翌朝。冷気に染まった窓を叩く雪の音で、私は目を覚ました。
支給された制服は、深いネイビーのローブに白いマフラー。そして胸元には、銀糸で刺繍された雪の結晶の紋章。
これは、アルフィーネ魔法学院の象徴らしい。
鏡の前で、少しだけ深呼吸する。
似合っているかなんて、正直よくわからない。けれどこの制服は、ここで“生徒”として認められた証だ。
「・・・行こう」
扉を開けた瞬間、冷気が肌に突き刺さる。
暖炉の火も届かないほどの凍てついた廊下を、私は制服の裾を翻して歩き出した。
講堂に入った瞬間、その空気は一変した。
──静寂。
多くの視線が、私に集まっていた。
白や銀、淡い青の髪に、透き通るような肌を持つ生徒たち。その中で、赤髪赤目の私は、まるで燃える灯籠のように浮いていた。
(・・・わかってはいた。けど、これは・・・)
誰も話しかけてこない。目が合えばすぐに逸らされるか、ひそひそと囁かれる。
「火の魔法使い、だって・・・?」
「この学院に?冗談じゃない」
「火なんて、ここじゃ害にしかならないのに・・・」
この学院には、氷と水に適性がある生徒が多いという。そんな中で、炎への適性を持つ私。
まるで、真っ白な雪原に落ちた火種のような異物。
「気にすることはありませんよ」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには昨夜の女性──アイラ先生が立っていた。
「この学院は厳しい。特に“異なるもの”に対してはね。でも、あなたはそれを乗り越える力を持っていると信じています」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます・・・ 」
講堂の壇上に教師らしき人物が現れ、朝の挨拶が始まる。
静かに整列していく生徒たちの中に、私も混ざる。やや離れた位置に立っていたけれど、それでもいい。
私はここに来た。
誰にも歓迎されなくても、私は歩くと決めた。
その胸の奥に、静かに小さな炎が灯っている。
それは、どれだけ冷たい風にも決して消えない火だった。
初日の講義は、「氷魔法制御基礎」だった。
私にとっては未知の分野。炎の魔法とは真逆にある性質。
雪と氷を操る生徒たちは、どこか誇らしげだった。彼らにとって氷は、誇りであり、矜持なのだ。
「お前、炎の魔法使いだろ?」
声をかけてきたのは、銀色の髪を持つ少年だった。淡い青の瞳は、冷えきった湖のように澄んでいて、それでいて、こちらを測るような目をしている。
「俺はヴァル。三年生。ここの主席だ」
いきなり話しかけてきたと思ったら、そう名乗った。年上らしいけど、背丈は私とあまり変わらない。
「・・・私はアリア・ベルナード。ゼスメリアから来た留学生よ」
「ふうん。ゼスメリア・・・炎の大魔女の国、レフェの学院だったか。そんなとこから、寒さに震えながらも、ここまで来たその勇気は認めるよ」
その口ぶりに、私は少しむっとした。
こいつ・・・ゼスメリアで私に何かと絡んできてた、ジオルと似てる。
「でも・・・炎の魔法は、ここでは通用しない。何もかもが違う。温度も、理論も、魔力の流れさえも」
「それは、知ってる」
「なら、よけいなことはしない方がいい。ここでは、熱は“敵”なんだよ」
言葉は丁寧だけど、まるで氷の刃だった。
私が何かを壊す存在だと、決めつけられているみたいで。
「・・・でも、私は炎の魔法使い。それを否定する気はないし、必要とされてここに来たの。黙って引き下がる気はない」
「ふん。なら・・・その覚悟、見せてみろよ。次の実技でな」
ヴァルはそれだけ言い残して、氷のような足取りで立ち去った。
そして、実技の時間がやってきた。
演習場の中心には、魔力によって冷却された巨大な氷柱がそびえ立っていた。生徒たちはそれを溶かさずに、いかに自在に形を変えられるかを競っていた。
氷の彫刻。魔法の精密制御。
私は氷魔法は使えない。見学するか、と思っていたそのとき・・・。
「アリア・ベルナード。君も挑戦してみたまえ」
指導教官が、私の名を呼んだ。
(私が・・・?)
「魔法の属性は違えど、君の力量を見せてもらいたい。氷ではなく、炎で構わない。氷柱に触れず、かつ周囲の温度に干渉しないよう、制御してみなさい」
なんて無茶なんだ。でも、逃げるわけにはいかない。
私は氷柱の前に立つと、ゆっくりと呼吸を整えた。
右手を前に出し、魔力を指先に集める。
(炎よ・・・私に応えて)
魔力を集中させると、指先にほのかな赤い火が灯る。
それを針のように細く、細く。微細な制御。
氷柱の表面に火が触れるか触れないかの距離で、私は慎重に動かした。
・・・溶けない。けれど、表面に焦げのような色が走り、わずかに模様が刻まれていく。
やがて、表面に浮かび上がったのは・・・雪の結晶の模様。
この学院の象徴を、炎でなぞったものだった。
静寂。
数秒後、生徒たちの間からざわめきが起きた。
「・・・あれ、本当に火でやったのか?すごい制御だ・・・」
「今の・・・ちょっとでもずれてたら、氷が割れてたよな・・・?」
そして、ヴァルが呟いた。
「・・・ 見事だな」
私は息を吐きながら、火を消した。
指先はほんのり熱を帯びている。でも、それは誇らしい痛みだった。
そのとき初めて、周囲の空気が少しだけ、柔らかくなったような気がした。
冷たい静寂が、分厚い本棚の隙間を満たしていた。
ここは、アルフィーネ魔法学院の北棟最上階にある《氷の図書室》。
水と氷の魔法の研究に特化した文献が集められたこの場所は、年少の生徒にとっては寒すぎて長くいられない。
けれど私は、ある理由で今日ここを訪れていた。
炎の大魔女セリエナの娘である私にとって、この空間は本能的に「合わない」。けれど、どこか、惹かれるものがあった。
・・・もしかしたら、母の手を離れて、誰も知らない“私だけの居場所”を探していたのかもしれない。
その時だった。
ふと、視線を感じて振り向いた先。
一つ奥の書架の影に、誰かが座っていた。
雪のように白い髪。
透けるような肌。
淡い青の瞳が、じっとこちらを見ていた。
「・・・誰?」
私は声をかけた。けれど、彼女は答えない。
ただ本のページを静かにめくり、まるでその音がすべての返事だと言わんばかりに。
「ここ、寒くないの?」
「・・・慣れてるから。私は・・・氷に守られて生まれたから」
彼女の声は、まるで氷の粒が並んだような、か細く透明な音だった。
だけどその目は、私のどんな言葉よりも多くを語っていた。
「・・・名前、聞いてもいい?」
私の問いに、彼女はほんのわずかに目を伏せ、そしてゆっくりと口を開く。
「ユエ。ユエ・フェルシュタイン」
「私は・・・アリア。アリア・ベルナード」
その瞬間。
ユエの表情が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
でも、それが気のせいではなかったことを、私は後になって知る。
彼女の心に・・・そして私の過去に、確かに「三春」という名が、どこかに重なっていたのだから。