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第40話 椿の悪巧み

「椿、ずいぶんとたちの悪い悪戯をしてくれたね」


 言葉は丁寧だったが、永徳の表情は怒りに満ちていた。佐和子を背に庇い、鋭い視線を鬼女へと向ける。


「ああ、その表情、とってもゾクゾクする。これまでずっと暖簾に腕押しで、私に感情を向けてくださらないんだもの。ようやくいつもとは違う表情を見せてくださって、とっても嬉しい」


 恍惚とした椿の表情は狂気をはらんでいる。好きな人から向けられる感情なら、それがたとえ怒りでさえも嬉しいという彼女の感覚は、佐和子には理解できなかった。


「このストーカー女! あんたってやつは毎度毎度」

「永徳さんと話しているときに、首を突っ込んでこないでくれる? 首が長いだけの能無し女」


 こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、虫ケラでも見るような視線を刹那に向ける恐ろしげな椿の顔は、佐和子の中で忘れることにしていた、雨の日に見た女の顔に重なった。


「もしかして……椿さん……。あなたって以前、三ツ池公園の前で……」


 佐和子がそう口にすれば、椿は視線をこちらに向け、三日月型に口角を上げる。


「あら、ようやく思い出してくれたの」

「鳥海さん、どういうこと?」


 永徳は険しい顔で佐和子に向き直る。彼の心配の種になるようなことをうっかり口にしてしまい、佐和子はしまったと思った。


「ええと……。一度、三ツ池公園の前で、椿さんによく似たあやかしに襲われそうになったことがあって。でも、根付に守ってもらって」

「どうして言わなかったんだ!」


 凄まじい剣幕でそう言う永徳に、佐和子は慄く。


「心配を……かけたくなかったんです。ご迷惑を、かけてばかりだったので」


 佐和子と永徳のやり取りを憎らしげに見ていた椿は、雨の中での出来事を語り始める。


「永徳さんとの接点がなくなったあとも。私ずっと笹野屋の屋敷の周りで永徳さんの姿を追っていたの。そしたら人間の若い女が出入りしているのを見かけて……」

「ずっとって。どんだけ暇なのよアンタ」


 刹那の横槍を無視しつつ、椿は話し続ける。


「あやかしの女との浮いた噂ひとつ聞かなかったのを不思議に思っていたの。私が早めに芽をつんでいたのもあったけど。でもおかしいじゃない? こんなに素敵な人なのに、見合い話ひとつ持ち上がらないなんて。でもこの女と過ごす永徳さんを見ていてわかったの。もしかしたら半妖の永徳さんは、人間の女を好むのかのかもしれないって」


 椿はあらためて佐和子を睨みつけた。


「悲しかったわ。どんなに頑張っても私は人間にはなれないもの。だから見せしめに、あなたをメチャクチャに引き裂いて殺してやろうと思った。二度と人間の女と仲良くなろうだなんて、永徳さんが思わないように」


 術がかけられたお守りに阻まれてしまったけど、と悔しげに椿は歯を噛み締める。


「そのあとすぐ、『人間の嫁候補』の噂を聞いて。腑が煮え繰り返ったものよ。ああ、やっぱり人間が良かったんだって」


 災いを避けるつもりで使った「嫁候補」という言葉が、まさかストーカーの恨みを買う結果になってしまっていたとは。


「絶対に殺してやるって思った。気づかれないように尾行して、あなたに危害を加える別の方法を探ったわ。そのうち、明確な悪意を持ってその女に近づかなければ、根付は反応しないこと、編集部員に対しては危害を加えられないってことがわかって。ヴァンパイアの彼はちょうどいい駒だったわ」


 椿の手には、先日手渡しした企画書が握られていた。


「今回の広告企画は、我が家に足を踏み入れるための『鍵』を手に入れるためのものだったのかな」


 永徳が尋ねれば、椿は妖艶な笑みを浮かべる。


「ええ。何度も失敗してしまったものだから、確実に仕留めたくて。それに知らぬ間に死んでいるより、自分の家で、無惨な姿で人間の嫁候補が殺されたっていう方が、より無念でしょう?——さて、無駄話は終わり。さあ、血ならいっぱいあるわよ。もう一度目覚めなさい」


 椿の鞄から取り出されたガラスの小瓶が宙を舞い、粉々に砕ける。霧のように散った血液が床を赤く染めていく。直後、マイケルが意識を取り戻し、ふたたび獣のように唸り始める。


「ここを誰の屋敷だと思っているんだい? みくびってもらっては困るねえ」


 永徳が指笛を吹く。すると突風が駆け抜けるが如く、廊下の突き当たりから手に宝玉を持った龍が飛び出してきた。龍は金色の鱗を輝かせ、体をうねらせながら蛇のようにマイケルを取り囲み、彼の体を締め上げる。


 よく見れば、それは玄関にかけられていた額縁に納められていた玉龍だった。


「笹野屋さん、この龍って…」

「俺の眷属だよ。刺繍絵の付喪神さ。——さあ観念しなさい、椿」


 冷ややかな空気を纏う永徳に、にこりと笑いかける椿。追い詰められているにも関わらず、臆する様子は微塵もない。


「永徳さん、覚えておいてくださいませ。私は何度でもこの女を襲う。守りの術なんて無駄ですわ。今回みたいに頭を使えば、いくらでも彼女に危害を加えられる。人間なんて脆いものより、鬼女の方がよっぽど笹野屋家の嫁には相応しいわ。考え直しません?」

「俺にも好みってものがあるからねえ」

「まあ、酷い」

「女性に対して乱暴な真似を働くのは好まないのだがね。これはさすがに看過できない。言い聞かせてもダメそうだしねえ」


 永徳の足元の影がみるみる膨らみ、天井まで伸びていく。音もなく影は椿に飛び掛かるが、その手は敵を捉えられずに空を掻いた。椿は薄笑いを浮かべたまま、そのまま霧のように消えていった。


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