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第39話 働く上での幸せ

「はあー、今日もいい香りがしてきたわね。焼き鮭と、この香りは肉じゃがもあるかしら。あぁ、お腹すいた」


 編集室の自席でグッと伸びをし、刹那は食欲をそそる香りにうっとりと目を閉じている。


「私、米村さんを手伝ってくる」

「佐和子は律儀ねえ。席で待ってればいいのに。……でも今日はアタシも行こうかしら。一足お先におかずを確認しに行くっていうのも悪くないわ」

「刹那ちゃんて意外に食いしん坊だよね」

「うるさいわね」


 二人でくだらない雑談をしながら、編集室の襖をあけて台所へ向かう。

 米村の腰が心配なのもあるが、正直を言えば落ち着かなかった。


 これまで仕事を覚えるのに必死で、「嫁候補」という肩書きについてろくに考えもしてこなかった。永徳が冗談めかして言っているのもあって、真面目に受け取っていなかったというのもある。昨日のことがあって、変な方向へ意識が働いてしまった。


 鬼灯堂への提案が終わったので、もう永徳と取り組んでいる仕事はない。おかげで今日は打ち合わせの予定もなく、午前中は彼が外出なので、関わる機会はなかった。だが、永徳は昼には編集室へやってくる。


 ——どんな顔をして会ったらいいのか、わからなくなっちゃった。


 手際よく配膳の準備を進めている米村の背中を見つけ、佐和子は声をかける。


「米村さん、配膳お手伝いします」

「アタシも手伝うわ」

「まあお二人とも。お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。これが私の仕事ですから」

「いえいえ、みんなでやった方が早いですから」

「いいから任せなさい。佐和子から聞いたけど、腰が悪いんでしょ?」

「ご心配をおかけしてしまったようで恐縮です。せっかくですから、お言葉に甘えてしまいましょうかね」


 米村が台所の奥から配膳車を出し、佐和子と刹那が箸箱や漆の茶碗、瀬戸焼の小皿、おかずのたっぷり入った大ぶりの保存容器をそれに乗せていく。


「今日の煮付けにはタコが入ってるのね! わあ、それだけでもう美味しそう」

「刹那さんは魚介がお好きですねえ」

「米村さんの調理する魚介類は特にね!」


 出発の準備が整ったところで、あやかしたちの待つ編集室へと押していく。福利厚生の一環として提供される昼食は、バイキングスタイルになっている。昼十二時には米村が編集室の壁際に食事が並べるので、あやかしたちは自分でそこから食事をよそい、自席や編集室内に設置されたテーブルセット、または縁側などで食事をしているのだ。


 襖の前に到着し、先に米村が中へと入っていく。佐和子と刹那も続いて中に入ろうとしたが、黒いリボンがかけられた大きな赤い箱を抱えたマイケルが、玄関の方からやってくるのを見て、足を止めた。


「あ、鳥海さん、鬼灯堂の椿から鳥海さん宛にお荷物です」


 佐和子が箱を受け取ろうとすれば、それを遮るように刹那が佐和子とマイケルの間に入った。


「ねえ、マイケル。その荷物……誰からって言った?」

「鬼灯堂の椿さん……ですけど。いつの間にか玄関に置いてあって」

「ほら、刹那ちゃん、人間メイクの案件をくれた人だよ。鬼のあやかしの」


 顔色を変えた刹那は、弾かれたように佐和子の方を向く。


「あんたなんでそれを早く言わなかったの! その女、いっとき編集長にしつこく付き纏ってた女よ!」

「ええっ、そうなの?」

「編集長に近づく女にはもれなく嫌がらせをするの。しかもね、編集長自身には気づかれないように、うまーくやるのよ。アタシも一回、編集長との関係を疑われて。カバンに蛇を入れられたり、毒矢を仕掛けられたり、散々な目にあったわ。山本五郎左衛門様が気づいて、追い払ったみたいだけど」

「蛇に毒矢って……物騒だね……」


 五十六歳まで独身と聞いて、本人になにかしら問題があるのだろうと思っていたが。永徳自身が知らぬ間に、外的要因も影響していたらしい。


「奥様が亡くなられて、家主が旅に出ているって知って、まーたちょっかいだしにきたのね。とにかくこの箱は絶対触っちゃダメ。なにか仕掛けられてるわよ、きっと!」


 マイケルは半信半疑の様子だったが、刹那の指示に従い佐和子から数歩後ろに下がった。そして箱をしげしげ観察し、ううんと唸る。


「品目は……ギフト、としか書いていませんねえ。なんでしょう? あれっ」


 黒いリボンが、ひとりでに解け出す。

 スルスルと勢いよく解けていくリボンは、床に落ち、赤い蓋が開かれる。

 箱に入っていたのは、蝶を模ったガラス製の香水瓶だった。

 中には赤黒い液体が入っている。


 おそるおそる箱の中を覗き込むと、まるで生きているかのようにガラスの蝶がはためく。その瞬間、慌てて玄関の方の廊下から飛び出してきた永徳の姿が視界に入った。


「鳥海さん、その瓶から離れて!」

「え」


 永徳の指先が触れる間際、ガラスの瓶が勢いよく割れ、中身が飛び散った。咄嗟に顔を覆った佐和子の腕には、赤い液体が染み込み、袖に濡れた感触が広がる。


 鼻をつく鉄臭い匂いに顔を顰め、まじまじと自分の袖を見て佐和子は唖然とした——これは、血液だ。


 瞬間、勢いよく床に叩きつけられ、背中に鋭い痛みが走る。


 ——なに……? なにが起きたの?


 目の前には額に血管を浮き立たせ、血走った目を大きく見開き、永徳の腕に牙を立てるマイケルの姿があった。肩を上下させるような荒い息遣いで、完全に正気を失い、獣のような唸り声をあげている。


「ひ……うわ……さ、笹野屋さん……」


 永徳はマイケルが佐和子に飛びかかろうとしたとき、佐和子に覆い被さりマイケルの口元に向かって後ろ向きに肘鉄を喰らわせたらしい。佐和子の首元を狙うはずだったマイケルの鋭い歯は永徳の腕に突き立てられ、食いちぎりそうな勢いで顎に力をこめていた。


 ギリギリとねじ込まれる牙の痛みに、永徳は顔を歪める。吸血されているのか血液は漏れ出てこない。


「さすが若いだけあって、なかなか力が強いね」


 噛みつかれた状態のまま、もう一方の手で永徳はマイケルの顔面を掴んだ。すると気を失ったのか、マイケルの体からは力がぬけ、ずるずると床に倒れ込む。


「鳥海さん、大丈夫かい? ごめんね。不穏な気配を感じたからとんできたんだけど、少々遅かったようだ」

「いえ、私は……」


 大丈夫です、そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。


 これまであやかしと働いてきて、驚くことは多かったが。佐和子を狙って真正面から襲ってくるマイケルの姿を見て初めて、人外の生き物たちと仕事をしているのだと、ようやく認識できた気がする。


「怖かっただろう」


 頭に優しくのせられた永徳の手に、気が緩んだのか涙が溢れた。


「あ……」


 カクカクと震え始めた佐和子の唇に、涙の雫が落ちる。


 怖かった。

 どんなに打ち解けていても。仲間だとわかっていても。

 たった今感じた「怖い」という感情を、拭うことはできなかった。


「あら残念。不発だったようですわね」


 悪意に満ちた笑い声に、その場にいた全員が声の方を振り返る。

 血に染まった廊下と、怯える佐和子を楽しそうに眺めながら、優雅な笑顔を浮かべてその場に立っていたのは、「ギフト」の贈り主——椿だった。


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