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43.旅立ち

 夕暮れの光が、石造りの廊下を赤く染めていた。


学院から戻った私は、少し迷ってから扉を開いた。

母がいる部屋の前。心なしか、今日は扉の向こうから炎のゆらぎが強く感じられる。


 扉を開けると、母はいつも通り椅子に座って、暖炉の前で読書をしていた。

けれど、私の顔を見るなり、赤い瞳がそっとこちらに向けられる。


「おかえり、アリア。・・・今日は少し、落ち着かない魔力の匂いがするわね?」


母の言葉は、時折本質を突いてくる。

私は小さくうなずいて、正面の椅子に腰を下ろした。


「母さん・・・私、留学に選ばれたの」


「・・・ あら」


 驚いたような、でもすぐに理解したような、淡い笑みが母の唇に浮かんだ。


「どこへ?」


「ずっと、北の“アルフィーネ魔法学院”ってところ。半年間の国際交流で、ゼスメリアの代表として派遣されることになったの」


自分でも、ちゃんとした声が出ていることに少し驚いた。


 母はゆっくりと本を閉じた。炎のような長い髪が肩に流れ、その瞳がまっすぐに私を見つめてくる。


「・・・あなたが、選ばれたのね」


「うん。・・・でも正直、ちょっと怖い」


ぽつりと漏れた言葉に、母はほんの少しだけ目を細めた。


「アリア、怖がることは悪くないわ。恐れを知る者だけが、“本物の力”を手に入れられる」


「・・・本物の力?」


「ええ。力というものは、炎と同じ。扱いを間違えれば、すぐに他人も・・・自分すらも焼き尽くす。だからこそ、恐れることは必要なの。自分が何者かを忘れないために」


 静かな声だった。でも、胸の奥に染み込むように、私の中に届いてくる。


母はゆっくりと椅子から立ち上がり、私の前まで歩み寄った。

そして私の頬にそっと手を当てて、炎のようなぬくもりをくれた。


「あなたは私の娘だけど、その前に“アリア・ベルナード”という一人の魔女。どこに行っても、何を学んでも、その芯を見失わなければ、きっと乗り越えられるわ」


「・・・うん。わたし、行ってくる」


「誇りを持っていきなさい。そして、忘れないでね・・・あなたの炎は、誰かを傷つけるものじゃない。灯すための炎」


母の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、気のせいじゃないと思う。


私は母の手をぎゅっと握って、小さくうなずいた。


「ありがとう、母さん。・・・帰ってきたら、もっと成長した私を見せるから」


「ええ。待ってるわよ、アリア」


 その言葉とともに、炎のような温もりが、私の心の奥まで静かに広がっていった。






 朝靄の残る街の空気は、ほんの少しひんやりしていた。

学院の馬車が迎えに来る時間まで、あと少し。


私は玄関の前に立ち、肩から下げた小さな鞄をぎゅっと握りしめた。半年分の衣類と筆記具、そして母が選んでくれた赤い手帳が入っている。きっと、これだけで充分。


 背後の扉が静かに開く音がして、私は振り返った。

母が、そこにいた。


いつもと同じ黒いドレスに、炎のような髪。けれど今朝の母は、なぜだか少し、遠くを見るような眼差しだった。


「準備はできた?」


「・・・うん」


 それだけの言葉が、やけに重たくて、喉の奥が少し詰まった。


母は私のそばまで歩いてきて、鞄の紐がねじれているのを直してくれた。

その指先は、いつも驚くほど柔らかい。


「気をつけてね。アルフィーネは寒いわ。肌が乾くから、火の使い手には慣れない気候かもしれないけれど・・・」


「大丈夫。炎の魔法で、ちょっとはどうにかなるでしょ?」


 笑ってみせると、母もふっと唇の端を上げた。


「そうね。けれど、炎に頼りすぎないこと。寒さの中にある美しさや、氷の魔法が教えてくれる静けさも・・・きっと、あなたの糧になるわ」


 それは炎の大魔女、セリエナ・ベルナードとしての言葉であり、母としての願いでもあると、すぐにわかった。


「うん、ちゃんと見る。ちゃんと学んで、ちゃんと帰ってくるよ。・・・母さんがくれた、この名前で」


そう言ったとき、母の手が私の頭に触れた。

撫でられるのは、やはり嬉しいものだ。


「・・・いってらっしゃい、アリア」


「・・・いってきます」


 その瞬間、馬車の蹄の音が遠くから響き始めた。

私はひとつだけ深呼吸をして、扉の外へと踏み出す。


まだ幼い私が、この先にどんな世界を見るのかは、わからない。けれど、この朝の光と、母の手の温かさは、きっとずっと忘れない。


 赤いマントを翻して、私は馬車に向かって歩き出した。


この世界に転生してから、八年。

生まれてからずっと暮らしてきたレフェの地を出て、私は異国の地を踏む。

新しい物語の幕開けだ。





はじまりの雪 ― アルフィーネ魔法学院到着


 白い世界が、果てしなく広がっていた。


馬車がトーレ王国の首都を抜けて山道に入ったころから、景色は一変した。

見渡す限りの雪原と、凍った湖。そして空までもが淡く白く、まるで世界ごと息をひそめているようだった。


 ・・・寒い、なんてものじゃない。私の炎魔法じゃどうにもならないほどの、芯から冷える空気。

赤いマントを肩までかぶっていても、頬がひりつく。


「ようこそ、アルフィーネ魔法学院へ」


馬車を降りた私を出迎えたのは、白銀の髪をもつ女性だった。

淡い青のローブを纏い、雪の精のような気配をまとうその人は、学院の教員だという。


「私はアイラ,グラシエル。あなたの滞在期間中、担当を務める者よ」


「・・・よろしくお願いします」


 ぎこちない挨拶にも、彼女はふわりと微笑んだ。


学院は、山の中腹に建てられた古城だった。雪に埋もれた石造りの塔と、氷のように冷たいアーチ。

それでいて、魔力の流れは静かで澄んでいて、どこか祈りにも似た気配を感じた。


 ここが、氷の大魔女に守られた地。

私がこれから半年を過ごす場所──アルフィーネ魔法学院。


「さあ、中へ入りましょう。今日からここが、あなたの学び舎になります」


城門をくぐると、ひんやりとした空気がさらに濃くなった。

けれど、不思議と怖くはなかった。


 冷たいだけじゃない。この地にも、きっと“灯るもの”がある。

母が言っていた静けさの中の美しさ。それを、この目で見つけてみたいと思った。




 私は荷物を背負い直し、ゆっくりと石畳を踏みしめた。


異国の地に立つ、ただひとりの炎の魔女としての・・・新しい日々が、ここから始まる。



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