小規模ダンジョン演習の日は、すぐにやってきた。
学院から少し離れた演習場──森の奥にぽっかりと口を開けた、訓練用のダンジョン。
本物のダンジョンを封印して管理している、安全な場所だと先生は説明していた。
それでも、胸の奥は小さく震えている。
「こわい?」
並んで歩くシルフィンが、小さくたずねた。
「・・・ちょっとだけ。でも、大丈夫」
私は微笑んで答えた。 だって、シルフィンも、ライドも、マシュルも、隣にいる。──今度は、一人じゃない。
森の中、白く濁った空気の向こうに、ダンジョンの入口が見えてきた。
まるで、異界へ続く裂け目みたいに、黒く、冷たく、静かに広がっている。
「各班ごとに順番に入る。中での行動は、必ずペアで」
レシウス先生の声が、澄んだ空気に響いた。
「アリアとシルフィンはペア。ライドとマシュルもだ」
「おっし!マシュル、行こう!」
「はいはい・・・お手柔らかに頼むわ」
二人のやり取りに、少しだけ緊張が和らいだ。 私とシルフィンは、軽くうなずき合って、ダンジョンの入口を見据える。
「行こうか、アリア」
「うん」
足を踏み入れた瞬間──世界が、変わった。
ひんやりとした空気。 湿った石の匂い。
青白く光る苔が、壁や床に生えていて、かすかな光を放っている。
静寂の中で、私たちは歩き出した。
──カツン、カツン。
小さな足音だけが響く。
「・・・なんか、思ったより静かだね」
シルフィンが、ぽつりとつぶやいた。
そのときだった。
──バサッ。
何かが頭上から降ってきた。
「っ!」
私はとっさにローブをかざして身を守る。 落ちてきたのは、羽虫のような魔物だった。透明な羽を持ち、小さな針をこちらに向けている。
「『ソロファイア』!」
シルフィンがすばやく魔法を放つ。
赤い炎の玉が、羽虫を焼き払った。
私も、杖を握りしめる。
「『ファイア・スラッシュ』!」
振り下ろした杖の先から鋭い炎の刃が走り、もう一匹を切り裂いた。 魔物は小さな悲鳴を上げて、蒸発するように消える。
「ナイス、アリア!」
「シルフィンも!」
二人で顔を見合わせ、息を弾ませる。 ──戦えた。 魔物を前にしても、ちゃんと、体が動いた。
だけど、そのとき。
ふと、胸の奥に、奇妙な感覚が湧き上がった。
これは──デジャヴ?
どこかで、こんな光景を、私は……知っている。
異世界の石畳。 苔のにおい。 重く湿った空気。それは、たしか、私が"生きていた頃"には、存在しなかったはずのもの。
だけど、懐かしい。
──どうして。
ぼんやりと、誰かの声がよみがえる。
《・・・ここじゃ、誰も助けてくれないよ》
ぞくりと背筋が冷える。
違う。 ここは、あの場所じゃない。 私は、もう、一人ぼっちじゃない。
「アリア?」
シルフィンの声で、はっと我に返った。
「ごめん、なんでもない」
私は首を振り、小さく笑った。 ・・・ここはゼスメリア魔法学院。 私は、アリア・ベルナード。 炎の大魔女セリエナの娘、炎の魔女。
そして──この世界で、もう一度、生きるために生まれた。
「・・・行こう、シルフィン」
「うん!」
私は杖を握り直し、シルフィンと並んで、ダンジョンの奥へと進んだ。
この炎は、絶対に消さない。 たとえ、どんな過去に囚われても。
──私は、私の道を、歩く。
しばらく進むと、異変が起こった。
突如床に走った光が、私たちを引き裂いた。
地面が大きく割れ、私とシルフィンは引き離されてしまった。
「アリア!大丈夫!?」
「うん・・!」
「よかった・・・でもこれも、演習のうちなのかも・・!」
「え?二人一組での試験なのに?」
「・・・うーん、どうだろう。とにかく、どこかで合流できないかな。このまま進んでみる」
「私もそうするよ。気をつけてね!」
焦る気持ちを抑えながら、私は周囲に意識を集中させた。 ──湿った空気、石の壁。微かに漂う、獣の匂い。
ダンジョンの奥は、思ったよりも暗く、静かだった。 でも、その静けさの向こうに、なにかが潜んでいる気配がする。
慎重に進もう。
シルフィンと分断されてから、しばらく進んだ。
ダンジョンの中は、まるで生きているみたいだった。 ときおり、壁のひび割れから霧のような魔力が漏れ出し、足元を這う。
なんだか不気味だな、と思っていたその時。
──ズシン・・・ズシン・・・
重い地鳴りのような音が、地面を震わせた。
「・・・何の音?」
私は杖を掲げ、『プルペリナ』の魔法を唱えた。
これはいわば探知魔法で、近くにいる生物の位置が見えるようになるのだ。
すると、右側の壁の向こうに人の形の影が見えた。
あれは、きっとシルフィンだ。
「シルフィン!聞こえる?」
叫ぶと、すぐに返事が返ってきた。
「アリア!?どこ!?」
「下がって!今から、この壁を壊す!」
「えっ・・・?そんなことできるの!?」
「いけると思う・・・『
そうして私は、『
炎の槍を投げつけ、石の壁を焼き、破壊した。
その向こうには、シルフィンの姿が。
「すごい・・・本当に!」
私はシルフィンの手を取り、軽く引いた。
「さあ、行こう」
それからは一本道で、迷うことはなかった。
しかし。
「アリア、あれ・・・!」
シルフィンの指差す先、ダンジョン内に立ち込める真っ白な霧の向こうに──巨大な影がいた。
現れたのは、黒い甲殻に覆われた異形の魔物だった。 4本の太い腕を持ち、背中には禍々しい棘が生えている。
眼は血のように赤く、こちらを睨みつけていた。
以前、本で見たことがある・・・「グローム・ガルム」。サソリに近い、上級の魔物だ。
でも、ここはあくまでも学校の演習ダンジョンだ。本来は、こんなものは出てこないはず。
「これ、上級の魔物だよね・・・どうして、こんなものが・・・」
「わかんない・・・でも、戦うしかない!」
私は、胸の奥に燃える炎を呼び起こした。 ──前に進むしかない。 怯えたら、負けだ。
「私が攻める!シルフィン、援護して!」
「任せて!」
私は魔力が強く、魔法の威力が過剰になりやすいため、普段魔法を唱える際は注意しなければならない。
でもそれは、こういう時にはむしろ役に立つ。
二人同時に、魔力を解き放つ。
私の手に集まるのは、鮮烈な炎の力。シルフィンの手にも、眩しい炎が灯った。
「『ファイア・レイ』!」
私が放った炎の剣が、グローム・ガルムの片腕を焼く。 だが、奴は怯むどころか、うなり声を上げて突進してきた。
「速い・・・!」
咄嗟に横に跳びのく。
背後で、シルフィンも同じように回避していた。
「『フレイム・バリア』!」
シルフィンが素早く防御魔法を張る。
炎の膜が、グローム・ガルムの爪を弾いた。
──だけど。
(強い・・・!)
『ファイア・レイ』を使ってわかった。初級魔法では、まともなダメージが入らない。
攻撃を避け続けても、いずれ追いつめられる。
心臓がドクドクと脈打つ。呼吸が浅くなる。
──そのときだった。
走馬灯みたいに、頭の中に光景が流れ込んできた。
寒い教室。 冷たい視線。 机に刻まれた、醜い文字。
──私は、いじめられていた。 誰にも、助けてもらえなかった。 だから、私は──飛び降りた。
胸を刺す痛み。 落ちる感覚。
それは、忘れようとした前世の記憶。
でも──。
(私は・・・今、違う)
私は、アリアだ。 セリエナ・ベルナードの娘として生まれた。 そして──今ここに、仲間がいる。
「私は、負けない!」
叫ぶと同時に、全身から炎があふれた。
──ゴウッ!と音を立てて空気が震え、炎が渦を巻く。
「《インフェルノ・ブレイズ》!」
私の手のひらから放たれたのは、燃え盛る大きな火球。
それは轟音とともにグローム・ガルムに直撃した。
奴の甲殻が、音を立ててひび割れる。 苦しみの咆哮を上げて、ぐらりと身体が揺れた。
「今だよ、アリア!」
シルフィンが、私の隣で声を上げる。 彼女も、最大限に炎を集中させている。
二人で、一斉に放つ。
「「《ダブル・フレイム・バースト》!!」」
二つの炎が重なり、巨大な火柱となって魔物を呑みこんだ。
──そして。
ドサァン、と、グローム・ガルムが崩れ落ちた。
静寂が訪れる。
「・・・やった、ね」
シルフィンが、汗を拭いながら笑った。
私も、へたり込みながら笑い返す。
「・・・うん。すっごく、怖かったけど」
でも、負けなかった。
私は、私を捨てなかった。
炎の温もりが、まだ手のひらに残っている。私はそっと、それを胸に抱きしめた。