出される形で二階にある再従姉妹の部屋に入れられた。何度頼んでも絶対触らせてくれなかったゲームも、再従姉妹はそのときだけは触らせてくれた。
その日は近くにある母の実家に泊まった。私はこのとき、まだミカお母さんが死んだということを理解はしていながらも、その全貌を咀嚼できていたわけではなかった。
私の母も、再従姉妹も、周りの人もそれまで泣いていなかったのに。ミカお母さんの棺が火葬炉に入った瞬間、わっと泣き出した。厳しかった叔母さんも、いつも私を怒る母も、子供みたいに泣きじゃくった。そんな大人たちの泣き顔は、なんだか怖かった。
遺体が焼けるまでの間、私は火葬場近くの草原で寝転がっていた。
火葬場のトンネルからあがる煙をぼーっと眺めていたら、母が私の隣に腰掛けて言った。
――あの煙がミカお母さんなんだよ。空に向かって、お星様になるんだよ。
へえ、そうなんだ。確か、そんなような曖昧な返事をした気がする。
一時間ほど経って火葬場に戻ると、灰の中に骨が置いてあった。
それがミカお母さんなのだと知った瞬間、私は人間の死というものを初めて理解した。
人は、星になんかならない。
人は、死ぬと骨になる。
目もないから、視覚も失っている。耳も、鼻もない。それどころか、脳もない。だから、考えるという行為自体が存在しない。死んだら暗闇に閉じ込められるのだと思っていたが、そんな幻想も打ち砕かれた。
死んだ先には、何もない。
翌年の命日、ミカお母さんのお墓に手を合わせに行った。お母さんはしきりに「ミカお母さん、宮尾が来たよ」とお墓に話しかけていた。だが、私は知っている。そんな声が、届いているはずもない。
黒いスーツで身を包むのも、お供えものをするのも、手を合わせる儀式的なものも、理解できなかった。ミカお母さんはもう骨じゃないか。身体を動かす心臓も、思考する脳もないのだ。人間の身体の構造として、死者が生者の声を聞き取れるわけもない。
久しぶりに再従姉妹に会った。高校生になった再従姉妹はこの一年で身長がすごく伸びていた。ミカお母さんが死のうが、周りの人間にはなんの影響もないし、これからもきっとないのだろう。
十年後、私が高校生になっても、ミカお母さんは死んだままだ。
百年後、千年後、一万年後――一億年後、十兆年後。世界はずっと続いていく。地球は回るし、太陽は燃えるし、宇宙は膨張し続ける。
――宮尾、ちょっと、宮尾!? どうしたの!?
青い星が俯瞰的に見えた。その瞬間、心臓がものすごい速さで鼓動し始めた。息ができなくて、滝のような汗が流れた。
人はいつか必ず死ぬ。
これまで、危惧していたことが杞憂に終わったことなんかいくらでもあった。
宿題をいつまで経っても提出しない私に、先生が「今日家に電話するからな!」と怒鳴った。私は家にいる間ずっと電話に怯えていた。だが、結局電話は来なかった。
ずっと高熱が続くので、いろんな病院に連れ回されたことがある。母が「大きな病気に違いない」と半狂乱で先生に詰め寄っていた。だが、結局ただの流行風邪だった。
心配していることは、だいたい現実にはならない。
だが、死だけは違う。
死だけは必ず訪れる。
これまで私の横を掠めていった心配事の数々とは訳が違うのだ。
私は、いつか必ず死ぬ。
いつか必ず、この意識を失う。
視界も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、言語も、思考も。それらを司る臓器が焼け灰になり、生き物としての機能が停止する。
その後も、時間は続く。
私の意識がこの世から消えたあとも、何兆年という時間が永遠に近い状態で続いていく。
そう理解した瞬間、私は意識を失った。
一月の中旬。連休明けの怠さがちょうど取れた頃合いで、私は桜花先生の自宅を訪ねた。
久しぶりに会った桜花先生は、相変わらず綺麗だった。
来る途中でマンションの人とすれ違って少し話したが、このマンションに住んでいる人は桜花先生のことを女優さんか何かだと思っているらしい。まあ、こんな綺麗な人がタワマンに住んでいたらそう考えるのも仕方がないとは思う。
「桜花先生は連休中、どこか出かけました?」
「ううん、ずっと家にいたよ」
借りたハンガーにコートをかける。
「あれ、実家には帰らなかったんですか?」
「うん。みゃおちゃんはどこか行った?」
「私も出かけませんでした。実家へは、ちょっと行く気になれなかったので」
弱みを見せたのが不味かった。
桜花先生がめざとく俯いた私の視線をすくいあげる。
「どうしたの? 話聞こうか?」
「い、いえ! 大丈夫です! そ、それじゃあ、桜花、連休中はずっと執筆を?」
「んー、実は年末あたりに風邪を引いちゃったんだ。執筆もしていたけど、ほとんどは安静にしていたかな。体調崩したらみゃおちゃんに迷惑かかっちゃうし」
驚いた。
桜花先生も、風邪とか引くんだ。
ゆたんぽを抱いて布団にくるまる桜花先生を想像したら、なんだかかわいかった。
「すみません、そうとは知らずに来てしまって」
「もうすっかり治ったから大丈夫だよ。それで、今日はどうしたの? 私に会えなくて寂しくなっちゃった?」
「そ、そういうのもあり、仕事もあり、ですかね。原稿の進捗を窺いたくて」
「月末には再来月分の原稿は提出できると思うよ」
「そうなんですね。よかったぁ……いつも提出が早いので、正直すっごく助かってるんです。再来月のストックまで書きためる人なんて、桜花先生くらいですよ!」
『ブッカツ!』の連載は、連載開始最初の一ヶ月は週に三回更新する。翌月からは通常通りの一週間に一度の更新になるのだが、最初の一ヶ月でストックを使い切ってしまうことが多い。そんな中、桜花先生はかなり余裕を持って原稿を書いてくれている。そのおかげで、ネームの推敲もじっくりできている。
「桜花先生って。SNSってやってますか?」
「学生時代はやってたけど、漫画家になってからはやってないかな」
「えー! も、もったいないですよ! 桜花先生って、連載していた雑誌の巻末インタビューでしか自我を出してないじゃないですか。桜花先生がどんな人かって気になる人ってめちゃくちゃ多いと思いますよ! いい機会ですし、SNSを始めてみませんか?」
今の時代、ほとんどの漫画家さんはSNSをやっている。連載中の作品を宣伝すれば、読者獲得にも繋がるし、認知度もあがる。というか、インターネット社会の現代では、SNS上の宣伝が物をいうと言っても過言ではない。
それは漫画家さんに限らず、編集者も同じことだ。作品の宣伝だけでなく、作品を作る過程の話などをSNSに投稿すれば、読者と作品の距離が縮まる。編集者がSNSをやるのは、もはや当たり前のことになっていた。
「『あま空』の公式アカウントも作ろうと思っているので、それに合わせて桜花先生のアカウントも作ってもらえたら話題を生めると思うんです。どうでしょうか」
上手くいくかは、分からない。百人見てくれたら、そのうちの一人が興味を持って作品を読んでくれたらいい。宣伝というのはそういうものだ。
だが、やるデメリットがない以上、SNSはやり得だ。
しかし、桜花先生はあまり煮え切らない様子だった。
「いいよ。ただ、その代わり。私のお願いも今日はいつもより豪華にしてもらいたい」
「豪華、とは」
「ちゅーしたい」
桜花先生がその人差し指を、自分の唇に持って行く。照明に照らされて艶やかに光る上唇が、人差し指にくっついて、ぷるん、と揺れた。
「き、キスってことですか!? それは、いや……ライン超えじゃないですか!?」
手を繋ぐとか、ハグとか。そういうのはまだ、友達とか家族だってするから線の内側にある。でも、キスは友達とか家族とはしない。する人は、いるのかもしれないけど、ほっぺにキスとかそれくらいだろう。
「しょうがないな。じゃあ口と口にしよっか」
「最初はどこにしようと思ってたんですか!?」
「言っていいの?」
桜花先生の視線が私の唇から首元、鎖骨へ滑り落ちていく。それより下はやめて。懇願する私の思いなど届くはずもなく、桜花先生は私の胸元を見て舌なめずりをした。
「い、いいいいわけないじゃないですか!」
「うん。さすがにね。だから、口同士」
「口同士も、だ、だめ……」
「嫌?」
「嫌、というか……」
ああ、やってしまった。
ちょっとでも迷うと、その隙間を縫うようにこの人は近づいてくる。
桜花先生が私の顎をくいっとあげて、視線を合わせてくる。そんなキザな仕草が、どうしてこの人にはこんなにも似合うのだろう。
桜花先生の顔が、ゆっくりと降りてくる。
びっくりするくらい長いまつ毛。こんな綺麗な人が、私を求めている。弱い私の承認欲求が、自分で引いた境界線の輪郭を曖昧にしてしまう。
桜花先生の腕を掴むも、力が入らない。それがなおさら、桜花先生を刺激してしまう。
まるで抱き合うような形になりながら、私は桜花先生の唇を受け入れる体制に入ってしまった。