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45.赤と白の邂逅

 名前を名乗った瞬間、心臓が一瞬だけ、跳ねた。


アリア。

その名を聞いた時、氷のように沈んでいた記憶の底が、音もなくきしんだ。


(まさか、ね・・・)


 ユエ・フェルシュタインは、アリアの顔をじっと見つめる。

その紅の瞳。長く、夕陽のような赤髪。

そして──どこか、悲しみを押し殺したような、笑い方。


それは、どこか懐かしいものを思い起こさせた。


(あの人に、似てる・・・)


高校の時、時々すれ違っていた女の子。

名字は確か――「鈴木」。

教室でいつも、縮こまっていた子。

誰も庇わなかった。先生も、クラスも、誰も。自分も。


 直接いじめていたわけではない。でも、自分も見て見ぬふりをしていた──“傍観者”だった。


三春は、何度か声をかけてくれた。廊下で目が合ったときや、部室の帰り道。

部活は違った。でもあの人は、なぜか自分を見ていた。


「・・・どうしたの?」


 アリアが不思議そうに問いかけてきた。

その声に、また鼓膜の奥が震える。


三春。──やっぱり、似てる。話し方も、声も。


「・・・なんでもない。ちょっと、似てる人がいて」


自分でも、ひどい誤魔化し方だと思った。

でも、それしか言えなかった。


 だって。まさか、転生なんて。

死んだはずの人間と、別の世界で再会するなんて・・・そんな非現実を、すぐには受け入れられない。


(・・・でも。もしあの人が、本当に・・・)


もし、そうだったなら。

次こそは、自分は何かを変えたい。

何かを、やり直したい。


 そう、強く思った。







 教室の窓際の席で、本を読んでいる子がいた。


真っ赤な表紙の文庫本。

何の小説かは知らない。でも、その子がページをめくる手はいつも静かで、どこか張りつめた空気を纏っていた。


・・・鈴木三春。

隣の席だったこともあるし、グループ分けで一緒になったこともあった。

でも、私たちは友達じゃなかった。


 中学も部活も違う。話すきっかけもなかった。

私は合唱部で、放課後はいつも練習に出ていた。彼女はテニス部だったと聞いている・・・直接見たことはないが。


彼女はよく、机に落書きをされた。ロッカーの中にゴミを入れられた。水筒の中身をすり替えられていたこともあった。

机の引き出しの中に、虫の死骸が入っていた日も。


・・・全部、見て見ぬふりをした。


怖かったから。

次に標的にされるのが、自分かもしれないと考えたから。


「関わらなきゃいい。黙ってれば、自分は守られる」そう思っていた。


 でも──あの日。放課後の廊下で、彼女に声をかけられた。


「・・・歌、上手だったね。発表会、聞いてた」


あまりに唐突で、私は一瞬言葉を返せなかった。


 彼女は笑っていた。

いじめられ、傷ついているはずのその子が、私に微笑んだのだ。


「ありがとう」

そう返したあと、彼女はそそくさと去っていった。


それが、彼女と交わした最初で最後の、真正面からの会話だった。



 その一週間後、彼女は飛び降り自殺をした。

あまりに突然で、あまりに無力だった。


クラスは口を閉ざした。

「重たい空気は嫌だよね」と言って笑う子もいた。

いじめを主導していた子たちは、平気な顔で学校に通っていた。


 私は何も言えなかった。何も、できなかった。


それから程なくして、今度は私が「標的」になった。


物静かで、目立たず、反抗もしない。

そんな性格は、いじめっ子たちにとって格好の餌だったらしい。


 最初は無視。次に陰口。

やがて、鞄が切られ、上履きがなくなり、顔に水をかけられるようになった。


助けてくれる人は、いなかった。


かつての自分と同じように、みんな黙っていた。何も変わっていなかった。


「どうせ死にたいなら、屋上から飛んでみなよ」


そんな言葉を投げられたのは、冬の朝だった。

あまりに寒くて、指の感覚がなかった。


 そして、ある日・・・私は階段から“落ちた”。


自分の足で落ちたのか、それとも誰かに背中を押されたのか。それはもう、思い出せない。


 目を覚ましたとき、私は雪の中にいた。


氷の結晶が、まるで花のように視界に広がっていた。

遠くで狼の遠吠えが聞こえ、空は曇り、冷たい空気が肺を突き刺した。

それでも私は、生きていた。


その国の名は、トーレ。

極寒の地にして、氷と水の魔法使いたちが暮らす雪の王国。


 私を拾ってくれたのは、辺境の村に住む老いた魔女だった。

名をマウリッツァ。彼女は、私をユエと名付けた。


「おまえは雪の中から生まれた子。名前ぐらい、あっていいさね」


そう言って、温かい毛布をくれた。

私の体は痩せこけていて、髪も凍り、言葉すらうまく話せなかった。

でも、マウリッツァは優しかった。

魔法を教えてくれた。氷を操る術、寒さを凌ぐ術、そして雪の下で育つ薬草のことまで。


「魔法は、生きるためにあるんだよ」


その言葉は、胸に残っている。


 やがて私は、魔法を自在に使えるようになった。

冷たい水を氷柱に変えることもできたし、雪の結晶を舞わせて空を照らすこともできた。

私の魔法は、美しいと言われた。


けれど・・・夜になると、夢を見た。

誰かが落ちる夢。笑われる声。水をかけられる感覚。

あの「屋上の言葉」が、何度も頭の中をよぎった。


 私は転生しても、あのときの自分を許せなかった。

三春を助けられなかったこと。

見て見ぬふりをした自分。

そして、最後に自分も壊れてしまったこと。


何かが足りない。

何かが、まだ、終わっていない。


そう思っていた。


 そして、数年後・・・私はアルフィーネ魔法学院に推薦された。

「氷の結晶を自在に形作る才能がある」と、宮廷の魔女が言ったのだ。


その学院に通い始めて二年。留学生として、別の学院からやってきたのが、アリアだった。


赤い髪に、紅の瞳。炎をまとう少女。私とは正反対の存在。


 でも、どこかで見たことがある気がした。

言葉の節々に、姿勢に、視線の揺れに──私が知っている何かが混じっていた。


「名前、なんて言うの?」


あのとき、私は訊いた。

心の中に、答えを探すように。


そして、彼女が「アリア」と名乗った瞬間、心の奥が、妙にざわめいた。


 忘れるわけがない。あの目。あの声。

それは、かつて私の合唱を褒めてくれた、あの子の・・・三春の瞳だった。



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