荒野に、再び静寂が戻っていた。しかしそれは、死の匂いを孕んだ沈黙だった。
私はまだ膝をついたまま、呼吸を整えようとしていた。
張り詰めた空気の中で、胸の奥がずっと震えている。体の芯まで冷たくなるような恐怖だった。
「アリア、大丈夫?」
母が私の肩に手を置く。
温かく、力強い炎のような手だ。
私は黙って頷き、立ち上がった。
「あいつが言っていたこと、聞いたわね?封印が、崩れつつあるって」
「・・・うん」
私は答える。でも、まだ信じられなかった。
かつて、この世界を支配したという邪悪な存在。それが蘇り、災厄をもたらす・・・。
そんな話を、すぐには信じられなかった。
でも。
「でも、止める。私が・・・私たちが、必ず」
母は頷き、微笑んだ。けれどその瞳は、鋼のように強く、決意に燃えている。
「その意志がある限り、私たちは決して負けない。あいつを見て、わかったでしょう?敵は、とても恐ろしい存在なの。でも、あれは始まりにすぎない。もし門が開かれたら、その先にはもっと恐ろしいものが待っている」
「異界の門・・・」
私たちが目指している場所。全ての元凶——ガラネルが封印されている場所。
・・・いや、正確には「されていた」のかもしれない。
ある意味、ガラネルの封印はもう解かれているのかもしれない。
馬を失った騎士たちは、簡易の治癒魔法で応急処置を施しながら、再び隊列を整えていた。
そして、ここからは徒歩になりそうだな、と言っていた。
「・・・セリエナ様、アリア様。申し訳ありませんが、ここからは徒歩で行きましょう。我々は、すぐにでも再出発できます」
隊長が近寄ってくる。
彼の声にも、焦りと緊張が滲んでいた。
「・・・瘴気の濃さが増している。門が近い証拠ね。行くわよ、アリア」
「うん」
私は再び杖を握り直す。
震えてなどいられない。この世界を守るために、母の力になりたい。
私がこの世界に転生した意味を、見つけるためにも。
(もう、逃げない)
前世の——いじめられて、死を選んだあの時の私は弱かった。
弱くて、何もできなかった。
だけど、今は違う。
私は炎を持っている。戦う力を持っている。
私はもう一度空を見上げた。
赤く染まる夕陽の中に、黒い雲が広がっていく。まるで、世界にこれから訪れる戦乱を告げているかのようだった。
「さあ、行きましょう」
母はそう言って、先頭に立った。
──この、揺るぎない意志に満ちる背中と、燃える赤髪は、転生してからずっと続く、私の憧れそのものだ。
私は一歩、そしてまた一歩と、母の後を追う。
焦げた土の匂いと、重たい瘴気が肌を刺してくる。それでも足を止めることはない。
「瘴気がきついな・・・セリエナ様、アリア様。瘴気の濃度がこれ以上上がる前に、早く山を越えましょう」
騎士団の隊長が、岩陰から手招きしていた。
その声が震えているのは、瘴気のせいだけじゃない。
きっと彼も、今この瞬間に感じているのだろう。
この先に何か、異常なものが待っていることを——。
「母さん」
「なに?」
「もしガラネルが・・・完全に目覚めたら、どうなるの?」
私の問いに、母は立ち止まった。
そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
燃えるような赤い瞳が、まっすぐ私を見据える。
「その時は・・・この世界は、焼き尽くされるでしょう。怨嗟、憎悪、絶望の炎でね」
心臓が冷たくなる。でも、その冷たさの奥で、またひとつ炎が灯った。
私はもう、ただの女子高生じゃない。もう、逃げ出した過去の私じゃない。
「止めるよ、私たちで」
母は微笑む。ほんの少し、哀しげに。
それでも、私の胸に届く温かさがあった。
「そうね。アリア、あなたがそう言ってくれるなら・・・私は、何度でもこの命を燃やせる」
その言葉は、私の心に火を灯す呪文みたいだった。
前世で失ったもの、痛み、恐怖、絶望・・・すべてを燃やして、前に進める。
私は、もう逃げない。
母と共に、この世界を守るために。
私が生まれた意味を、ここで見つけるために。
瘴気の向こうに、異界の門が見えてきた。
漆黒の岩が蠢き、赤黒い光が脈動している。
それを見て、母が唸った。
「封印が、崩れかけている・・・」
あの中に、かつて世界を滅ぼしかけた存在がいる。
正直、ここからでも邪悪なオーラを感じる。
でも。
「行こう、母さん」
私は杖を握りしめる。炎の力が、手の中で脈打っていた。
私が母さんから受け継いだのは、あらゆるものを焼き尽くす炎の力。けれどそれは、守るためにも使える力だ。
「ええ、アリア」
二人並んで、異界の門へと歩き出した。
もうすぐ、戦いが始まるだろう。
でも、私は逃げないし、目を背けることもしない。
この命が尽きるその瞬間まで、私は、私を裏切らない。
途中、母が私の肩に手を置いて言ってきた。
「大丈夫。あなたと私なら、上手くやれる」
「・・・うん、ありがとう、母さん」
私は微笑んだ。
母は優しく頷き、私の髪を一度だけ撫でる。
「さあ、進みましょう。ここまでくれば、ゴールはもうすぐ。何かが起きる前に、着かないと」
私は頷き、騎士たちとともに再び歩き出した。血の荒野を越え、闇の気配が濃くなる方角へ。誰も足を踏み入れたことのない、禁断の地へ。
そこに待っているのは、破滅か、それとも──。
なんでもいい。私は・・・どんな運命でも受け止めてみせる。
私の物語は、まだ始まったばかりだ。