——一刻も早くキリヤに情報共有しないと。
人目を気にしながら庭園を抜け、バーベナ姫の部屋へと急ぐ。彼の部屋に続く廊下を守る警備兵たちはなんの疑いもなく通してくれる。が、時間がもう真夜中に近いだけに、枕を共にするために部屋を訪れるのだと思われたのだろう。アリシアの足音が遠のくと、こそこそと話をする兵たちの声が耳に入る。
——……ちょっと心外だけど、まあこれも仲良しアピール作戦だと思えば……。
いよいよ部屋に到着しようというその時、部屋の中からガーネットが出てきた。「内密の話で」と言えば、扉を開けてくれる。
「バーベナ様、アラン王子殿下がお見えです」
「ふああああ、え? アラン王子?」
部屋の中から寝ぼけた掠れ声が聞こえ、すぐさま入室の許可が出た。
「私はこれにて下がります。何かありましたら隣室におりますので、およびいただければ」
「へーい」
ガーネットと入れ替わりに中に入れば、すでに彼はベッドの上にいた。
銀髪を下ろしたままの彼は眠たげで、光沢のあるシルクの夜着を纏っている。花柄があしらわれた中性的デザインのもので、フリルやレースなどは付いておらず、バスローブのような形をしていた。
「なんだよ夜這いかよ。今日は枢密院があるから特訓はないはずだろ?」
「ち、違うよ! ただ、ちょっと話したいことがあって」
「この時間に、話したいこと?」
この格好だと、彼はれっきとした男に見えた。それも妖艶で、これまで出会ったことのない色香を纏った男。彼はあとずさるアリシアを追い詰めるように、一歩一歩こちらに向かってくる。
流れるような銀髪はまだ少し湿り気を帯びていた。気づけば背中が部屋の壁にあたり、もう逃げられなくなっている。
ニヤリと笑うキリヤに動揺する。
いつもと変わらない表情のはずなのに、その奥にはまだ見ぬ獣が潜んでいる気がして。
「な、なに……?」
「じっとしてて」
カサブランカの香りに包まれる。髪につけた精油だろうか。思わず見惚れてしまうような優しい笑顔を向けられた直後、額に、頬に唇が落とされ、否応にも体温が上がっていく。親指の腹で頬を撫でられ、「ひゃう」と変な声が出た。
「照れてんの? 可愛い」
これまでの人生でこんなに熱のこもった眼差しを受けたことはない。耐えきれなくなってぎゅっと目をつぶれば、はぁ、というため息が聞こえた。
「アリシア、よく覚えておけよ。こんな夜中に男の部屋に自分から飛び込んできたら、盛った狼にガブリとやられちまうんだぞ」
「え」
彼の紫色の瞳が、視界から消える。
無駄なく筋肉のついた腕に優しく抱きしめられ、鼓動が駆け上がる。
形のいい彼の唇はアリシアの首元に埋められ、微かに息遣いがアリシアの細い首に当たった。
「あ……」
ドキドキが止まらない。まさかこんなことになるなんて思いもよらず、頭は混乱の頂点に達していた。
「……くせえ」
「……え?」
色っぽい雰囲気をぶち壊すような言葉に、アリシアは目を見開き、呆気に取られる。
キリヤは両腕をアリシアの背に回したまま、顔を離し、顰めっ面を向けてきた。
「アリシア、お前なんだか、おっさんくせえ。あと微かに雑草の匂いもする」
「それはだって、今まで枢密院のコワモテのおじさんたちとずーと密閉された部屋にいたんだもの! 急いでくるために庭園を突っ切ったし!」
ドキドキするやら、突然の侮辱に憤るやらで、あわあわしながら言い返せば、突如キリヤに小脇に抱えられ、丸太のように運ばれる。
「とりあえず風呂入ってこい。話はそれからだ」
「ええええ! ここで?! いいよ、自分の部屋で入るからっ」
戸惑うアリシアを無視し、キリヤはアリシアをバスルームに押し込む。
「まだ夜は長いだろ。おっさんの匂いは洗い流せ、いいな」
ドア越しに言われた不穏なキリヤの言葉に、アリシアは口をパクパクと動かす。
——単に急ぎの話をしにきただけなのに!
しかし、おっさんくさいという言葉のダメージは大きく、アリシアは素直に服を脱ぎ始めるのだった。
・・・
「……ふ、あはは」
一人部屋に残ったキリヤは我慢の限界を超えたように笑い出す。
「からかい甲斐のあるやつ」
ベッドに両手両足を広げて倒れ込むと、天蓋を見上げながら深呼吸をした。
「と言いつつ、あんまりからかうのも良くないな。あいつは大真面目なんだし」
——でもなあ、どうしてもかまいたくなっちゃうんだよなあ。
目を瞑れば思い出すうらぶれた街並み。飢えに苦しんだ末終わりを迎えた骸、その骸から売れるものを奪おうと群がる子ども。民家のゴミ箱から腐りかけた食べ残しを盗み、苔むした甕にたまった雨水を啜る。
自由と引き換えに得た女装生活は、初めの頃は楽しかったものの、王侯貴族の実態を知るに連れうんざりしてきた。毎日どこかで貧しいものが命を失っているというのに、上級国民は美味い酒を飲み、宴に娯楽に色欲に耽っている。
さっさと仕事を終えて金をもらい、こんな世界とは永遠に縁を切りたいと思っていた。それなのに。
「この仕事が終わったら、アリシアともおさらばか」
ベッドサイドに置かれたシェリー酒に手を伸ばす。火照った頬を落ち着けるように、それを一口含んだ。