午後三時五十分。佐和子と永徳、そしてマイケルは、白一色の鬼灯堂の本社エントランスに立っていた。
ガラス張りの天井からは柔らかな陽の光が降り注いでおり、無機質な空間に温かみをもたらしている。右手の壁面には巨大なデジタルサイネージが取り付けられていて、赤い着物を着た鬼の女性が、真紅のリップを唇に滑らせる映像が流れていた。
「さすが鬼灯堂。エントランスがめちゃくちゃオシャレですね。うわー、緊張してきたぁ」
そう言いながらキョロキョロ辺りを伺うマイケルと同様、都会的で洗練されたデザインの建物に、普段感情の起伏の少ない佐和子も珍しく浮き足立っていた。
「まあ、あやかし向けの化粧品事業でトップを走る企業だからねえ。エントランスもお金かけてるんじゃないかね」
唯一いつもと変わらない様子の永徳が、あくびをしながらそう呟く。まったくもってやる気が感じられない。
「さっきまで、化粧品の口コミサイトを見てたんですが……。カテゴリの半分でこのメーカーの化粧品が一位を取っていて。驚きました」
佐和子がおずおずとそう言うと、「そんなサイトがあるのは知らなかったな」と言いつつ、永徳は佐和子向けに解説を始める。
「鬼灯堂はね、代々鬼の一族が経営してる化粧品会社なんだ。毎年のあやかしメイクのトレンドは、この会社が作ってる。刹那も愛用しているブランドのようだよ」
「だから刹那ちゃん、行きたそうだったんですね……」
直前まで刹那が羨むような視線を送ってきていたのを、佐和子は思い出す。
「おや、担当者が来たようだね。ん……あれ?」
永徳が振り向いた先、こちらに向けて歩いてくる長髪の女性が目に入った。
「どうしたんですか?」
「いや……」
どことなく、戸惑ったような表情の永徳が新鮮で。佐和子はこちらに向かってくる担当者らしき女性と、彼の顔を見比べる。
つり目で真っ赤な口紅が印象的な彼女の頭には、人差し指ほどの長さの赤いツノが二本生えている。気が強そうな雰囲気はありつつも、背が高く、すらっとしていてモデルのような女性だった。
——あれ、この人、どこかで……。
「永徳さんおひさしぶりです。編集長自らお越しいただけるなんて嬉しいですわ。度々連絡させていただいているのに、なかなか会っていただけないんですもの」
「俺もなかなか忙しくてねえ」
親しげに話している様子を見るに、どうやら彼らは元から知り合いらしい。
「彼女が別の会社にいたときに、一緒に仕事をしたことがあってね」と永徳は説明してくれた。
妖艶な微笑みを浮かべた鬼女の瞳には、永徳しか映っていないようで。その視線には、単なる仕事相手としての好意以上のものが感じられた。しばしの談笑のあと、漆黒の絹のような長い髪を揺らしながら小首を傾げ、彼女はようやく佐和子に目を向ける。
「あなたが鳥海さんかしら、はじめまして。今日はよろしく」
「はい、鳥海佐和子と申します。今日はどうぞよろしくお願いします」
——どこかで会ったような気がしたけど。気のせいかな……。
「マーケティング部の椿です。部長の華山は忙しいので、私が今回の件は窓口を務めているの。あなたに電話をしたのも私よ」
既視感があると思ってしまったのは、一度声を聞いたせいだろうか。しかしなぜ「華山」を名乗ったのだろう。
彼女は頭の先から爪の先まで佐和子を凝視すると、口角を上げ、軽く鼻で笑った。
「……思っていたより平凡な女。永徳さん、なんでこんなちんちくりん、嫁候補に選んだんです?」
突然罵倒され、佐和子は呆気に取られる。いくら依頼者側だとしても、失礼すぎやしないだろうか。しかも「嫁候補」というのは事実と反するわけで。謂れのないことで馬鹿にされるのは不本意だ。
「それになんていうか。あまり仕事ができそうな雰囲気も感じないわねえ。人間で、あやかし向けの記事を書いている編集記者だなんて珍しいと思って呼んでみたのだけど。見込み違いだったかしら」
思わず佐和子が口を開こうとすれば、永徳が先に言葉を発する。
「椿、俺の嫁候補にそういう態度を取るなら、この仕事は受けないよ?」
「あら、永徳さん。軽い冗談に決まっているじゃありませんか。いやですわ。あら、そちらのヴァンパイアさんはなかなかの美男子ねえ」
「いやあ、そんな……」
頬を染め、頭を掻きながら珍しくマイケルが照れている。それに気を良くしたのか、椿はマイケルに関心を向けたようだ。
「でも、ヴァンパイアだし、人間の血を吸うのかしら。だとしたら鳥海さんと働くのは大変なんじゃなくて?」
「ああ、いえ。自分、血は絶ってるんです。マクロビにはまってまして。ですから目の前で流血でもされない限り、人を襲うことはありませんよ」
「あらあ、そうなの。健康志向なのねえ」
椿はなにかを思いついたのか、意地悪げな笑みを浮かべたかと思うと、突然話題を切り上げた。
「……さて、立ち話もなんですから、会議室へご案内いたしますね」
赤い唇を三日月型にしながらそう言って、彼女は佐和子たちを先導して歩いていく。
椿から少し距離を取り、後方からついていこうとすれば、永徳に袖を引っ張られた。
「いいかい、鳥海さん。鬼はやり手だからね、迂闊になんでも「できます」って言ってはいけないよ。無茶苦茶を言われたら鵜呑みにせず、契約がしっかり固まってしまう前に交渉すること。健康的に仕事ができる『余裕のあるライン』を見極めて調整することが大事だからね。もちろん、条件があまりに悪ければ依頼自体断ってくれて構わない」
佐和子は下を向いていた顔を跳ね上げ、永徳をキッと睨み返す。その反応に、永徳は驚いたようだった。
「大丈夫です。頑張れます。見ててください」
あそこまで馬鹿にした態度を取られて、こちらだってタダでは引っ込めない。永徳は珍しいものでも見るような顔で佐和子を見ていたが。なにかを言いかけて、結局飲み込み、口をつぐんだ。
——今回のような広告企画は、前職のマーケのときに企業側の担当者として関わっていたこともあるし、知識がゼロで臨むわけではないもの。
永徳はああ言ったが、多少の無理をしてでも、佐和子はこの案件を成功させるつもりだった。
◇◇◇
「あら佐和子おかえり。アタシを差し置いて行ってきた鬼灯堂の件はどうだったのよ」
「刹那ちゃん、まだ帰ってなかったんだ」
空が茜色に染まる頃。佐和子は一人で編集室に帰ってきた。マイケルも永徳も鬼灯堂の打ち合わせのあと直帰している。
刹那は珍しく「お茶を持ってくるわ」と言い、台所から冷えた麦茶のグラスを二つ持ってきた。打ち合わせ用のテーブルセットにそれを置くと、早く来いと手招きする。席に着けば、期待に胸を膨らませ、前のめりの刹那が急かすように聞いてくる。
「どんな案件か気になって気になって、帰れなかったのよ! で、で、どうだったの?」
ウキウキしている刹那を前に、佐和子は口籠る。楽観的に語れる案件ではなかったものの、わざわざこの話を聞くまで残っていた彼女を前に、詳細を話さないという選択肢はなかった。
「はあああ?! 三週間後に納品完了希望の『人間風メイク』の広告企画? なにその無茶苦茶タイトな案件は!」
誰もいない編集室に刹那の声が響き渡る。やはり誰が聞いても無理な案件であるらしい。
「それ、編集長はなんて?」
「その場では検討します、とは言ったんだけど。この話はやめておこうって言われた」
「でしょうね。あの人がそんなタイトな案件受けるわけないもの。グータラだし。まあ残念だけど、今回の鬼灯堂案件は諦めるしかないわねえ」
「ううん、受けるよ」
佐和子の返答に、刹那は眉根を寄せる。
「なに言ってんのよ。先方の希望条件丸ごと飲むなら、ほとんど寝ずに作業することになるわよ?」
「わかってる」
「わかってるって……あのねえ佐和子。メイクのレクチャー系広告記事となれば、モデルのキャスティングやヘアメイクの手配も必要。候補出しするにしても、この短期間で大手企業が納得するクラスのモデルを確保すること自体、めちゃくちゃ無謀なのよ?」
「笹野屋さんからも同じことを言われた。でもどうしてもやってみたいの。最速のスケジュールで企画書を完成させるつもり。向こうが一発オーケーならなんとか進められる」
捲し立てるようにそう説明した佐和子を見て、刹那は心配そうな顔をする。
「……佐和子あんた、どうしたの? なんからしくないじゃない。いや、前から頑固なところはあったけど。なんか、変に焦ってない?」
刹那はずい、と首を伸ばし、佐和子の顔を覗き込む。
「別に、焦ってなんかないよ。ただ、せっかく自分の仕事がきっかけでやってきた話を、無駄にしたくないだけ」
「……まあ、あんたがどうしてもやるって言うならもう止めないけど。手伝えることがあるなら言いなさいよ。あと、あんまり遅くならないこと!」
「……うん、ありがと」
あやかし瓦版に勤め始めてもう一ヶ月が経つ。永徳が佐和子に期待しているのは「人間ならではの視点での記事」だ。しかし、まだ刹那に手伝ってもらって書いた、レジャー記事の連載でしか期待に応えられていない。
山吹の誘いがあってから、いつかまた人間社会へ戻るという選択肢を、佐和子は意識し始めていた。
——早く、ひとりでなんでもできるようにならなきゃ。人間社会へ戻るかもしれないなら尚更。
日本庭園の大島桜からは、純白の花びらがすっかり消えて。幼く柔らかな緑の芽は、急に戻ってきた寒波にさらされていた。