目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

40.灯し火

 訓練を終え、日はすっかり傾いていた。

赤く染まった空を見上げながら、私は静かに玄関の扉を開けた。


「ただいま・・・」


家の中は静かで、どこか張り詰めた空気があった。

靴を脱いで廊下を歩いたその時、奥の部屋から炎の揺らめく気配が伝わってくる。


「・・・帰ったのね、アリア」


 その声に思わず背筋が伸びる。母だ。

いつもは柔らかい微笑を見せてくれる母の声が、今日は少しだけ硬い。


扉を開けると、母は座敷の中央に立っていた。ランプの火がゆらゆらと赤髪を照らし、瞳の奥で小さな炎が灯っていた。


「・・・クレメンスから、話は聞いたわ」


 母の手元にある、ロケットのような石が光っている。・・・なるほど、魔力通信石か。

遠くにいる相手と話ができる、この世界の通信機のようなもの。


「あの人、“君の娘は、実に優れた炎の使い手だ”って、言っていたわ。・・・“炎に呑まれかけた”ともね」


その言葉に、私は思わず手のひらを握った。まだ、火傷の痕が熱を持っている。


「母さん・・・」


「アリア。今日から夜は、私が訓練をつけるわ」


 言葉の端に、迷いはなかった。

母はただ、私を真っすぐに見つめていた。


「え・・・でも、学院での訓練があるし──」


「関係ない。あなたが炎に飲まれたのは、“魔力”のせいじゃない・・・“心”よ。あなたの中の、悲しみや怒りや孤独・・・それらが、炎と共鳴したの」


 母の言葉に、私は何も言い返せなかった。


「・・・あなたがそのまま進めば、いずれ誰かを傷つける。私と同じように」


そう言って、母は袖をまくった。そこには、昔の火傷の痕がいくつも刻まれていた。


「私は、あの頃・・・大切な人さえ燃やしかけた。自分の“弱さ”に気づかなかったから」


 その横顔は、少しだけ悲しそうだった。


「だから、私はあなたに同じ過ちをさせたくない。アリア、立って。今から“心を燃やす”訓練をするわ」


母は片手を差し出し、掌にぽうっと小さな炎を灯した。

それは、温かくて優しい火だった。

怒りでも、憎しみでもない、まるで灯火のような──人の想いが形になったような炎。


「・・・これは?」


「“灯し火”よ。怒りや衝動ではなく、自分の中にある“願い”を火に変える魔法。私はこれを身につけるのに、五年かかったわ」


 私は唾を飲んだ。母が五年かけたことを、私が今から?


「あなたが、すぐにできるとは思ってない。でもね、アリア。これは、あなたにしかできない“火”の在り方でもあるのよ」


私は、深く息を吸って母と向き合った。

一度、自ら命を捨てた私に、母がくれた命。そして炎。


私はそれを、本当に受け継ぐのだ。


「・・・お願いします、母さん」


母の炎が、私の掌に重なる。


 その夜、私は初めて“温かい”炎というものに触れた気がした。

それは破壊でも爆発でもない、確かなぬくもり。誰かを守りたいという、心のかたちだった。


──そしてこの夜から、母娘の本当の”訓練”が始まった。




 母と向き合い、掌に触れた炎の温もりは、私の胸の奥にそっと染み込んでいった。


「いい?まずは、“願い”を思い浮かべて」


母の声は落ち着いていて、どこか祈りのように響いた。


「力が暴走する時、心は必ず何かに囚われている。怒り、憎しみ、恐怖・・・。でも、“願い”は違う。誰かを守るために、生まれる力。だから、制御できるの」


 私は、そっと目を閉じた。暗闇の中に浮かぶのは、過去の記憶──私を嘲笑い、無視し、いじめてきたあの教室の光景。

学校の屋上から見下ろした世界。終わらせたかった日々。痛み。そして・・・ここでの、再生。


セリエナという母。私を呼んでくれる仲間。

まだ名前も知らないけど、心に触れてくれた人たち。──守りたい、失いたくない、あたたかな絆。


 その時、指先にぽっ、と何かが灯った気がした。


「・・・あっ」


目を開けると、私の手のひらに、小さな火が揺れていた。

母の炎に似ていたが、色は少し違っていた。どこか赤みが強く、でも尖ってはいない。


不思議なことに、熱くなかった。ただ、懐かしい体温のように、心に安らぎをくれる火。


 母はそれを見ると、微笑んだ。


「・・・それが、あなたの“灯し火”ね」


「・・・これが、私の・・・」


 まるで、自分の中に眠っていた何かが、目を覚ましたような感覚だった。


「その火を、これから育てていくの。大切に、大切にね。強さは、力じゃない。“想い”を灯し続ける勇気よ」


母はそう言って、私の肩にそっと手を置いた。温かい手だった。


「・・・でも、灯し火は簡単に消えるわ。迷った時、怖くなった時、誰かを恨みそうになった時・・・その火は弱まる。その時こそ、自分に問いかけるの。“私は、何のために戦うのか”って」


 私は、静かに頷いた。




 その夜、母と向き合いながら、何度も“灯し火”を出そうとした。出たり、消えたり、不安定な炎。でも、消えてもいいと言われた。何度でも灯せばいい、と。


そうして私は、一晩中、心の火と向き合った。



 夜が明ける頃、私の掌には、昨日よりも少しだけ強くなった火が残っていた。


それはまだ小さな炎だけれど、確かに“私自身”の光だった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?