留学生活にも少しずつ慣れてきたある日、私は気づいた。
最近、リーネと顔を合わせる機会が、明らかに増えている。
魔導史の講義、魔力制御の実技演習、さらには合同訓練──偶然と呼ぶには、あまりにも重なりすぎていた。
「そこ、足が流れてる。剣を振る前に腰を落とせ」
「・・・ああ、余計なお世話」
そう返したつもりだったのに、私の声は微かに震えていた。
まるで当然のように口を出してくる女、リーネ・シュトラウス。
こちらはただ話しかけられるだけで、指先が凍えるというのに──。
ある午後、図書室の片隅で、私は魔導理論の資料を焦りながらめくっていた。課題の答えが見つからず、ページを繰る手に苛立ちがにじむ。
そのときだった。すっと、一冊の本が横から差し出された。
「それなら、こっちのほうが早い。シェリル・メルダの理論は、前提が違う」
・・・また、あんたか。
「・・・私の課題、見てたの?」
「あんたの顔、見ればだいたいわかるよ。眉間にしわ寄せて、口角下がってたからね」
そんなことを、あっさりと。
他意がないように見えるその自然体が、逆に腹立たしい。
だけど、次の瞬間──彼女の顔が、ほんの一瞬だけ、別の誰かと重なって見えた。
「・・・昔、よく“バカがうつるから喋んな”って言ってくるヤツがいたんだよね。なんで今、それ思い出したんだろ」
心臓が跳ね上がった。
それは・・・「三春」だった頃の私に、何度も投げつけられた言葉。
思わず本を落としそうになった手を、慌てて引き寄せる。
「どうした?」
「・・・なんでも、ない」
そう答えるだけで精一杯だった。
その夜、寮のベッドで私はシーツを握りしめ、ひとりごとのように呟いた。
「覚えてるの?それとも、ただの偶然・・・?」
脳裏をよぎるのは、前世での記憶。
教室で、体育館で、下校途中の道端で――何をしても笑われ、見下され、踏みにじられた日々。
あのときの“野々村愛実”が、もしリーネ・シュトラウスとしてここにいるのなら。
名前も姿も変えて、“親切そうな顔”で、私に助言なんか寄越してくるなんて。
──ふざけるな。
けれど心の奥底で、もうひとつの声が囁く。
「本当に彼女は、あいつなのか?」
「今の彼女は、全く別の人間なのではないか?」
確信は、まだ持てない。
だが、私の中の“復讐の火”は──静かに、だが確実に、燃え続けていた。
翌朝、私はわざと講義の開始ぎりぎりに教室に入った。
できる限りリーネと距離を取るためだった。
でも、現実はそんな思い通りにはいかない。
「おはよ、アリア」
背後から聞こえる、聞き慣れた声。
無言で席についた私の隣に、当たり前のように彼女が腰を下ろす。
「ちょっといい?」
差し出されたのは、講義ノートのコピーだった。
「昨日、途中で抜けたでしょ。私、まとめといたから」
「・・・なんで、そんなこと・・・」
それは問いというより、ほとんど拒絶に近い響きだったと思う。
リーネは不思議そうに私を見て、少しだけ首を傾げた。
「あんた、たまに壁作るよね。なんか……誰かに似てる」
胸の奥がざわつく。
“誰か”──それは、前世の「三春」だとしたら・・・?
彼女はたぶん、私の正体には気づいていない。でも、自分の過去を、少しずつ思い出し始めている。
「シュトラウスさん」
「ん?」
「・・・私に構わないで」
しばしの沈黙ののち、彼女は少し目を細めて言った。
「じゃあ、アリア。あんたが困ってるときも、黙って見てろってこと?」
「ええ。そうして」
リーネは何も言わず、ノートを私の机に置いて静かに席を立った。
胸の奥を、爪でえぐられたような気がした。
その夜、鏡の前で自分の顔を見つめる。
赤髪。赤い瞳。前世にはなかった、美しさと強さをまとった“私”。
でも──心の奥にこびりついたものは、まだ剥がれ落ちていない。
私は忘れていない。
階段の踊り場で背中を押されたことも、教科書に書かれた「死ね」の文字も。
笑いながら「バカ」と言い放った、あの声も――野々村愛実の声も。
──リーネ・シュトラウス。
もし本当にあれが、あの女の転生した姿だというのなら、私は絶対に許さない。
笑顔でノートを差し出してきても、親切に手を差し伸べてきても──
それは、私にとって“刃”にしかならない。
・・・でも。
どうして、あの頃よりも今のほうが、こんなにも胸が痛むのだろう。
夕暮れの学園中庭。
寒空の下、燃えるような夕日が塔の間から差し込んでいた。
私は噴水の縁に腰掛け、足元の凍った水面をじっと見つめていた。
その向かいに、ユエが静かに座っている。
「・・・私が飛び降りた後、次はあなたが標的にされたんだよね」
「ええ。誰も助けてくれなかった。でも、私──最期の瞬間、笑ってたの」
「・・・どうして」
「あなたと同じ場所へ行けるって、そう思ったから」
胸が締めつけられる。
私がいなくなったせいで、ユエを死なせてしまった。
その罪悪感は、今も私の背中にこびりついている。
「でも、こうしてまた会えた。だから私はもう一度、生きる理由を見つけたの」
「・・・復讐のために?」
「ええ。それが正しいかどうかはわからない。でも、あいつは何も失ってない。リーネ・シュトラウスとして、また“普通の顔”で生きてる」
「・・・やっぱり、あの女なんだね」
ユエは小さく頷いた。
「アイツだけじゃない。あのときの連中、みんなこの世界に転生してる」
私は、息をのんだ。
予感はしていた。でも、全員が・・・?
「生まれ変わっても、何も変わってないと思う。相変わらず、誰かを踏みつけて、優越感に浸ってる」
ユエの言葉は静かだが、確かな怒りがにじんでいた。
「・・・許せない。誰かが壊れる前に、止めなきゃ」
「でも、ただ殺すなんてつまらないでしょ。あいつらには、心の底から後悔させてやるの」
「それがいいね。・・・無傷では済まさない。絶対に」
二人の視線が、凍てついた水面の中で交差した。
「じゃあ、同盟を結ぼう」
「・・・同盟?」
「うん。私とあなたで、復讐の同盟を。もう誰も、犠牲にしないために」
私は手を差し出した。
ユエも、迷わずその手を取る。
「・・・復讐のための誓いを」
「ええ、必ず」
夕闇が降り、二人の影が静かに重なっていく。
この誓いが、やがて学園に静かな狂気を呼び込むことなど──まだ、誰も知らなかった。