目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第35話 月明かりに照らされて

 自分の部屋に戻ったキリヤは、熱いため息を吐く。

 あのままアリシアを押し倒して、メチャクチャにしたい衝動をなんとか堪えてここまで歩いてきた。


 苦しいほどの劣情を体に押し留め、ひたすら眠ることだけを考えて目を瞑る。


『生きていたか。ならば国の役に立て』


 いつだか聞いた、ロベリア王の言葉が脳裏に蘇った。


 路上での過酷な生活を生き抜き、ようやくキリヤが劇団という自分の居場所を見つけたとき。父親の代理人だという人間が彼を金で買った。その父親がロベリア王。使用人であった母を戯れに孕ませ、王宮から追放した人でなしだ。


親というのは、自分を愛してくれる、素晴らしい存在なのだと信じていた。否、そう信じていないと生きて来られなかったのかもしれない。頑張ってこの不条理な世界を生き残ったら、いつか再会して、頭を撫でてくれるものだと心のどこかで思っていた。


しかし現実は甘くなかった。

戦争に負け、立場の弱いロベリアは、娘を人質として差し出すことになる。だが正統な娘の命を危険に晒したくない王は、いらないと捨てた子どもを探し出し、身代わりに仕立てようとしていた。

ドブネズミはどこまでいってもドブネズミ。使われて捨てられるだけの駒なのだと知って、キリヤは過去の夢見がちな自分を笑い飛ばした。


——だったら、どこまでも利用して、金と自由を手に入れてやる。


そう決意してここまでやってきた。


仮初の結婚相手として現れたのは、王子ではなく、腕っぷしの強い平民の女。

アリシアと名乗った彼女は、どこか抜けていて愛嬌のあるやつで。運命に翻弄され、文句は垂れつつも、人のために命をかけられるやつだった。


そして彼女の守りたい人間の中には、いつしかキリヤも入っていた。笑い、ふざけ合い、心配しあう人間がいることが、ここまで幸せなものだとは思わなかった。


あそびならいくらでも甘い言葉を吐けるのに。

本当に欲しい相手には酷いことを言ってしまう。傷つくのが怖くて、拒否されるのが怖くて、自分から遠ざけてしまう。


——でもこのまま別れたら、きっと後悔する。


ベッドの上で、キリヤは目を瞑る。

窓の外では流れ星が空を駆っていた。


◇ ◇ ◇


 仮面舞踏会の翌々日、アリシアはイブに来賓用の客室に連れて行かれた。扉を開いた瞬間、部屋の中央に置かれたトルソーが着ているものを見て仰天する。


「わぁ……」


「流行のレースを使ったドレスですね。非常にセンスの良い職人が仕立てたものかと」


 よく晴れた青空を思わせるオフショルダーのドレスには、精緻な花柄模様の白いレースが肩まわりにふんだんに使われている。ウエストの切り替え部分からはボリュームのあるスカートが広がっていて、裾にもレースがあしらわれていた。


「これ、どうしたの?」


「……心あたりはございませんか?」


「え」


「セオドア様も結婚式の前だというのに、どういうつもりでしょう。こんな格好でアラン様を連れ出そうとされるとは」


「これを、私が着るの?!」


「そうメモで言付けをいただいております。夜八時にお迎えが来るそうなので、急ぎませんと」


 ——セオドアじゃない。これはきっと、キリヤだ。


 王子にドレスを着せるなんていう奇想天外な仕事に人手を手配することはできないと、イブはせかせかと一人で準備を始めた。アリシアは促されるままに風呂に入り、コルセットを締め上げられ、彼女の手腕によりみるみるうちに女性へと戻っていく。


「ふう、できました。なんとか間に合いそうです」


「これ、私……?」


 鏡の前に立たされたアリシアは、息を呑んだ。

 綺麗に巻かれた金色の前髪に、桃色の頬。ドレスに使われているのと同じレースをあしらった髪飾りが可愛らしい。短い髪には付け毛がつけられ、腰まである長髪になっていた。


「お顔立ちはもともと整っていらっしゃいますから、化粧映えがしますね。……もったいないです。女性として生きられたなら、いくらでも着飾る機会が得られたでしょうに」


 イブの言葉を聞きながら、アリシアはまだ鏡を覗き込んでいた。

 忘れてしまった女心。必死に生きてきて、王子になり代わる前でさえも着飾るなんてことは、とうに諦めていた。


「アリシア様」


 本来の自分の名前を呼ばれ、ハッと顔を上げる。


「せっかくですから、楽しんでいらしてください」


「イブ……」


 誰かがドアを叩く音がして、イブが応対に出た。お迎えです、と言われて見てみれば、見知らぬ執事が立っている。


「こちらにいらっしゃるご令嬢の案内を仰せつかりました」


 若い執事の背について、廊下を歩いていく。途中メンシスの騎士とすれ違い、ヒヤリとしたが。視線を向けられたものの、アリシアがアランであると気付かれることはなかった。


 到着したのは庭園のガゼボ。綺麗に整えられた緑の生垣、白薔薇が月明かりに照らされている。


「私はここで失礼致します」


 執事はそう言って、王宮の中へと戻っていく。

 一人残されたアリシアは、ガゼボの下に置かれているテーブルセットに腰掛けた。程なくして背後から、上品なカサブランカの香りがする。


「アリシア」


「……バーベナ?」


 振り返って驚く。ドレス姿でも執事の姿でもない。銀糸の刺繍が入った膝まであるコートに青いベスト、首元はクラヴァットで飾られている。ベストと同色のスラックスに、足元はブーツを履いていた。

 髪は地毛の銀髪を後ろで結っていて、胸元にはロベリア王家の紋章が刺繍されたエンブレムが飾られている。


 まるでロベリアの王子かのような姿のキリヤが、そこには立っていた。


「ど、ど、ど、どうしたの、そのカッコ。カツラは忘れちゃったの?」


「きっちり整えてきたのに、初見の感想がそれ? かっこいいとか素敵〜とかないわけ?」


「あっ、ごめん。すごくかっこいいと思う、けど」


 バーベナ、いや、今はキリヤと言う方がしっくりくる。

 ひさびさの男装姿を前にして、繁々と観察してしまう。

 彼がトーナメント以降に見せてきた不機嫌さは、すっかりなりを潜めている。アリシアは手に持ってきた箱に視線を落とす。


 ——なんだ。もう機嫌なおったんだ。いらなかったなあ、これ。


「なにそれ」


「トーナメントからずっと機嫌悪かったでしょ。だから、どうにか仲直りできないかなって思って。あと、少しでお別れだし……キリヤにプレゼントを用意してたんだ」


「……俺に? アラン王子からってことで、バーベナ姫あてのペンダントは受け取ったけど。あれとは別に、『俺』に?」


「うん。城下町まで行って買ってきたの」


「……セオドアと?」


「なんで知ってるの?」


「マジかよ」


 ヘナヘナとその場にしゃがみ込み、キリヤは頭を抱える。


「俺はてっきり、デートだと思って」


「まさか! あ、やっぱりあのレストランにいたの、キリヤ?」


「そうだよ! たまたまあんたたちが出かけていくのを見かけて、気になってつけてったんだよ。トーナメントの後、セオドアが告白してから、うまくいっちゃったんじゃないかと思って、俺超焦って」


「そんなわけないでしょ。セオドアはあくまで仕事仲間。突然あんなふうに告白されて、急に男として意識なんかできないよ。っていうか、なんでキリヤが焦るの?」


「……あんた、鈍すぎじゃね?」


 キリヤはそう言って、アリシアの手から箱を奪う。


「ちょっと! 渡す前にひったくる? 普通」


「いいだろ、俺のなんだから」


 リボンを解き、中身を見た彼は頬を綻ばせた。


「男物、の懐中時計か」


「それは私の個人的なお金で買ったものだから、その、あまりいいものは買えなかったんだけど」


「すげー嬉しい」


 グッと腰を抱き寄せられ、キリヤの腕に包まれた。


「あ、あの、キリヤ、ちょっと近すぎるよ。この間も馬車の中で突然あんなこと」


「やだ、離さない」


「仲良し作戦はやめたんじゃないの?」


「仲良しのふりはやめた」


 腕が緩められ、見つめ合う形になる。宝石のような紫の瞳がアリシアをうつす。

 男の格好でこんなことをされたのは初めてで。恥ずかしくて顔を逸らそうとすれば、「こっちを見て」と囁くように言われた。


「仲良しのふりはやめたって、どういうこと?」


 アリシアの言葉に、キリヤの顔が花のように綻ぶ。何かに降参したような、気が緩んだ表情だった。


「俺、アリシアのことが好きみたいなんだよね。まっすぐでお人好しで、誰かのために一生懸命になれるあんたが」


「え」


「セオドアに取られそうになって、自分の気持ちに気づいたんだ。……どんな顔してアリシアと顔を合わせたらいいかわかんなくなっちゃって、あんたと距離取ってた。ごめん」


 紅潮したアリシアの頬にキリヤの手が添えられる。近くで見る陶器のような彼の白い肌も、薄く桃色に染まっている。


「言わずに黙って去るべきかとも思った。あんたはここに残る選択をしたから」


「キリヤ……」


「でも言わずにはいられなくなったんだ。あと少ししか一緒にいられないって思ったら。身代わりの姿じゃなく、本来あるべき姿で。あんたに思いを伝えたくて」


 すぐそばまで来た彼の鼻が、アリシアの鼻に触れる。


「嫌なら逃げて」


 彼の目が細められ、長く白いまつ毛が見えた。

 甘くとろけるようなささやきに、アリシアの体は縛られる。


 ——拒めないよ。だって私も好きだもの。


 普通に会話ができなくなって寂しかった。

 いつものからかいが恋しかった。


 こうして触れ合って、愛されたかった。

 できるなら本物の愛情を交わし合って、仮初の関係を捨てて、恋をしたかった。


「アリシア、好きだよ」


 あたたかな唇が、アリシアのそれに重ねられる。

 穏やかな風が、庭園の白薔薇を揺らしていた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?