幼い頃、郷田晃生は音無夏樹を助けた。
それはヒーローの真似事からの行動だった。けれど、それが理由のすべてだったわけではない。
「可愛い……」
白いワンピースに麦わら帽子の女の子。夏の日差しに照らされている彼女が、お嬢様然とした雰囲気もあって、郷田少年には眩しいほどに輝いているように見えたのだ。
まだまだおませな年頃の初恋だったのだろう。いつも彼女を目で追っていたから。微笑ましいほどの純粋さのある恋心であった。
──だからこそ、成長した彼女があの頃と同じ格好で接触してきた時は、郷田晃生は胸をかきむしりたい衝動に襲われた。
心を閉ざし、記憶の蓋を閉ざし続けた。威嚇するような態度も、こいつなりの防衛反応だったのだろう。
◇ ◇ ◇
音無夏樹を助けた。その後の結末を思えば、郷田晃生の対応も仕方がないのかもしれない。
初恋とはいえ、幼い頃のものだ。まともに物心もついちゃいないような子供の頃。ノーカンにしていいレベル。
ただ、まだ純粋だった頃の記憶を思い出してしまったせいで、少しだけ音無先輩を特別に見てしまっている。
ただそれだけの話だ。わざわざ口にするような気持ちでもない。郷田晃生も、それだけは知られたくないようだしな。
「この間は、悪かったな」
「え?」
「アンタがうちに来た時のことだ」
「あ……」
あの郷田晃生が記憶に蓋をしてしまうほどの出来事だったのだ。急激に流れ込んできた記憶と気持ちに、正常でいられる余裕はなかった。
だからってわざわざ音無先輩を傷つける態度を取る必要はなかった。そのことについては、謝っておいた方がいいだろう。
あくまで、俺の家族の問題なんだからな。
「で、音無先輩の話って何なんだ? 先に言っとくが、まだ俺に申し訳ないって気持ちがあるって話なら聞かねえぞ」
難しく考えるのはやめよう。どんな女でもフラットに接する。それが俺ってもんだ。
「わかっているさ。これから話すのはもっと根本的な、私が君に抱く気持ちだ」
音無先輩は祭りの灯りを見下ろす。
黙っていれば幼い頃の彼女の面影があった。だからと言って恋心が再燃する、なんてことはない。
思い出しただけの初恋に何の意味もない。「そんなこともあったな」と軽く流せる程度のことだ。
まだ下の毛も生えそろっていない年頃のこと。恋だの愛だの語るのは、大人の毛が生えそろってからにしてもらいたいもんだ。
「私はね、郷田くんのおかげで変われたんだよ」
でも、彼女にとってはノーカンだと流せるものではないのだろう。
「君のことをヒーローだと思った。輝いて見えたんだ。私も、ああなりたいと思った」
「あんなの、ヒーローごっこをしていただけだ」
俺の吐き捨てるような言葉にも、彼女は小さく笑って続きを口にした。
「まずは大人しすぎる性格を変えたよ。男の子に言われたい放題だった自分を変えて、反撃できるようになった。自分の能力と立場の使い方を覚えていったんだ」
音無先輩は静かに笑う。表情は可愛らしいものだってのに、ゾッとするような迫力があった。
「次第に私に危害を加えようという人はいなくなったよ。子供の社会ではあったけれど、確かに私は頂点に君臨していたんだ」
「あまりヒーローっぽくは聞こえねえな」
「そうだね。でも、私がなりたかったのはみんなのヒーローじゃないんだ」
彼女の瞳に射抜かれる。郷田晃生でさえ、意識を保つために力を入れなければならないほどの意志が込められている。
「郷田くん。私は君の……君だけのヒーローになりたかったんだ」
「……」
「恩返しや申し訳なさなどの気持ちがなかったといえば嘘になる。でもね、私自身の強い気持ちがあったからなんだ。君を思う……狂おしいほどの愛がなければ、きっと今の私はいないさ」
音無先輩の目は熱を帯びていた。祭りの灯りではなく、彼女自身から発せられる熱量を表していた。
「君の力になりたい。君と繋がっていたい。君に、支配されたい……。だから郷田くんの婚約者になった。怒られるだろうとわかっていたから、外堀を埋めてから打ち明けるつもりだった」
「外堀?」
「ああ。陰のヒーローになって、君にとって都合の良い女になれば私を手放すのが惜しくなるだろう?」
「……」
自分を「都合の良い女」と称する彼女の目は、これでもかと爛々と輝いていた。
郷田晃生の婚約者になるためだけに、様々なことに手を回していただけのことはある。
こいつはどこかおかしい奴だ。
俺が、あんなにも純粋で可愛らしい女の子を変えてしまったのだ。
「俺は複数の女に手を出している。音無先輩が婚約者だったとしても、あいつらを手放す気はねえぞ」
「構わない。むしろ彼女たちの存在で君が満たされているのなら、私はそれを支援しよう」
音無先輩は両手を広げる。俺の汚い部分まで受け止めるかのように、精いっぱい大きく広げていた。
「私の目的はただ一つ、郷田くんの幸せだ。もう泣かなくてもいいように……後悔しないで済む選択をしたいんだ」
「俺の、幸せ……」
「ああ。そのためなら何でもするよ。私の能力と立場を全部使って、君を幸せにしてみせる」
音無先輩は生温い空気を思いっきり吸って、吐き出すように口を開く。
「これまで黙っていたことは謝る。勝手にしてきたことも謝る。ごめんなさい……」
「それでも」と続けた。
「こんな私だけど、否定しないでほしい。私は郷田くんが好きで、大好きで、愛しているんだ。募った気持ちはどうしようもなく膨らんでいて……私の中でいっぱいになってしまった。今更君のいない人生なんて考えられない……郷田くんがいないと、私は生きていられないんだっ」
彼女は重たい息を吐き切った。
音無先輩は目に涙を浮かべていた。不安定に、ゆらゆらと揺れている。
……過去からは逃げられない。
それは記憶に蓋をしようが変わらない。起こったことはなかったことにはならないし、それを自分勝手に変えることもできやしないのだ。
「俺は、俺の女を手放したりしねえ」
「うん……」
過去は変えられないが、自分を変えることはできる。
原作では最低寝取り野郎だった俺。
今の俺は、自分と自分の女たちを幸せにするハーレムクソ野郎だ。
ハーレム野郎は、自分のことを好いてくれる女をないがしろにしたりはしねえ。
それが、たとえ俺のことを引きずっている重たい女であってもだ。
「音無先輩のヒーローになれねえかもしれねえ」
手を差し伸べる。
初恋だったことは関係ねえ。そんなものは、今の俺にとって何の意味もないことだ。
「それでもいいのなら……俺の女にしてやる。どうしようもねえ愛ってやつを受け止めてやるよ」
「っ」
音無先輩が目を見開く。その瞬間、ヒュウゥゥゥゥゥゥゥ、と気の抜けた音が耳に入った。
「あ、ありがとう……本当に、こんな私を……受け入れて、くれて……っ」
ドーン! と大きな音が色鮮やかな光とともに発せられた。気持ちの良い音が嗚咽をかき消してくれる。
花火の光に照らされた音無先輩は、泣き顔にもかかわらず可愛かった。
過去を清算できたわけではない。
ただ、自分の中だけで抱え込む必要もないのだと知った。誰かに話して、わかってもらって、受け止めてもらっていいのだと知った。
それを両親以外の大人から教わった。
だから俺も受け入れていこう。自分の気持ちも、俺を思ってくれる、女の気持ちも、そのすべてを。
「その代わり、覚悟しろよ?」
「え?」
ニヤリと笑ってみせる。
「俺に使い潰される覚悟をな。泣いたからって許してやらねえぞ」
「ああっ♡」
おかしな男には、おかしな女が集まるようだ。
難しく考える必要はない。原作なんて、お互いスッキリするだけで幸せになっていたんだからな。