エリカが微笑みながら、優雅な足取りでこちらに近づいてくる。
「ありがとう晃生くん。後は私に任せてね」
「おう」
エリカが小さく呟く。俺は頷いて一歩下がった。
彼女の手にはスマホが握られていた。俺が気づいていた時にはすでにカメラを向けている様子だったし、先ほどまでのやり取りはしっかり録画されているのだろう。
「エリカさん! 聞いてくれよエリカさん。やはりこいつはとんでもない乱暴者だよ。これを見てくれ。僕のボディガードがこいつに暴力を受けたんだ。この男は犯罪者の悪党だったんだ! こんな奴と一緒にいちゃあいけない。僕が保護してあげるから早くこっちに来るんだ!」
腰を抜かしているのか、西園寺が立とうとする様子はない。それでも気にせず両手を広げる。え、「僕の胸に飛び込んで来い」とでも言っているつもりか?
というか、さっきまでのやり取りでどうやったら俺だけを犯罪者にできるってんだ? 状況を正しく説明すれば、むしろ立場が危うくなるのは西園寺の方だと思うのだが……。
どう考えているのか興味はあるが、面倒な返答しかなさそうで嫌だなぁ。俺はくっついている羽彩の肩を抱きながら、西園寺から距離を取った。
「ええ、しっかり見ていましたよ。タケルさんがとんでもないことをしでかした、その一部始終をね」
「……え?」
西園寺がぽかんと気の抜けた顔をする。エリカは構うことなく、微笑みながらスマホの画面を奴に向けた。
スマホの画面に映し出されたのは、先ほどまでの俺たちのやり取りだ。第三者視点の動画に、さすがの西園寺も自分の失言に気づいたのだろう。奴の顔がみるみる青くなっていく。
「な……なっ……なあああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
「大人が高校生相手にこんなことをして……。私は恥ずかしく思います。この映像が出回れば、世間はタケルさんをどう思うでしょうね?」
エリカは微笑みながら西園寺を追い詰めていく。なんだかとっても楽しそうに見えるのは気のせいかな?
「いや……いやいやいやいやいや! 冗談が過ぎるよエリカさん! 君は一体何を言っているんだいっ。僕に……君が僕の父に逆らえるはずがないだろう!!」
青くなっていた顔が一気に赤くなる。西園寺も忙しい奴だな。
「そうでしょうか? この動画があれば、あなたのお父様は私を信じてくださるでしょう。会社に不利益をもたらすあなたよりも、ね」
西園寺は口をパクパクさせるが言葉にならない様子だった。
「ま、待て……っ。そんな動画だけじゃあ証拠にならないね! 編集したという可能性がある。音声だって小さいし、これだけで僕が何かやったという証拠になるわけがないっ!!」
西園寺は苦し紛れに大声を張る。だが、自分の言葉が正しいと思ったのか、段々と余裕を取り戻していく。
「そうだよ。それだけで僕が犯罪者になるわけがないんだ……。僕に失敗なんてあるはずがない。多少のことならお父様がもみ消してくれる……。だからエリカさん。そんなことをしても無駄なんだよ。早く目を覚ましてくれ! 君は下民どもに悪影響を受けてしまったせいで、そんな心にもないことを口にしているだけなんだ!」
「……」
西園寺の言っていることは滅茶苦茶だった。というか下民って……。単語だけで奴の常識のやばさが伝わってくるぞ。
これにはエリカも呆れを通り越してしまったのだろう。微笑んだまま固まってしまった。
わかるぞエリカ、奴は言動が支離滅裂というか、もう強烈としか表現できないんだもんなぁ。
「ねえ晃生。アタシこの人が言ってることわかんないんだけど。それってアタシがバカだからなの?」
「大丈夫だ羽彩。俺もわからん。それにお前はバカじゃないから安心しろ。少なくとも目の前で意味不明なことを喚き散らしている男よりはな」
俺と羽彩は残念な気持ちで西園寺を眺めていた。これほど誰かと気持ちが一致しているのを実感するだなんて、なかなかないことだった。
「ちなみに、私も動画を撮っているわ」
「……え?」
日葵がニッコリ笑いながらスマホを取り出してみせる。思わぬ方向からの反撃に、またもや西園寺はぽかんとしていた。
『ふ、ふふっ。ついに本性を現したな! やはりこんな不良が傍にいるとエリカさんに悪影響を及ぼす。おいっ、この世間知らずの不良を痛めつけてやれ!』
日葵がスマホを操作すると、はっきりとした西園寺の声が聞こえてきた。しかも黒服が俺を殴った音までしっかり録れていた。
「うん、音質もバッチリね。私は近い距離だったから会話の内容も間違いなく撮れているわ。もちろん最初からね」
「な……な……っ」
西園寺がわなわなと震える。顔色は青へと戻り、唇が紫色になっていた。表情からは一切の余裕がなくなり、ただ怯えているだけの男の姿に映る。
「エリカさんと私の分。それから羽彩ちゃんが録画しているものも含めれば、動画の証拠は三つ。これを全部編集したという方が無理があると思うわ」
「「えっ!?」」
羽彩と西園寺が驚きの声を上げる。……羽彩は動画を撮っておくという発想そのものがなかったらしい。
西園寺は驚きすぎて羽彩の反応に気づかなかったようだ。証拠が多すぎる。自分の発言ではこの状況をひっくり返せないとわかったのか何も言えない様子だ。
西園寺はならばと、状況を無視して相手を陥れようと声を上げる。
「ひ、卑怯だぞ! こんなの僕をはめるための策略じゃないか! これだから底辺は考え方が腐っている!!」
「何を言っているの? 迷惑も考えずにここに来たのはあなたの方じゃない。私たちはただ正当防衛をしているだけよ」
「くっ……この下民がああああああああああぁぁぁぁぁぁーーっ!!」
西園寺が鬼のように顔を歪ませながら叫んでも、日葵は涼しい顔をしていた。肝が据わった女だぜ。まあ野坂の件で場慣れしたってのもあるんだろうけども。
「ありがとう白鳥ちゃん」
「エリカさん?」
エリカが日葵の肩を叩き、尻もちをついたままの西園寺に近づく。奴の目の前で屈んだ彼女は、いつの間にか表情を消していた。
「あなたがもっと話のわかる人なら、私も心を開いていたかもしれません。でも、そういう人ではないとわかってしまったから……。私はあなたとの婚約破棄を要求します」
「え……? エリカさん……な、何を?」
西園寺の言葉を無視して、エリカは淡々と続ける。
「この動画が世間に公表されれば、優秀なあなたならどうなるか予想がつくでしょう? 事を荒立てたくないのなら、婚約破棄に同意してください。それだけが私の望みです」
エリカはこんな奴にでも情を与えるらしい。彼女はとても優しい女性だから。
だが、そんなエリカの思いに気づかないのが西園寺だった。
「聞いてくれエリカさん! 僕は君に初めて出会った時から恋に落ちていたんだ! エリカさんが大切だっただけなんだ。僕が行き過ぎたことをしてしまったというのなら謝ろう。だけど、婚約を破棄するのだけは考え直してくれないか? 悪いところは直す。約束しよう。僕はエリカさんを──」
「黙ってください」
「……っ」
まくし立てる西園寺を、エリカは一言で黙らせた。
しばらく沈黙が続く。俺たちも身じろぎ一つできない、そんな冷たい雰囲気に満ちた時間が流れた。
「ぼ、坊ちゃん……」
起き上がれる程度には回復したのだろう。黒服の男が腹を押さえながらよろよろと西園寺に近づく。
また奴の命令で襲いかかられたら面倒だ。羽彩を下がらせて、俺も前に出る。
「……帰るぞ」
「い、良いのですか?」
「うるさいっ! 僕に意見するな!」
「も、申し訳ございません!」
西園寺は黒服の男に立ち上がらせてもらって、支えられながら車に乗り込んでいく。ドアを閉める間際に、西園寺はエリカに言葉をかけた。
「……お父様に、話をしておく」
「お願いします」
黒塗りの車が去って行く。視界から消えて、ようやく俺たちの緊張が解けたのであった。