意味もなく、夜の闇を駆ける。
目的地があるわけではない。本当は家が目的地のはずではあるのだが。
走ってしまえば十分でついてしまう自宅では、この感情を落ち着かせるには不十分な距離だった。
心臓が高鳴るのは、きっと走っているせい。
そうだ、きっとそのせいだ。
そう自分に言い聞かせながら、急坂を勢いに任せて降りて、佐和子は幹線道路沿いを走った。
地面が平らになって、途端に走るのが苦しくなって立ち止まり、両膝に手をつく。
汗の伝う額をハンカチで拭う。いくら働き始めて体力が戻ってきたとはいえ、激しい運動なんてしばらくぶりで、自分の肺が苦しそうに空気を求めて収縮を繰り返す。
「私、なんで手なんて握っちゃったんだろ。明日から、どうやって顔を合わせたらいいの……」
息を吐きながら、キラキラと輝く星の海を見上げた。
驚いた表情の永徳が、頭から離れない。
——嫌じゃなかったかな。急に私に手なんか握られて。
あまりに悲しそうな顔をするから。傷ついた顔をするから。
「自分なんて価値がない。消えてしまえばいい」そう思っていた過去の自分を見ているようで。
彼に見つけてもらえたことを、ここで働かせて貰えていることを感謝したくて。あなたのおかげで自分は立ち直れたんだ、と伝えたくて。気づけば勢い余って、手まで握っていた。
これまで永徳との間に、色っぽい雰囲気など微塵もなかったし、佐和子自身、尊敬はしていても恋情を抱いていると感じたことなんてなかった。しょっちゅう揶揄われてはいたけれども、きっと向こうだって、佐和子を女性として意識なんかしていなかったはず。あんなふうに手を握られて、どう思われただろう。
「わああ、馬鹿だ私」
心の声が口に出ていた。
りんごのように染まった頬を隠すように、両手で顔を覆いその場にしゃがみ込む。
直後、ポケットのスマホが振動した。
画面を見れば、山吹の文字。
緑色の吹き出しが、途端に佐和子を現実へと引き戻す。
メッセージの画面には「うちの会社に来ること、考えてくれた?」という一文が表示されていた。
——人間世界での仕事……か。
やっと編集部員たちと打ち解けて、仕事も楽しくなってきた。まだまだあやかし瓦版で働いていたい気持ちもある。
でも、人間がずっとあそこにいていいのだろうか。
周りの人間たちが、人間社会で着実に人生を歩んでいく中、自分だけが現実に置いていかれても苦しくはならないだろうか。
あやかしの世界の仕事を選んで、人間社会に復帰できなくなっても後悔しないだろうか。
スマホを握る指に、力がこもる。
永徳が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたおかげもあって、仕事のやり方だけでなく、考え方まで、手取り足取り学ばせてもらうことができた。結果として、融通の効かない佐和子でも、短期間でそれなりに仕事ができるようになっている。
——まだまだ半人前だけど、あやかし瓦版の一員として、必要として貰えているし。いろいろ教えてもらった手前、もっと貢献していきたい気持ちもあるし。
山吹に返信しようとして、指を止めた。
まだ、なんと返して良いかわからなかった。