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第36話 口付け

 優しい口付けが繰り返され、キリヤの息遣いが間近に感じられる。

 クラクラするような熱に浮かされ、アリシアの瞳は潤み、心臓は早い鼓動を繰り返す。


 キリヤの息は荒く、獰猛な獣のような劣情を抑えているようだった。

 彼は一度唇を離すと、アリシアの額に口づけ、自分の胸に抱き寄せた。


「アリシア」


「なに」


 体が熱い。酒にでも酔っているかのように頭がふわふわした。


「あんた本当にここから逃げる気はない?」


 そう問われてアリシアは、言葉に詰まる。


「私は……」


 投げ出せればきっと楽だろう。自分の幸せだけを追い求めて、キリヤと逃げられたら。

 しかしアラン王子の身代わりについては、探し出すまでに相当な苦労があったと聞いている。女であるアリシアを身代わりに立てたのも、土壇場での苦肉の策であった。アリシアがいなくなった後、簡単に別の身代わりが見つかるとは思えない。


 結婚式とともにキリヤも国へ帰り、本物のバーベナ姫がやってくる。彼女が来るまでに身代わりが用意できなかったら、どうなってしまうだろうか。


 ——私が結婚式の後突然消えたら、せっかくここまで気付きあげた和平への道筋が、全部ダメになっちゃう。


「やっぱり逃げられないよ。だって、戦争で大事な人を失う人たちを、もう、出したくないもの」


「そっか」


 彼の腕に力が入る。離したくないとでも言うように。


「あんた、やっぱりドレスのが似合うよ。やっぱ女の子だ」


「そ、そうかな……」


「もうちょっとこのままでいさせて。もうちょっとだけ」


「うん……」


 ——私も好きだって言えたらいいのに。


 でも言ってしまったら、決意が揺らいでしまいそうになる。女性としての人生に戻りたくなってしまう。


 キリヤの体温を感じながら、アリシアは束の間の幸せを噛み締めていた。


 ◇◇◇


「さっきの令嬢、誰だろうな?」


「ああ、あの水色のドレスの子だろ? すごい美人だったよな」


 詰め所に戻ってきた騎士たちの雑談にセオドアは苦い顔をして振り向いた。


「お前ら、ちゃんと仕事をしていたんだろうな」


「副団長!」


 二人の騎士は慌てて胸に手を当て、真面目な顔をする。


「見回りを終えて戻って参りました! 異常なしです!」


「令嬢がどうとか言っていたが?」


 栗色の癖毛の団員が相貌を崩す。


「あ、副団長も気になります? それがすごい美人な子で」


「この時間帯に令嬢が廊下を彷徨いているのがまずおかしいだろう!」


 メンシスの団員たちは優秀だが、こと女に甘い人間が多い。セオドアは苛立ちを抑えながら二人を睨みつけた。


「いえ、陛下のことですから、もしかしたら愛人を部屋に呼び寄せたのかも、と」


 黒い長髪を後ろに結った団員がそう言い訳をする。たしかにグラジオの王は女癖が悪い。若い令嬢に手を出すことは珍しくなく、使用人に手を出すことさえあった。


「そうであったとしても! まず声をかけて身元を確認するべきだっただろう! 全く、何のための見回りだ」


「も、申し訳ありません!」


「で、どんな女だった?」


「水色のドレスを着た方で。そうですね……顔立ちが王子殿下に少し似ていたかもしれません」


 王子殿下、という言葉にセオドアは片眉をあげる。


「どちらのだ?」


「アラン王子殿下です」


 ガタン、と大きな音を立てて、セオドアは木製の椅子から立ち上がった。突然険しい顔で立ち上がった上長を前に、二人の騎士は背筋を伸ばして直立する。


「ちょっと出てくる」


「じ、自分たちもついていきます!」


「いや、いい。私だけで十分だ。お前たちは報告書を書いておけ」


 ——アリシア様? なぜ女性の姿でこんな時間に外出を……?



 セオドアは回廊を早足で進んでいく。深夜ということもあり、人通りはほとんどなく、両壁に灯された燭台の炎が廊下を照らしている。


 ——あいつらの証言によれば、彼女はこの辺りを歩いていたということだが……。


 アリシアの姿を探しながらセオドアが思い出していたのは、彼女が購入した懐中時計。


 「友達と仲直りをするためにプレゼントを買いたい」と彼女から聞いた時は、てっきりバーベナ姫への品を見繕うのだと思っていた。だが、あの時計はどう見ても男物。つまり、セオドア以外に、喧嘩ができるほどに親しい男がいるということ。


 彼女がドレスを着て王宮内にいたとすれば、その男に会うために着飾っていたのかもしれない。それはその男が、彼女が女であることも知っているということだ。


 ——いったい相手は誰だ? いや、まだアリシア様であるとは決まっていないが。あいつらの言う通り陛下の愛人である可能性も……。


 廊下の突き当たりまで来てみたが、アリシアの姿はなかった。この近くには来賓用の客室もあるが、確証もなく中を改めることはできない。


 ふと、ガラス窓の外、庭園のガゼボが目に入る。


 ——もしや外に出られたのでは。


 早足で庭園に歩を進めたセオドアは、紅薔薇のアーチをくぐり、緑の生垣を抜け、咲き誇る白薔薇に囲まれたガゼボに目をやった。


「アリシア様?」


 ガゼボには人影があった。しかしセオドアの呼びかけには応えない。アリシアではないようだ。


「誰だ」


「おお、あんたか」


 かすれた男声。どこか聞いたことのある声だが、王宮の人間では思い当たらない。

 セオドアは素早く剣を抜き、警戒体制に入る。


 男がゆったりとした動きでガゼボから出てくる。月明かりに照らされたのは、銀色の髪。にこりと笑ったその顔を見て、セオドアは硬直した。


「バーベナ、姫? いや、お前は」


 顔立ちは見慣れたバーベナ姫のもの。しかし化粧をしていない彼女の顔は、どう見ても女のものではない。それに。


「あのレストランにいた少年……? なぜお前がここに」


 紫色の瞳。勝気で生意気そうな笑顔。「おっさん」と呼ばれた恨みは忘れてはいない。


「ご名答。ちょうど良かった。あんたと話がしたかったんだよね。呼び出す手間が省けた」


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