アルフィーネ魔法学院での生活は、少しずつ始まっていった。
最初の一週間は、右も左もわからないまま目まぐるしく過ぎた。教科書も施設も、何もかもがゼスメリアとは違っていた──寒さも、言葉の訛りも、制服の材質さえも。
けれど、私はそれを嫌いになれなかった。
どこかで、自分が“過去の自分”から少しずつ離れていける気がしていた。
「ベルナードさん、次は中級氷魔法の演習よ。氷柱の形成速度、上げられるかしら?」
「はい、やってみます」
私は杖を構え、息を吐き、魔力を指先に集めた。
適性でないこともあり、氷の魔法は得意ではない。それでも、火を扱う時とは違う集中が求められるのがわかる。
氷柱が空中に形成されていく。透明で、冷たく、まるで感情を閉じ込めたような魔法だった。
演習が終わると、ユエがこちらに駆け寄ってきた。
「アリア、今日もすごかったよ。私、全然氷の制御うまくできなくてさ・・・!」
「そう? ユエの水流制御のほうが私には無理だけどな」
ふたりで笑い合う。
不思議だった。ほんの数日前まで、彼女はただの“同じ学院の生徒”だったのに。今は言葉を交わすだけで、前世の記憶のどこかがふっと浮かぶ気がする。
芽依・・・彼女の本当の名前を、私はまだ口にしていない。
きっと、それは彼女のほうから言葉にするまで、待つべきものなのだろう。
昼休みには、アルフィーネの食堂で熱いスープとパンを食べた。
ゼスメリアよりも質素だけれど、雪に包まれたこの土地では、温かい一杯が心にしみる。
「ねえ、アリア」
ユエが少し声を潜めて言った。
「・・・あなた、前世のこと、どこまで思い出してる?」
私は少しスープをすするふりをして、時間を稼いだ。
「たぶん、全部。自分が何をして、どうなったか。学校の屋上から、どんな気持ちで落ちたかも」
「・・・そっか」
ユエは、苦しそうに笑った。
「前も言ったけど・・・私、あのあといじめられたの。三春さんがいなくなって、次の標的にされたの」
思わず、スプーンを握る手に力が入った。
「助けられなくて、ごめん」
「・・・違うよ。あれはどうしようもなかった。みんな見て見ぬふりしてて、私も、誰にも言えなかった」
「でも、あなたは覚えていてくれた。私のこと」
それだけで、どこか心の奥が救われる気がした。
私たちはもう、あの教室にはいない。
でも・・・あの地獄のような場所で黙って耐えていた私たちは、今、雪に覆われたこの国で確かに生きている。
だから、私はこの地で学ぶ。
強くなる。必ず、過去を終わらせるために。
ユエとの会話のあと、私は決意を新たにしていた。
──絶対に、もう繰り返さない。
この世界では、守れるものを守る。
そして、もしあいつらに出会ったら、その時は容赦しない。
それからの日々は、氷の国に慣れることで精一杯だった。
極寒の気候、独特の魔力の流れ、そして氷と水の魔法が当然のように使われる環境。
この国では、炎属性の魔法は“異端”に近い。
けれど私は、折れなかった。この世界に転生してから、私は努力してきた。
炎以外の魔法に対する適性は、正直言ってほとんどない。けれど、それでも──水と氷の基礎魔法だけは、身につけてきた。
苦手だからこそ、やらなくてはならないとわかっていた。
この世界で、生きていくために。そして、自分のために。
「・・・また、一人で特訓ですか?」
声をかけてきたのは、氷魔法専攻の上級生――ローナ=グランティス。
長い銀髪と静かな紫の瞳が、雪の風景と溶け合っている。
「うん。実技試験が近いから」
私は氷の魔力を指先に集中させ、小さな氷片を浮かべる。
それは周囲の生徒たちが朝飯前にやるような、ごく基本的な魔法。でも私にとっては、それでも難しかった。
「・・・氷の魔法、習得していたのですね。あなた、炎の使い手なのに」
ローナの目に、少し驚きが混じる。
ここでは、“炎”の魔法を使えることはあまり評価されない。
初日に向けられたあの目線からもわかる通り、氷と水の流派が支配的なアルフィーネ魔法学院ではある種の異端者であり、時に奇異の目で見られる。
「苦手だけど、必要だからね。炎しか使えないと、生き残れないってわかってる」
私は素直に答えた。
無理に誇張もしないし、卑下もしない。
ただ、自分にできることを、少しずつでも積み上げてきただけ。
「すごいな、と思うわ。私には、炎を扱うなんてとてもできない」
ローナが微笑む。その言葉に偽りはない。
彼女にとって火は“相容れぬもの”だろう。
でもそれでも、私を否定しなかった。
「・・・ありがとう。でも、私は炎を手放す気はないよ。どれだけ浮いても」
炎は、転生した時に母から受け継いだものであり、私の原点だ。
怒り、悲しみ、希望・・・私のすべてが燃えていた記憶の残滓。
炎は、三春の遺志そのものでもある。
「その炎が、誰かを守ることもある。私たちは、そういう世界で生きてるのだから」
ローナの言葉が、胸に染みた。
この世界で生きるには、時に“受け入れ合う”ことが必要なのだろう。私は、まだそれが上手くできない。
でも、少しだけ前に進めた気がした。
夜、寄宿舎の部屋。
私はベッドに座りながら、ユエと談笑していた。
「アリア、あなたって本当にストイックだよね」
「そうかな。自分ではまだまだって思ってるけど」
「炎だけで戦える子なんて、滅多にいないのに。それでも、氷と水までやろうって・・・私なら無理だよ」
「・・・あいつらに会ったとき、後悔したくないだけ」
「そっか」
ユエは少しだけ寂しそうに笑った。
前世で傷を負ったのは私だけじゃない。
ユエもまた、守られなかった一人だった。
窓の外は、白銀の闇。でも私の中には、確かに燃えるものがある。
この世界での力。生きるための強さ。そして、復讐の炎。
“見つけた”。
その言葉が、雪に紛れて、どこかから届いたような気がした。
凍えるような感覚と共に、背筋が冷たくなる。
この世界にいるのは、私とユエだけではない。
“あいつら”も、いる。