夕暮れの光が、石造りの廊下を赤く染めていた。
学院から戻った私は、少し迷ってから扉を開いた。
母がいる部屋の前。心なしか、今日は扉の向こうから炎のゆらぎが強く感じられる。
扉を開けると、母はいつも通り椅子に座って、暖炉の前で読書をしていた。
けれど、私の顔を見るなり、赤い瞳がそっとこちらに向けられる。
「おかえり、アリア。・・・今日は少し、落ち着かない魔力の匂いがするわね?」
母の言葉は、時折本質を突いてくる。
私は小さくうなずいて、正面の椅子に腰を下ろした。
「母さん・・・私、留学に選ばれたの」
「・・・ あら」
驚いたような、でもすぐに理解したような、淡い笑みが母の唇に浮かんだ。
「どこへ?」
「ずっと、北の“アルフィーネ魔法学院”ってところ。半年間の国際交流で、ゼスメリアの代表として派遣されることになったの」
自分でも、ちゃんとした声が出ていることに少し驚いた。
母はゆっくりと本を閉じた。炎のような長い髪が肩に流れ、その瞳がまっすぐに私を見つめてくる。
「・・・あなたが、選ばれたのね」
「うん。・・・でも正直、ちょっと怖い」
ぽつりと漏れた言葉に、母はほんの少しだけ目を細めた。
「アリア、怖がることは悪くないわ。恐れを知る者だけが、“本物の力”を手に入れられる」
「・・・本物の力?」
「ええ。力というものは、炎と同じ。扱いを間違えれば、すぐに他人も・・・自分すらも焼き尽くす。だからこそ、恐れることは必要なの。自分が何者かを忘れないために」
静かな声だった。でも、胸の奥に染み込むように、私の中に届いてくる。
母はゆっくりと椅子から立ち上がり、私の前まで歩み寄った。
そして私の頬にそっと手を当てて、炎のようなぬくもりをくれた。
「あなたは私の娘だけど、その前に“アリア・ベルナード”という一人の魔女。どこに行っても、何を学んでも、その芯を見失わなければ、きっと乗り越えられるわ」
「・・・うん。わたし、行ってくる」
「誇りを持っていきなさい。そして、忘れないでね・・・あなたの炎は、誰かを傷つけるものじゃない。灯すための炎」
母の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、気のせいじゃないと思う。
私は母の手をぎゅっと握って、小さくうなずいた。
「ありがとう、母さん。・・・帰ってきたら、もっと成長した私を見せるから」
「ええ。待ってるわよ、アリア」
その言葉とともに、炎のような温もりが、私の心の奥まで静かに広がっていった。
朝靄の残る街の空気は、ほんの少しひんやりしていた。
学院の馬車が迎えに来る時間まで、あと少し。
私は玄関の前に立ち、肩から下げた小さな鞄をぎゅっと握りしめた。半年分の衣類と筆記具、そして母が選んでくれた赤い手帳が入っている。きっと、これだけで充分。
背後の扉が静かに開く音がして、私は振り返った。
母が、そこにいた。
いつもと同じ黒いドレスに、炎のような髪。けれど今朝の母は、なぜだか少し、遠くを見るような眼差しだった。
「準備はできた?」
「・・・うん」
それだけの言葉が、やけに重たくて、喉の奥が少し詰まった。
母は私のそばまで歩いてきて、鞄の紐がねじれているのを直してくれた。
その指先は、いつも驚くほど柔らかい。
「気をつけてね。アルフィーネは寒いわ。肌が乾くから、火の使い手には慣れない気候かもしれないけれど・・・」
「大丈夫。炎の魔法で、ちょっとはどうにかなるでしょ?」
笑ってみせると、母もふっと唇の端を上げた。
「そうね。けれど、炎に頼りすぎないこと。寒さの中にある美しさや、氷の魔法が教えてくれる静けさも・・・きっと、あなたの糧になるわ」
それは炎の大魔女、セリエナ・ベルナードとしての言葉であり、母としての願いでもあると、すぐにわかった。
「うん、ちゃんと見る。ちゃんと学んで、ちゃんと帰ってくるよ。・・・母さんがくれた、この名前で」
そう言ったとき、母の手が私の頭に触れた。
撫でられるのは、やはり嬉しいものだ。
「・・・いってらっしゃい、アリア」
「・・・いってきます」
その瞬間、馬車の蹄の音が遠くから響き始めた。
私はひとつだけ深呼吸をして、扉の外へと踏み出す。
まだ幼い私が、この先にどんな世界を見るのかは、わからない。けれど、この朝の光と、母の手の温かさは、きっとずっと忘れない。
赤いマントを翻して、私は馬車に向かって歩き出した。
この世界に転生してから、八年。
生まれてからずっと暮らしてきたレフェの地を出て、私は異国の地を踏む。
新しい物語の幕開けだ。
はじまりの雪 ― アルフィーネ魔法学院到着
白い世界が、果てしなく広がっていた。
馬車がトーレ王国の首都を抜けて山道に入ったころから、景色は一変した。
見渡す限りの雪原と、凍った湖。そして空までもが淡く白く、まるで世界ごと息をひそめているようだった。
・・・寒い、なんてものじゃない。私の炎魔法じゃどうにもならないほどの、芯から冷える空気。
赤いマントを肩までかぶっていても、頬がひりつく。
「ようこそ、アルフィーネ魔法学院へ」
馬車を降りた私を出迎えたのは、白銀の髪をもつ女性だった。
淡い青のローブを纏い、雪の精のような気配をまとうその人は、学院の教員だという。
「私はアイラ,グラシエル。あなたの滞在期間中、担当を務める者よ」
「・・・よろしくお願いします」
ぎこちない挨拶にも、彼女はふわりと微笑んだ。
学院は、山の中腹に建てられた古城だった。雪に埋もれた石造りの塔と、氷のように冷たいアーチ。
それでいて、魔力の流れは静かで澄んでいて、どこか祈りにも似た気配を感じた。
ここが、氷の大魔女に守られた地。
私がこれから半年を過ごす場所──アルフィーネ魔法学院。
「さあ、中へ入りましょう。今日からここが、あなたの学び舎になります」
城門をくぐると、ひんやりとした空気がさらに濃くなった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
冷たいだけじゃない。この地にも、きっと“灯るもの”がある。
母が言っていた静けさの中の美しさ。それを、この目で見つけてみたいと思った。
私は荷物を背負い直し、ゆっくりと石畳を踏みしめた。
異国の地に立つ、ただひとりの炎の魔女としての・・・新しい日々が、ここから始まる。