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第38話 人間としてのキャリア

 意味もなく、夜の闇を駆ける。


 目的地があるわけではない。本当は家が目的地のはずではあるのだが。


 走ってしまえば十分でついてしまう自宅では、この感情を落ち着かせるには不十分な距離だった。


 心臓が高鳴るのは、きっと走っているせい。

 そうだ、きっとそのせいだ。


 そう自分に言い聞かせながら、急坂を勢いに任せて降りて、佐和子は幹線道路沿いを走った。


 地面が平らになって、途端に走るのが苦しくなって立ち止まり、両膝に手をつく。


 汗の伝う額をハンカチで拭う。いくら働き始めて体力が戻ってきたとはいえ、激しい運動なんてしばらくぶりで、自分の肺が苦しそうに空気を求めて収縮を繰り返す。


「私、なんで手なんて握っちゃったんだろ。明日から、どうやって顔を合わせたらいいの……」


 息を吐きながら、キラキラと輝く星の海を見上げた。

 驚いた表情の永徳が、頭から離れない。


 ——嫌じゃなかったかな。急に私に手なんか握られて。


 あまりに悲しそうな顔をするから。傷ついた顔をするから。


 「自分なんて価値がない。消えてしまえばいい」そう思っていた過去の自分を見ているようで。


 彼に見つけてもらえたことを、ここで働かせて貰えていることを感謝したくて。あなたのおかげで自分は立ち直れたんだ、と伝えたくて。気づけば勢い余って、手まで握っていた。


 これまで永徳との間に、色っぽい雰囲気など微塵もなかったし、佐和子自身、尊敬はしていても恋情を抱いていると感じたことなんてなかった。しょっちゅう揶揄われてはいたけれども、きっと向こうだって、佐和子を女性として意識なんかしていなかったはず。あんなふうに手を握られて、どう思われただろう。


「わああ、馬鹿だ私」


 心の声が口に出ていた。

 りんごのように染まった頬を隠すように、両手で顔を覆いその場にしゃがみ込む。


 直後、ポケットのスマホが振動した。

 画面を見れば、山吹の文字。

 緑色の吹き出しが、途端に佐和子を現実へと引き戻す。


 メッセージの画面には「うちの会社に来ること、考えてくれた?」という一文が表示されていた。


 ——人間世界での仕事……か。


 やっと編集部員たちと打ち解けて、仕事も楽しくなってきた。まだまだあやかし瓦版で働いていたい気持ちもある。


 でも、人間がずっとあそこにいていいのだろうか。

 周りの人間たちが、人間社会で着実に人生を歩んでいく中、自分だけが現実に置いていかれても苦しくはならないだろうか。


 あやかしの世界の仕事を選んで、人間社会に復帰できなくなっても後悔しないだろうか。


 スマホを握る指に、力がこもる。


 永徳が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたおかげもあって、仕事のやり方だけでなく、考え方まで、手取り足取り学ばせてもらうことができた。結果として、融通の効かない佐和子でも、短期間でそれなりに仕事ができるようになっている。


 ——まだまだ半人前だけど、あやかし瓦版の一員として、必要として貰えているし。いろいろ教えてもらった手前、もっと貢献していきたい気持ちもあるし。


 山吹に返信しようとして、指を止めた。

 まだ、なんと返して良いかわからなかった。

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