石畳の上をガタゴトと車輪が進む音が聞こえる。馬車の向かいに座るのは、麗しきバーベナ姫。絹のように滑らかな銀の髪はまとめあげられ、ダイヤモンドを贅沢に使った髪留めがその美しさを引き立てている。夕闇を思わせる濃紺のドレスには、空に瞬く星のようにキラキラと光るビーズが縫い止められていた。
——相変わらずこっちを向いてくれないなぁ。
キリヤは口をひらこうとする様子がない。窓に肘を置き、頬杖をついて横顔を見せている。
「元気だった?」
意を決して、アリシアは尋ねた。
「そっちこそ怪我の具合はどうなんだよ」
こちらは向かないものの返答はあった。ほっとしつつ、アリシアは会話を続ける。
「もう全然平気! セオドアが心配して、いまだに鍛錬場には出入りさせてもらえないんだけどね」
「ふーん」
——セオドアの名前を出したら、明らかに不機嫌さが増してる……。
キリヤとお揃いの濃紺の上着のポケットに手を入れ、小さな箱があることを確かめた。これで機嫌を直してくれるといいのだが。
「あ、そういえば、メンシスの上位騎士の体調不良のことなんだけど」
「何かわかったのか?」
これまでそっぽを向いていたのに、仕事の話には反応した。複雑な気持ちになりながらもアリシアは話を先に進める。
「コックの中に過去にベルモント伯爵の屋敷で働いていた人がいたの。でも彼がやったっていう証拠がなくて」
「泳がせてる最中ってわけか」
「そ。あと当日家の事情で欠勤した上位騎士がいてね。彼の食器に薬が残ってて」
「個人ごとに食器が違うのか?」
「ううん、上位騎士だけ食事が豪華でね、わかりやすいように食器を分けてるの」
「ほぉ、確実にメンシスで腕の立つやつを潰しつつ、トーナメント自体は続行させるために食器の方に薬を塗ったわけ」
「通常出回ってるものの五倍の強さの下剤と、嘔吐薬を混ぜたものが塗布してあったらしいよ」
「うげ。そりゃ口にした奴らは災難だったな……」
「そっちは何かわかった?」
「こっちも鏡の男に妨害の依頼をしたやつは割り出せずにいる。あとはまぁ、今日の舞踏会でベルモント伯爵の動きに注視する他ないな」
「そっかぁ」
ふたたび訪れる沈黙。馬の蹄の音と、車輪の音だけが馬車の中に響く。アリシアは下を向き、ポケットの中身を握る。意を決して顔を上げれば。
「殿下、バーベナ姫、到着いたしました」
馬車は仮面舞踏会の会場であるベアトリクス侯爵邸の馬車まわしに到着してしまった。
◇ ◇ ◇
「紳士淑女の皆様、今宵はお集まりいただきありがとうございます」
この館の主人であるベアトリクス侯爵が、ダンスホールに集まった貴族たちに挨拶を述べる。アラン王子とバーベナ姫の結婚式までの間には、王室主催の公式行事のほか、首都近郊に領地を持つ貴族たちも思い思いの催しを用意していた。今日の仮面舞踏会はそのうちの一つである。
会場に集まった人間たちは、さまざまなデザインの仮面をつけていた。キリヤは黒い蝶の形、アリシアは銀製のシンプルなデザインのものを用意している。
「誰が誰だか、遠目だと全然わからないね……」
侯爵の挨拶を片手間に聞きながらアリシアがそう呟けば、隣に立つキリヤに脇腹を小突かれる。
「黒に銀色の刺繍の上着、紫色のマスクをつけた男、あれがベルモント伯爵だ。しっかり見とけよ」
小声で話しかけてきた彼に合わせ、アリシアも声を落とす。
「よくわかるね」
「瞳の色と鼻と口の形、髪色。判断できる材料はいろいろあるだろ。仮面舞踏会はマナー上、相手が誰だかわかっても、わからない体で接しなきゃならねえ。うっかり名前を呼ぶなよ」
「はい、気をつけます……」
仕事モードに切り替わったキリヤを見て、アリシアは気を引き締める。今は個人的な感情を捨て、ベルモント伯爵の動向を探らねば。
「あんたにはわからなくとも、ここにいる人間はアラン王子だってわかってる。仮面舞踏会という無礼講の場を利用して、アランに近づこうとする人間もいるはずだ」
そう言われてあたりを伺えば、こちらにチラチラと視線を送る女性たちの視線に気づく。それ以外にも男性が何人か。
——女性は妾の座でも狙っているのかな。男性は仲良くなって便宜を図ってもらいたいとか? あとは——。
あの中に暗殺者が紛れ込んでいるとか。
その考えが頭を掠めた瞬間、顔が青くなった。
踊っている最中などに狙われては、なんともできない。
アリシアの考えを察したのか、キリヤはからめていた腕をひく。
「安心しろ。トーナメントの件もあって警備は万全だろ。それに王子暗殺を企む奴らの狙いは戦争の火種を作ること。誰が殺したかわからないような状況下で暗殺してもロベリアに責任はなすりつけられない。あんたが急に刺されることはねえよ。とにかくベルモントを見失うな。密談するにはうってつけの機会だからな」
今日の舞踏会にも、ロベリアの貴族や騎士が招待されている。ベルモント伯爵が協力者と接点を持つ可能性があった。
楽師たちが楽器を手にし、切なげなヴァイオリンの音が会場に響き渡る。今夜の一曲目はワルツ。ファーストダンスはパートナーと踊るのが決まりだ。アリシアはキリヤの手を引き、腰を抱く。体を寄せ合うと彼の首筋からカサブランカが香った。
体が触れるとわかる。この人は男なのだと。
レースの手袋に隠れた手のひらが本当は力強いことを、他の誰も知らない。一見女神のようなかんばせには人を惑わす妖艶さがあり、少しでも油断すればすぐにからめ取られてしまう。
魅力的で、危うい人。しかし彼と踊るワルツは心地よく、誰といるよりも安心感をもたらしてくれる。
キリヤが顔をあげ、アリシアに視線を合わせた。胸の奥がぎゅっと掴まれたように切なくなる。
ずっとこうして体を寄せていたくなる。一線を超えて、触れてほしいとも。
こんな気持ちがあることを、キリヤという人物に出会って初めて味わっている。
仮初の婚約者に、女装した男に、こんな感情を持つのは間違っているのかもしれないけれども。
——いけない、いけない。今は仕事中。キリヤにドキドキしている場合じゃない。
曲が終わる。名残惜しさを感じながら、体を離す。
ダンスを終えても、なかなか手だけは離せないでいた。
「パートナーをお借りしても?」
キリヤの体を押し除けるようにして、三人の女性を引き連れた淑女がアリシアの前に進みでた。
「無礼にも程がありましてよ」
こけてしまいそうになるのを踏みとどまった彼が、ワイン色のドレスを着た女性を睨み上げた。
「あら、わたくし何か失礼をしまして? これは申し訳ございません」
眉尻を下げ、淑女は膝を折って形だけの詫びをしたかと思えば、ふたたびアリシアの方へと向き直る。仮面をつけていてもわかる。可愛らしい人だった。小鳥の囀りのような声、滑らかな白金の髪。夜明けの空のような瞳が細められる。
「結ばれるはずだった麗しい方に、とても似ていらっしゃるの。居ても立ってもいられず御前に急いで参りましたので、周りが見えていなかったのかもしれませんわ」
可憐に微笑んだその顔を見て、アリシアはこの人物が誰だったかを思い出す。
たしかバーベナ姫をグラジオに迎える日、声をかけられた記憶がある。たくさんの令嬢と言葉を交わしたので、ほとんどの人物の顔と名前は一致していない野田が。彼女は印象的だった。なぜなら号泣していたから。
——アラン王子の結婚相手の最有力候補だった人だ! たしか名前は、スカーレット・モルダウ公爵令嬢。