「あれ? 佐和子ちゃんじゃん。なに、今日はデート? 誰かと待ち合わせ?」
「あ、山吹くん……。いや、デートとかじゃなくて、普通に買い物」
JR横浜駅の西口改札を出たところで、路上を歩いてきた山吹に出会った。土曜の横浜駅は芋を洗うような人の多さなのに、よく地味な自分に気づいたなと感心する。
山吹はパリッと糊の効いた紺地のスーツ姿。どこからどう見ても休日の装いではない。
「休日出勤? 大変だね」
土日休みだと聞いていたので、本来なら仕事はないはず。
「いやー、新規プロジェクトが忙しくてさ。今昼飯に出てきたとこ。お昼まだ? まだなら一緒にどう?」
相変わらず人懐っこい笑顔の彼に押され、佐和子は曖昧に微笑む。
「私もこれからだから。一緒に行こうかな」
「よし! あ、でもあんまりゆっくりできないから、あそこのチェーンのうどん屋でもいい?」
「大丈夫」
山吹が指し示したのは、オレンジ色の看板を掲げたうどん店。佐和子もサラリーマン時代に一人で何度か利用したことのある店だった。
中に入ると、鰹出汁のいい香りが鼻をくすぐる。本当はまだそこまでお腹は空いていなかったので、食べたい気分ではなかったのだが。店内に立ち上る湯気や、釜の中で踊る麺の様子を見たら、ぐう、とお腹が鳴った。
「俺、きつねうどんで。佐和子ちゃんは? 俺が払うから」
「え、いいよいいよ。悪いし。私は、えーとかけうどんかな」
「相変わらず真面目だなあ。遠慮しなくてもいいのに」
男の人に奢られるのは、貸しを作るみたいで嫌だった。お金を払ってもらったことで、変な遠慮をしなければなくなるくらいなら、自分で払って好きなものを食べた方がずっといい。
「で、最近どう? 仕事の方は」
席をついて早々、山吹は佐和子に尋ねた。
「え」
「佐和子ちゃんもマーケだったよね」
「あ……そのことなんだけど」
前回飲みに行ったとき、うまく自分のことを話せず、誤解が生じてしまったままだったことを思い出す。訂正するいいチャンスだが、やはりあやかし瓦版のことは話せない。
「実は、仕事辞めてて。今は、求職中なんだ」
「えっ、そうだったの。まじか」
社会人生活四年目ともなれば、転職なんて珍しくない。「求職中」とさえ言っておけばもうそれ以上突っ込まれないだろう。コミュニケーション下手な自分にしては良い返しをしたと思ったのだが。思わぬ返答が山吹から返ってきた。
「じゃあさ。もしよかったら、うちの会社のマーケティング部に来ない?」
「えっ」
「佐和子ちゃんてさあ。昔から真面目だし、なんでも一生懸命だし。一緒に仕事するには最高の人材だと思うんだよね。どう、やってみない?」
山吹からの提案に、佐和子はたじろいだ。
「経験者で俺の紹介なら、即採用されると思うんだよねー」
——人間の、社会での仕事……。
最近はあやかし瓦版の仕事が楽しくなってきたところで、それなりにやりがいも感じ始めている。でも、あそこは「あやかしの職場」なわけで。人間である佐和子が、一生働き続けられる場所ではないとも思っている。履歴書に書くことができない経歴であるし、長く働き続ければ続けるほど、人間の社会へと戻りづらくなることは否めない。
まだ、人間社会の仕事を辞めてからは、半年も経たない。
今こちらの世界に戻れるなら、まだやり直せる。
——でも……。
「あれ、佐和子ちゃん? どうしたの? 黙っちゃって」
「あ、ごめん。すごい嬉しいんだけど、即答はできない……あの、選考が……進んでる他の会社があって」
愛想笑いをしながら口から出まかせを言う。あんなにいやいや始めたあやかし瓦版の仕事。人間の自分がいるべきではない場所のはずなのに、簡単に捨てることができなくなっていた。
「そっかそっか。じゃあさ、とりあえずうちの会社のパンフレットここに置いてくから考えてみてよ。俺営業のときの癖で必ず一冊は携帯しててさ! もし受けたいなって思ったら、俺の携帯に連絡ちょうだい」
「うん……ありがと」
そのあとはうどんに集中するふりをして、会話を避けて黙々と食べ続けた。
——どうしよう。どうするのが一番いいんだろう。
麺を掬おうとして取り落とす。出汁の香りで掻き立てられたはずの食欲は、一気に失せた。佐和子は会社案内のパンフレットを手に取り、表紙で溌剌とした笑顔を見せる若手社員に視線を向ける。
「転職かあ」
そのままうどんに手をつけられぬまま、佐和子はぼんやりと彼らの笑顔を眺めていた。