トーナメントまであと数週間というある日。グラジオ、ロベリア両王家の交流機会として、川下りが催されることになった。グラジオで最も大きい大河の上流、流れの緩やかな場所で両国の王侯貴族たちが舟に乗る順番を待っている。

　薄手のカーテンがかけられ、たくさんの花が飾られた舟たちは、まるで水に浮く花籠のようだ。薄紫色に染まった夕暮れの中、アリシアはバーベナ姫に扮したキリヤの手をひきつつ、ガーネットと護衛の兵とともに船に乗り込む。若い二人の邪魔はせぬようにとの計らいで、この舟には他の王族も貴族も乗っていない。

　舟に腰を落ち着けると、キリヤは楽しそうにあちこちに視線をやり、用意された菓子を細かく砕くと、舟の外に撒き始めた。

「何をしているのバーベナ」

　アリシアがそう問えば、キリヤは含みのある表情で答える。

「お魚に餌をあげているの」

　ふふ、とイタズラな笑みを浮かべる「バーベナ姫」はとても可愛らしい。この人物があんなに勇ましい立ち回りをする男だとは、誰も信じないだろう。

　めんどくさいだのなんだの言いながら、彼はあれから毎晩、アリシアに稽古をつけてくれている。

「……バーベナ、近い」

「あら王子、夫婦になるのですから、こういう距離感にも慣れていかないと」

　魚に餌をやるのに飽きると、キリヤはアリシアに体を寄せてきた。

　カサブランカの香りが鼻をくすぐる。彼の香水の匂いだ。女の自分よりもいい匂いがする。だけど預けられた体にはしっかりと筋肉がついていて、異性であることを意識させられる。

　伸びてきた手がアリシアの頬に触れた。微笑みかけられれば、紫の瞳から目を離すことができない。

　アリシアが頬を染めて困った顔をすれば、キリヤは意地悪そうにニタリと笑い、顔を寄せてくる。

「このほうが内緒話もしやすいだろ」

「まあ、そうだけどさ」

　耳に囁かれる声がくすぐったい。心臓の鼓動がうるさくなり響いている。

　額にキスをされたあの日から、キリヤは隙あらばアリシアに触れてくるようになった。まるで本物の恋人のような振る舞いに、翻弄されっぱなしだ。

「アリシアは俺に触ってくれないの？」

「な……！」

　硬直して動けなくなれば、挑戦的な眼差しを向けられる。「仕事だろ、できねえのか？」と言われている気がした。

　キリヤがやったように頬に触れようと手を伸ばす、が。恥ずかしさに負けて手を下げた。

「あははは、あんたを揶揄うの、ほんと面白い」

「今キリヤが執事姿だったら、頭から酒をかけてる」

「こええよ」

　気を紛らわそうと川の方に目を向ければ、花に彩られた他の王族が乗った舟が幾つも川面を滑って行くのが見える。小舟に乗ったランプが朧げな光で辺りを照らし、幻想的な風景を演出していた。

「アラン様。今宵は月が綺麗ですね。最高級の果実酒を用意させましたの。月を眺めながらお召しになりませんか」

　周囲へのアピールのため、そう女声で言うキリヤに、極力王子を意識した返答で応える。

「……もらおう」

　だがやはり違和感があるらしい。目の前にいる彼は頬を膨らませ、必死に笑いを堪えている。

　自分が姫で、彼が王子だったら、もっとロマンチックだったのにな、とアリシアは思う。ノアのせいで男性とデートをする機会は一生奪われてしまったが、本当なら一度くらい甘酸っぱい体験をしてみたかった。

　一瞬、ドレスを着た自分と、男の姿で正装をするキリヤの姿が浮かぶ。手を繋いで、音楽に合わせて踊り、会話を楽しむ。そして——そこまで想像したところで、恥ずかしくなった。

「ねえ、なんで顔真っ赤なの。まだ酒渡してないけど」

　ついに頭がおかしくなったか、と言うキリヤからアリシアは顔を逸らす。

「し、知らない！」

　細かな金の装飾が入ったガラスのワイングラスに、赤い果実酒をガーネットが注ぐ。それをキリヤが受け取ると、彼は何を思ったか、手を滑らせたふりをしてグラスを川に落とす。

　ギョッとして船から身を乗り出せば、撒かれた餌に釣られて集まってきていた魚たちが、腹を見せて水面に浮き上がってきていた。

「毒だな」

　ボソリとそう言ったキリヤの言葉に反応し、アリシアも小声で答える。

「えっ！　お酒で死んだんじゃなくて？」

「酒で即死はねえだろ。相当強い毒が入ってたんだと思う。あぶねー。このままあんたに飲ませてたら、俺が殺人犯になるところだ」

「いったい誰が……」

　酒をついだのは同じ舟に乗っているガーネットだ。だが彼女はキリヤの協力者である。ではグラスを用意した人間の仕業だろうか。眉間に皺寄せ、頭を捻りながら、ふと視線を川岸に向けた、その時。

「バーベナ、伏せて！」

　弓を構えた男がこちらを狙っているのが見えた。咄嗟にアリシアは足を舟縁にかけ、剣を抜く。直後に飛んできた弓矢を、全身の神経を集中させて薙ぎ払った。

「川岸の木の上に怪しい男がいる！　弓矢を持っているぞ！」

　アリシアがそう叫べば、慌ただしく兵士がその場に向かっていく。

　不審者はすぐに捕まったが、捕えられた男は毒を飲んでおり、尋問をする前に死んでしまった。

　そして悪いことに、男はロベリアの鎧を纏っていたのだ。