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第37話 後悔

「笹野屋! また今月の営業成績もお前に勝てなかったよ。どんだけ隠し球持ってんだよ、お前は」


 ごつん、と軽いゲンコツをくらいながら、スーツ姿の永徳はヘラヘラと笑う。


「努力の賜物だよ、木村くん。俺はただ一生懸命やってるだけだ」

「憎たらしいなあ、相変わらず。部署の女子人気もお前がダントツだし」

「結婚は君の方が早かったけどね」

「それくらい勝たせろよ」


 天然の爽やかさが鼻につく、目元の笑い皺が特徴的な男。木村の印象を一言で言えば、そんなところだった。


「トップ争いの相手がお前じゃ分が悪いよ。笹野屋、お前裏でなんて言われてるか知ってるか? 『鉄人』だぞ」

「それは初耳だねえ」

「ほんとかよ」


 自席で領収書の束を整理しながら、木村はポケットからタバコを取り出す。不味そうにタバコを吸うのも、この男の癖だった。


「お前も一本吸うか?」

「もらおう」


 木村からもらったタバコを口に咥え、ライターで火をつける。この頃はまだ喫煙所なんてものはなく、みんな席でタバコを吸っていた。


「来月森村が昇進するらしいぞ。あんっの腰巾着、ゴマスリがうまくいって部長だとよ。世も末だ」

「ほう、それはそれは。厄介なことになりそうだね」


 部長補佐の森村は、仕事を右から左へ流すことしか能のない男だったが、ヨイショと賄賂の使い所だけは天才的で。あっという間に部長に上り詰めてしまった。


「あいつは下々の営業なんぞ、人だと思ってないからな。これから大変なことになるぞ、笹野屋」


 木村の予想は当たっていた。腰巾着が管理職になったことで、ノルマは二倍以上に増えた。上にいい顔をしたいがための無茶な数字目標である。職場の空気は悪くなり、営業部員たちの表情は険しくなり、体を壊す者も増えていく。労働時間百時間越えは当たり前。接待で連日御前様という日が続いた。


 森村が部長になって一年が経とうとした頃には、営業部の中で余裕があるのは永徳だけ。それまで永徳と軽口を叩いていた木村も、ギリギリ毎月達成するものの、げっそりと頬がこけ、目の下のクマが濃くなっていた。


「木村ぁ! 営業成績二番手のお前が未達成っていうのはどういうことだ!」


 目を血走らせ、怒り心頭の森村がオフィスに入ってくる。手近にあったゴミ箱を思い切り蹴飛ばし、中身をあたりに撒き散らし、ゴミの上を踏み荒らしながらズカズカと机の間を歩いてきた。


 決算を前にした二月末、ついに木村はノルマを下回ったのだ。


「お前がそんなだから、他の奴が弛むんだよ!」

「……申し訳ありません。今月はなんとか」


 かつての爽やかさが消え失せ、空洞のような目をした木村を、永徳は不思議そうに横目で見ていた。


「当たり前だろうが、期末だぞ。お前もうすぐ子どもが生まれるんだろ? そんな調子で養っていけんのか。父親が潰れたら一家路頭に迷うんだぞ」

「はい、頑張ります」


 ヒステリックな怒号が飛ぶ中、営業周りに出かける時間になった永徳は席を立ち、カバンを肩にかける。


「笹野屋を見てみろ。余裕で毎月達成してる。トップと二位のこの差はなんだ? サボってんじゃねえだろうな。おい笹野屋、どう思う? お前と木村の成績はどうして差が出たんだ」


 外に出ようとしたところで水を向けられた永徳は、森村を見て、木村を見、ううん、と首を捻ったあと、面倒くさそうに口を開いた。


「まあ、努力の差かと」


 そのときの木村の顔を、永徳は生涯忘れることができなくなった。


 人間が壊れるときはこういう顔をするのだと、あとになってから知ることになる。


   ◇◇◇


「俺はね、どんなに寝なくても、どんなに走り回っても、いくら働いても疲れを感じないんだ」


 縁側で星を見上げながら、永徳が淡々と言う。


「半妖、だからでしょうか」

「うちの父は、あやかしの中でも特別体が丈夫だったんだ。たぶんそれを受け継いだんだね」


 深いため息をついた彼は、俯いて両手の指を組む。


「木村は俺に追いつこうとして、相当無理をしていたんだよ。あいつはその月、ちょっとしたミスから大口顧客を失っていた。挽回しようとして躍起になったが、無理だった」


 若い永徳はわからなかった。自分の体質が特殊であることを。

 同僚がどれほど無理をして、仕事をしていたのかということを。


「知らなかったんだ。人間がそんなに脆いなんて。ずっと自分と同じだと思っていた。だからみんな、手を抜いているからできないんだと思っていたんだ。でも違った」


 毎年三月三十日。永徳がひとり訪れる墓は、彼の同僚の墓だったのだ。


「限界に来ていたあいつに、俺がトドメを刺した。木村は妻子を残して首を吊った。あいつが死んだのは俺のせいなんだ」


 永徳はキツく両手を握りしめ、唇を噛んで俯いた。


 ——ああ、そうか。


 永徳はいつもゆるゆると仕事をしているように見えて、予定していたスケジュールは絶対守るし、サボっているように見せかけて、実は仕事をしていたりする。


 ——他の社員の見えるところで昼寝をしているのも、ちょくちょくだらけた風に見せているのも。きっとわざとなんだ。周りにプレッシャーを与えないように、あえてそういうことをしていて。


「鳥海さんが家に来たとき、弱りきった様子の君が木村に重なって。君が一生懸命になるのを見るたび——不安になってしまうんだ」

「そうだったんですね……」

「俺は人間の疲労感覚がわからないから、経験則でしか推し測れない。だからついつい先回りをする形になって。過保護になってしまうのだよ」


 困っているとき、壁にぶち当たっているとき、永徳はまるではじめからすべてを予想していたかのように、絶妙なタイミングで手を差し伸べてくれた。


 観察して、推し測って。倒れないように、走り続けられるように。彼は佐和子を見守り、助けてくれていたのだ。


「笹野屋さん、話してくださって、ありがとうございます。……お辛い、思い出だったのに」

「いや、もう昔の話だし。やだねえ、歳をとると自分語りが長くなって」


 永徳は笑っていたが、きっと心からのものではなかった。


「まあつまり……なにが言いたかったかと言うと。人間の体は脆いんだ。大事にしておくれ」


 知る限り、彼の関わる人間は多くない。母親である富士子と米村くらいのものだ。外からやってきた佐和子と関わることで、人間世界に関わっていた頃のいろいろな想いが蘇ってきたのかもしれない。閉じ込めていた過去のトラウマでさえも。


 佐和子は思い切って永徳の手を握り、少し潤んだ青い瞳を正面から見つめる。


「笹野屋さん、ご心配をかけてしまい申し訳ありません。でも、私、今とても楽しくて」


 永徳は呆気に取られた顔で、佐和子を見ていた。


「以前シーパラダイスで、笹野屋さんが『人間ならではの視点で仕事をしてほしい』『君にしかできない仕事だ』って言って下さったことが、私とても嬉しくて。そんなこと言っていただいたの、初めてだったんです」


 自分が饒舌になっているのがわかる。溢れ出す言葉を、伝えたい思いを、そのまま口に出していた。


「私、以前の職場で大失敗をしてしまってから、腫れ物に触るような扱いを受けてました。焦りばかりが増して、でも振られる仕事は雑用ばかり。働く意味を失ってたんです」


 永徳の手を握る自分の手に力が籠る。


「笹野屋さんのおかげです。組織の歯車じゃなくて、自分の価値を認めてもらえて仕事を任せてもらえるのが嬉しくて。それで、ちょっと力が入りすぎてたのかも。今日は残業せずに帰ります。ご心配いただいた通り疲れてますし。今度からはちゃんと『大丈夫』な範囲で、仕事を調整するようにします。……だから、そんなに心配しないでください。私、そんな簡単に消えたりしません」


 永徳は呆気に取られた顔をして、彼の手に重ねられた佐和子の手に視線を落とした。佐和子はそれを見てハッとし、手を引っ込めた。


「す、す、すみません。あの、私、これにて失礼します……!」


 勢いよくそう言いながら会釈をして、佐和子は荷物を持って玄関へと駆け出す。慌てて姿を消した佐和子のうしろ姿を見ながら、時間差で永徳の頬が桜色に染まる。


「不意打ちにも……ほどがあるでしょ。鳥海さん……」


 浅いため息が出る。ただそれは苦痛に塗れたものではなくて。どちらかといえば、甘く、切ない色味を含んでいた。


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