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第41話 すれ違う想い

 マイケルを別室に移して落ち着かせ、あたり一面に散らばったガラスの破片と血液を片付けたあと。永徳は佐和子の肩に両手を置き、言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「鳥海さんはこのまま家に帰ったほうがいい」

「でも……」

「ヴァンパイアが一度血の味を思い出してしまったら、少なくとも一週間は人間と一緒に居させない方がいい。とにかく今は、この場を離れていてほしい」


 そう言われて、先ほどの出来事がフラッシュバックする。

 鋭い牙、食糧として狙われる恐怖。そして、憎しみに満ちた椿の瞳。

 指先が冷え、自分の意思とは関係なく体がカタカタと震え出す。


「わかり……ました……」


 そのひと言を絞り出すのがやっとで。顔を真っ青にして俯く佐和子の髪を、永徳は慈しむように撫でる。


「家まで送るよ」


 永徳は佐和子の肩を抱き、玄関へと促した。


 外はまだ明るかった。目の前で起こった出来事を、まだ脳が処理しきれないようで、佐和子の頭はぼうっとしている。


「背中は痛くないかい。打っていたようだけど」

「今のところは大丈夫です。少し、痛いですけど」

「人間を雇う上で、必要な安全策は講じていたつもりだったんだけど……不十分だった。本当に申し訳ない」

「笹野屋さんが謝ることはなにもありません。私こそ報告を怠ってしまい、申し訳ありませんでした……」


 お通夜のような沈黙が続く。のどかな街の風景は、あまりにも直面した恐怖とチグハグで。佐和子は夢でもみているのではないかと、自分の頬をつねりたい衝動に駆られた。


「鳥海さん」

「なんでしょうか」


 しばし間があって、永徳はふたたび口を開く。


「出会ったばかりのころ、君は自信を失っていて、今にも消えてしまいそうだったね」

「……そうでしたね」

「だがひとつひとつ壁を乗り越えて、人間ながら、あやかしの世界で活躍していった」

「活躍……までは言い過ぎです。笹野屋さんが手を貸してくださらなかったら、私はきっと、ずっとダメなままでしたし……」

「俺はほんのちょっと手助けをしただけだよ。自分を変えられるのは自分しかいない。君が変わろうとしたから、努力したから、前に進めているんだ」

「そうでしょうか」

「君はヒントを見逃さず、自分の力でゴールを見つけた。立派にひとりの社員として、仕事をできるようになった」

「……そういうふうに言っていただけて、嬉しいです」


 褒められたことがむず痒くて。恐怖で温度を失っていた頬に、少しだけ赤みが戻る。しかし永徳は気まずそうな顔で、次の言葉を口にした。


「ただ、あやかしの世界で仕事をするには、やはりさまざまな困難がある。椿についてはこちらで手を打つけれども、ふたたび命の危険に晒される可能性が、まったくないとは言い切れない」

「……それは、そうですね」


 なにを永徳が言おうとしているのか、佐和子は予想がつかなかった。言いにくそうにする彼の様子を、ただただ見守り、言葉を待つ。


「鳥海さん、君はそろそろ、人間の社会に戻ってもやっていけるんじゃないかい? あえてあやかしの世界にとどまる理由は、もうないんじゃないかな」

「え」


 歩みを止め、佐和子は永徳の顔を見上げた。


 まさか永徳から、そんなことを言われるとは思っていなくて。あやかし瓦版の編集部員としての実質上の戦力外通告を受けたようで、ショックだった。


 ——「人間としての視点を活かしてほしい」って言っていたのに。どうして今になって、そんなことを言うんですか?


「私がいなくなっても、問題ないってことですか」


 思わず、反抗するような態度をとってしまう。口にしてしまったことを後悔したが、一度出た言葉は引っ込めることができない。永徳の言い分はわからなくもない。優しい彼のことだから、佐和子の身を案じての発言だというのも理解できる。それでも永徳の言葉は、深く佐和子を傷つけた。


「会社っていうのはさ、誰かがいなくなっても回るようにできていないといけないんだ。それにほら、うちのあやかし瓦版は、地主の道楽事業なわけだから」

 編集部の一員として、力になれている気になっていた自分の、横面を引っ叩かれたみたいな気分だった。


 自惚れるなと。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだと。そう言われてしまった気がして。


 『君が辞めたら困る』


 いつか自分の今後について相談するときが来たとしたら。佐和子は、永徳にそう言ってもらえるのではないかと、心のどこかで期待していた。


 自分が頑張った成果を認めてもらって、引き止められることを。


「……実は、昔の友人から、うちの会社に来ないかって、言われているんですけど」


 ——ねえ、笹野屋さん。引き止めて下さいよ。


「そうか」

「でも……あの」

「やってみたい仕事なのかい?」

「興味が、ある仕事……ではあります」


 ——私は、あやかし瓦版の、かけがえのないひとりにはなれませんか。


「うちは大丈夫だから。ちょうど一週間あるわけだし、その期間で考えてみたら」

「引き止めて、くれないんですか」


 駄々っ子みたいな、振り向いてくれない異性を振り向かそうと必死になっているような、嫌な言い方だと思った。だけど居た堪れなくて、もどかしくて、佐和子は口にしてしまった。


 ——だって、あなたが私を誘ったんじゃないですか。あんなふうに無理やり。嫁候補だとか、大事な社員だとか言いながら、あなたが私を求めてくれたから。そのおかげで、ようやく光を見出せてきたのに。どうして今になって突き放そうとするんですか。


 佐和子は心の中でそう叫んだ。


 しかし永徳の口から出てきたのは、佐和子が求めていた言葉ではなかった。


「君の人生だ。君の仕事は、君が決めなさい」


 いつもの穏やかで優しい声の調子とは違う、温度のない声だった。


「……そうですよね」


 ——どうしよう。


「おっしゃる通りだと思います」


 ——泣きそうだ。


「……家が見えたね。俺は戻るよ。もし、辞めるのであれば、特に連絡はしなくていい。根付をポストに返しておいておくれ。退職した場合も、椿が捕まるまで身の回りの安全は守るから。そこは安心して」


 藍色の羽織は、あっという間に遠ざかっていってしまう。取り残された佐和子は、しばし呆然と、笹野屋永徳が消えていった方向を見つめていた。




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